第23話 離宮のピアノ
離宮のエントランスにはカーティスさんが出迎えに来てくれていた。
「睡蓮を見てきたんですよ。綺麗だったわ。ヒラヒラした長い尾ひれの可愛らしい魚が泳いでいて……あれは何という名前かしら?」
「ほほう、ピピル様はあの池は初めてでしたかな?」
そんなふうに話をしながらホールから続く廊下を左に進んむ。突き当たりある私の私室の前まで来ると、何時ものようにアルがドアを開けてくれた。部屋の中でさっきの事を聞いてみようと思っていたのだが……あれ?今アルとカーティスさん、目配せしてなかった?
不思議に思いつつ部屋に入ろうとした私は目の前に有るものにびっくりして目を瞠った。
「……ピアノ!」
「ファビアン殿下からでございます。殿下がお使いになっていたものですが、ピピル様が殿下をお待ちの間退屈されておいでだろうからと。アシュレイド侯爵閣下より、ピピル様の腕前は相当なものと伺いまして、それならば執務中に耳に届いても邪魔にはならないだろうと仰せです」
カーティスさんが説明しつつ嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「殿下がこれを?」
「はい、左様でございます。先日の一件については殿下も大変ご心配されておいでてして。殿下には何も仰らず気丈に振る舞われていらしたが、侯爵閣下のお話ではかなり気分が落ち込んでしまわれたそうですな。何か慰めになるものはと考えられたようです」
「それでピアノを……?」
前世の分を入れても私の人生で痣が出来るほどの力で無理矢理捕まれた事なんて一度も無かった。しかも相手は常軌を逸したアンドリース殿下、あれ程の恐ろしい思いをしたのは生まれて初めてで、普通に過ごしているつもりでもふとその光景が頭をよぎり身体がすくんでしまう。お義父様達は痣の事は勿論だけれど、それについても相当心配して下さっていて……カーティスさんはオブラートに包んでいるけれど、私を託したのに何事か!って殿下にクレームを入れたんでしょうね。元々お義父様は私の扱いがいつまでも宙ぶらりんな事にご不満のようだし。
「入っても構わないか?」
突然聞こえた声に驚いて飛び上がった。振り向くとそこにいたのはやっぱりファビアン殿下。まさかここに自らいらっしゃるなんて、夏なのに雪が降るんじゃないかしら?
私が招き入れると殿下はピアノの前に立ち蓋を開け和音を三つほど鳴らした。
「ジェフリーやカーティスはこの部屋に合う白いものを新しく用意しろと言うのだが、これは音が良いし暫く誰にも鳴らして貰えていないんだ。古い物だが良いだろうか?」
その言い方で伝わって来た。この人、とてもこのピアノを大切にされているのだわ。
「いえ、とても素敵な音色です。わたくしなどが弾いてもよろしいのですか?それに音が執務室に届いてしまうでしょうし、お仕事に差し障るのではないでしょうか?」
殿下は窓際に置かれた書棚から楽譜を一冊取り出されパラパラと目を通した。新しく据えられた書棚には楽譜が並んでいる。これも殿下が使われたものなのだろうか。
「ジェフリーから君がピアノを弾くとは聞いていたんだが、そうは言っても拙いものだろうと……だがアシュレイド侯爵から君が弾くこの曲は素晴らしいと言われたのでね。これを弾き熟すだけの腕前なら気にならないだろう」
差し出された楽譜は確かにお義父様のお気に入りの曲だった。庶民の手習い程度ではここまで弾けないと思い込み、ハードルが低かったから余計に話を聞いて驚いたのかも知れない。市井でも中流家庭の女の子ならピアノのレッスンを受けるのは珍しい事じゃないけれど、街の学校を卒業する頃にはやめてしまう人が多い。前世と同じ感じだ。殿下が私もその程度と思われたのも当然だろう。
「マリホフの即興曲ですね。弾けるといってもお義父様は贔屓目でお聞きになっているのですから素晴らしいとはとても言えない演奏です。それでも構いませんか?」
そんなこと言って、後から煩いって怒られるのは嫌ですからね。弾くよ、弾いちゃうのよ、ホントに弾くからね!良いんですね?
「譜面をお持ちなのでしたら殿下もこの曲をお弾きになられるのですか?」
「いや、これは僕の物ではなく譲受けただけだ。僕は訳あってレッスンを続ける事が叶わなかったからここまでの曲は弾けないんだ」
そうなのね。でもきっと音楽がお好きなのだろう。だって落成式での演奏曲のキィが上がっていたのに気が付くくらいだもの。それなりに知識があるし耳が良いのだわ。
「今日からこれは君の物だしここは君の部屋だ。好きなように弾いたら良い」
殿下の声は何時ものように冷たく刺々しい。でも、そんな殿下が……身勝手傲慢オトコの殿下が初めて見せてくれた優しさはやはり嬉しいものだった。いつもなら顔も見たくない相手ではあるがお礼はきちんとしないとね。
「ありがとうございます。大切に致します」
そう言って真っ直ぐに殿下の目を見たら、キューっと眉間を寄せて不機嫌なお顔になり、返事もせずにプイッと部屋から出て行ってしまわれた。
なるほど、やっぱりだ。
ダンスの時もそうだったけれど殿下は私と目を合わせるのが苦手なんだわ。よし!これは是非利用させて貰わなくちゃ。
「ではわたくしもこれにて」
「あ、ちょっと待ってカーティスさん、聞きたい事があるんです」
殿下を追って部屋を出ようとしたカーティスさんを引き留めたら凄く怪訝な顔をされてしまった。私の慌てぶりに何事かと思ったみたい。
「殿下のお誕生日が近いはずだって聞いたのだけれど、アルは把握していなくて。何だか腑に落ちなかったのですが本当ですか?」
カーティスさんは目を細めて顔を強張らせた。そんな反応をするなんてやっぱりおかしい。主の誕生日でどうしてそんなに動揺するのだ?
「殿下はご自分の誕生日がお好きではないのです。そっとしておいて欲しいというご希望なのでそれに従って晩餐会などは執り行いません。確かに間もなくではございますが、御祝いの言葉も贈り物も不要ですのでピピル様もどうぞそのようにお願い致します」
カーティスさんはそう言うとお辞儀をしてそそくさと出て行ってしまい、呆気に取られた私だけがその場に残された。まるでこれ以上質問されると都合が悪いと言わんばかりだ。
自分の誕生日が嫌いってどういうこと?
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