第19話 テラスに現れた男


 「気分が悪くなったようだ。帰らせてやってくれ」


 様子がおかしいのに気がついたのか慌てて駆け寄って来たハイドナー氏に告げて、殿下は背を向けて行ってしまった。


 そして私はハイドナー氏に支えられながら連れて来てもらったテラスで夜風に吹かれている。外の空気を吸って気持ちを落ち着けたかったのだ。周りでは数組の男女が寄り添いながら話をしていた。


 「近くに人がいる間はこちらにいらしても構いませんが、私が戻るまでお一人にはならないようにお気を付けください。誰もいなくなる前に必ず中にお入りになりますように。では馬車を呼びに行って参ります」


 そう言って中に戻っていくハイドナー氏は長身で細身の体駆に藍色の礼服が良く似合っていた。今夜は招待客としていらしているのだろう。それなのにまたしても雑用を頼むことになり申し訳ないが、ハイドナー氏自らが寄って来ちゃったんだもの、心苦しいけれど仕方ないわよね。


 一人になった私はテラスの手摺りに手をかけてボンヤリとしていた。


 どうしたんだろう、私?


 散々振り回しておきながら狙いは何だとか何を企んでいるのかとか、なんて失礼なのかとカチンときたのは確かだ。そんなものは何もない。やるべき事をやらなければ自分を守れない、弱みを見せれば突かれる。だから必死に足掻いているのに。私にはそれすら許さないと言うのか?


 破談になどしない……殿下はそう言った。しかし殿下が私を見下ろす顔は苦痛に歪み、青い瞳はただのガラス玉みたいに光を失っていた。私という存在が殿下を苦しませている、そう直感した。それなのにどうして殿下は私を遠ざけようとしないのか?気まぐれへの後悔ならばあんなに苦しむことはないし頑なに破談を拒むこともない。


 コツ…コツ……コツ…コツ………コツ


 ふと耳に届いたテラスに響く足音に我に返った。振り向いて視線を廻らせると周りに居た人々はいつの間にか居なくなってしまい私一人になっている。そしてその足音の主だけがフラフラとよろめきながら私に向かって歩いて来た。


 浅黒い肌をした大柄な男。上質な礼服に身を包んではいるが、髪はぐちゃぐちゃに乱れている。頬はこけ目は落ちくぼみ目の下には黒々とした隈ができげっそりとやつれたような顔。

その男が目をギラギラと光らせて私の方に手を伸ばした。


 「持って来たんだろう?早くしろ、さっさと渡せ。」


 意味のわからないことを言いながら近づく男は時折奇声のような笑い声をあげている。


 「渡せ、早く。……マライアがお前が持っていると言ったんだ。早く……」

 「……!」


 声を出そうとしたけれど、ただ掠れた息を吐き出すことしかできない。そうする間にもよろめきながら、しかし確実に男は近寄って来るが、手摺りを背にしている私の後ろに逃げ道は無い。男の横をすり抜けるしか……怖い……凄く怖い……怖い!私にやれるの?


 でも……やるしかない!


 私はドレスのスカートに邪魔されもたつく脚で走り出した。


 「……っ、どこに行くんだ?早く渡せ。早くしろ!」


 よろめいていたはずの男が素早く動き私の左手首を捕らえガッシリと握っていた。私はブンブンと首を横に振ったが男は離さない。


 「何してるんだ、早くしろ、早く。お前だろう?お前が持っているんだろう?早く渡してくれ……」


 「……は……なし……て……、なんにも……持っていない……から……」


 振り絞るようにして声を出しながら腕を引き抜こうとするがびくともせず、そうする間にもぐいぐいと男に引き寄せられてしまう。私に向かって伸びてきた男の左手が首に掛かり思わずギュッと身を竦めたその時……


 「アンドリース殿下!お止め下さい!」


 ハイドナー氏が走ってきて私の前に立ち男の腕を掴んだ。アンドリース殿下?この男が?


 「下がれジェフリー……その女が……持っているんだろう?」

 「……持っている?何をです?何を仰っているのですか?」


 ハイドナー氏が聞き返すと男の手から力が抜け、私は慌てて腕を引き抜いた。


 「……殿下!アンドリース殿下!」「どうなさいました?」「何があったのです?」


 騒ぎに気付いて駆け付けたのか、テラスには複数の騎士の姿がある。しかしそれを押し止めて一人の男性が男に寄り添った。


 「お騒がせして申し訳ない。殿下は少々深酒をなさったようです」


 男性は何でもないことだと言わんばかりに笑顔を浮かべている。そして私に向かって鷹揚に礼を一つしてみせた。


 「アシュレイド侯爵令嬢でしたね。酒のせいとはいえ驚かせてしまい申し訳ございません。酔いが醒めたら私から殿下に小言を言っておきますので、どうかここはお収め下さるようお願い致します」


 男性はふざけた言い方をしながらもその目は少しも笑っていなかった。この人はわかって言っているはずだ。この男はただの酔っ払いなんかじゃない。もっと…お酒なんかとは全然違うもので正気を失っているのだ。


 男は崩れ落ちるようにその場に座り込んでしまった。もう『渡せ』とは言わなかったが、気味の悪い声で笑い続けていた。騒ぎに気がついたのだろう。テラスには次々人が出て来ていた。窓から様子を覗いている人もたくさんいる。


 「少し……少しだけ驚いてしまいましたの。アンドリース殿下とは存じませずこちらこそ失礼致しました。どうぞお気になさらずに」


 男性にそう言うとハイドナー氏が心配そうに私の顔を覗き込んだ。私はハイドナー氏に頷くと騎士達にもう大丈夫だと言うように笑いかける。男性は薄ら笑いを浮かべながら私を見た。


 「アシュレイド侯爵令嬢、なかなか見事なお手並みだ。感心致しましたよ」


 『では失礼』そう言うと男性はまだふらついている男……アンドリース殿下を騎士の一人に支えさせ一緒に去って行く。残りの騎士達は持ち場に戻って行き、野次馬もいつの間にか居なくなっていた。


 「……手当をして貰います」


 ハイドナー氏の声に何のことかと左手手首に目をやると、握られた手の跡が指一本一本までくっきりと赤く残っているのが見えた。急に恐ろしさがまざまざと甦り身体が勝手にガタガタと震え出す。脚の力が抜けて倒れそうになった私をハイドナー氏が受け止め支えてくれた。


 「ピピル様、ご無事ですか!」

 「アル!……アル!」


 待機室に居たアルに誰かが知らせたのだろう。よほど驚いたのかアルらしくない強張った厳しい表情。私は心配させないように首を振って笑おうとしたが、アルの顔を見たら勝手に涙が溢れてしまった。


 「お可哀相に。よほど怖い想いをされたのですね」

 「……でも……私が……私がしっかりしないと……きちんとあの場を収めないと……」


 相手が酒に酔ったアンドリース殿下では、私は騒ぐことも泣くことも許されない。平然を装って見せるしかなかったのだ。

張り詰めていた気持ちが緩んでぽろぽろ涙が零れてくる。

 

 「手首を傷められているんだ。急いで手当を」


 ハイドナー氏に言われ私の手首を見たアルが苦しげに顔をしかめた。


 「わかりました、お連れします。では失礼!」

 「ひっっ!ひゃわっっっ!」

 

 アルの腕が私の肩と膝裏に添えられようとしたのを飛びのいて避ける。

 アル、あんた今やろうとしたわね!


 「あーーるーーーっっ!手首、手首だけなの!歩けるから、自分で歩くから!だから案内して、ほら行くわよ」


 お姫様抱っことかホントに勘弁して!


 アルが不思議そうにしているところをみると、貴族令嬢ならば普通のことなのか?ここは大人しく抱えられるべきなのかも知れないけれど……無理なものは無理!淑女らしくないと言われても結構!


 アルが1メートル以内に入らないように警戒しながらテラスを後にする私を、ハイドナー氏はうっすら笑顔を浮かべながら見送っていた。


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