第18話 ファビアンの想い


 彼女の歌を聴いて興味を持った。そして彼女に新しい名前と新しい世界を与えた。彼女から彼女の願う人生を奪うためだ。


 そして彼女は何の抵抗をすることもなく僕の意向に従った。家族を捨てても恵まれた暮らしを選ぶ、そういう娘だ。今に本性を現すに違いない。慣れない淑女教育に嫌気がさして投げ出すか、思い上がって我が儘三昧になるか、贅沢を覚え際限無く物を欲しがるか……。市井から拾い上げられた娘は大方そんなものだ。そして彼女もそうなのだろう。金と権力に目がくらんだ薄汚い娘だ。

 

 だから僕は会いたいとも話がしたいとも思わない。ジェフリーに様子を見に行かせ報告を受けるだけ……それも報告書に目を通せば十分だと考えていた。正直に言えば顔すらはっきり覚えていない。僕にとって歌を除けば何の特徴も無い平凡な娘でしかなかった彼女は、程なくして到底それで済むような娘ではなかった事に気がついた。


 僕は混乱した。彼女はどこにでもいるようなつまらない娘の筈なのだ。 

  

 贈り物どころか手紙一つすらも与えない僕をどう思うのか、好奇心に駆られ試してみたが文句もいわず愚痴もこぼさない。そうやって何も与えられないのに、彼女はひたすら健気に努力をし続ける。これは当てつけか?それともご機嫌取りなのか?


 やがて迎えたデビュタントとしてのファーストダンスは鮮烈だった。踊りの技術の高さだけではなく立ち姿一つにも気品がありその優雅さは他の令嬢達を凌ぐほどではないか。市井育ちの娘が身につけるのは並大抵の努力では及ばなかったはずだ。

何がそこまで彼女を動かすのだろう?優しく微笑みながら、心の中ではどす黒い野心を膨らませているのか?


 離宮に呼び出した彼女は美しい最上級の礼を見せていた。それは僕の疑問をより一層膨らませる完璧な物で、僕は息を殺しただ黙って眺めていた。それでも彼女は少しのふらつきもなくいつまでも美しくあり続ける。


 『なるほどな……上手く化けおおせたわけだ』


 この覚悟が有るのなら化けるための努力など厭わないだろう、それだけは頷けた。


 僕は全ての迷いを棄てることを決めた。その胸に抱いていたささやかで慎ましい夢も希望も自由も何もかもを奪われた彼女を、僕のこの目で見つめ脳裏に焼き付けるのだ。決して彼女を許すことがないように。


 彼女と共に過ごす時間が始まった。彼女は媚びを売ることも僕の機嫌を取ろうとすることもせず、決して自分から歩み寄ろうとはしなかった。怒りも哀しみも無くただ無表情のままでそこに座っている。ほんの僅かな言葉を交わしても決して目を合わせようとはしないのを僕は知っていた。僕が目にするのは彼女の瞳を隠す長い睫毛だけだ。


 ある日、何気なく窓から庭園を見下ろすと彼女が佇んでいるのが見えた。僕を待つ間に花でも見ようと出てきたのだろう。ふと振り向いた彼女が護衛のアルバートに話しかけている。その時彼女は背の高いアルバートを真っ直ぐに見上げて見つめていた。僕には決して向けることのない、その輝く瞳で。


 わかっている。彼女は僕の事を訝しんでいるのだ。家族から引き離し知らぬ世界に放り込んで未来を奪った僕を恨み、そして逃げることを諦めているのだ。それならば彼女は何故こんなにも懸命に努力をする?


 「君は……君の狙いは何なのだ?いつ正体を現す?」


 あの夜、スローワルツを踊りながら僕は堪らず彼女に尋ねた。

 

 「これほどまで完璧な化けの皮を被るのは並大抵の事ではなかったはずだ。何の為の努力だ?僕に取り入る為ではないな?だったら気を引くように無理にでも気に入られるような振る舞いをするだろう?でも君は目を合わせようともしない。側室の地位など少しも欲しいと思ってはいないんだろう。それならば君が手に入れたいものは一体何なのだ?」


 彼女は不愉快そうにすっと目を細め僕を見上げることなくただ前だけを見つめた。

 

 「何も……狙いなど何もありません。私は抗えずに居ることを強いられた場所で自分を守るために足掻いているだけ、ただそれだけです。下賤の者と呼ばれ侮辱されない為に必要だったから……付け入る隙は少ない方が良いのですから、努力で補える事に対してはそうしてきたまでの事です」

 「君は無理矢理連れて来られた訳ではないはずだ」

 「……殿下は周到に用意されていたではありませんか。わたくしの父は役人で、姉の婚約者は父の部下でした。この件を市長に託せば私は市長にとってただの貢ぎ物になる、殿下がそれをご存知なかったはずはありませんわ。断れば市長の顔を潰すことになり父以外の人達も立場が脅かされる、初めから脅しだと解っていたので黙って従っただけの事です。そうでしょう?」


 僕が見下ろしている彼女の横顔にはもう何の感情も浮かんでいない。まるで人形のように無機質だった。


 「仰る通りわたくしは攫われて来たのではありません。でもこうなることを望んでもおりませんでした。ですから殿下が気が変わったと仰るのであれば、破談にして下さればまた黙って従うまでです。お心変わりを責めるつもりなどありませんからどうかはっきりそう仰って下さい」

 

 踊り続ける人々の中で僕は思わず足を止め、彼女は突然の事に呆然として僕の顔を見つめた。僕をからかった時にキラキラと輝いていた瞳が、今は頼りなげに潤んでゆらゆらと揺れている。


 「破談になどしない。諦めろ」


 彼女の目が見開かれ、指先が微かに震えているのが手袋越しに伝わってきた。


 「何故ですか?殿下こそ何を考えていらっしゃるのです?どうしてわたくしを縛り付けようとなさるのですか?」

 「理由は初めに伝えた通りだ。僕が君を見初めた、それだけだ。それで十分だ」

 「それは嘘です。そうでしょう?そうでなければ……」


 彼女はまた目を伏せた。はらりと一粒の涙がこぼれ落ち頬を伝わる。僕に感情を見せようとしない彼女が初めて流した涙。でも僕はそれを拭ってやることができない。たとえそれが僕の為に流された涙だとしても。


 「殿下がそんなにも苦しそうになさっていらっしゃるのは何故なのですか?」


 ……ピピル。


 君は知ってしまったんだね。


 でも僕には君を解き放つことはできないんだ。だって僕は君を許せないから。僕らは永遠に、この苦しさを背負っていく運命なのだから。





 


 




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