第7話 養子縁組


 卒業後の翌日、生まれ育った家を出た私はアシュレイド侯爵家に養女として引き取られた。


 いくら50年の記憶持ちの私でも知らない世界に飛び込むのは不安だった。それでも私はここで生きていくしかない。自分の居場所を築く為に努力を惜しんではいられない。貴族社会では平民である私は恐らくそれだけで下賤の者というマイナス評価だ。弱点があれば情け容赦なく攻撃されてしまうから、自分を護るためにはそれを最小限に留めなければ。社交界デビューまでに貴族令嬢としての平均値をクリアしなければならないし、その先には正妃様との大奥みたいなドロッドロの対峙があったりするかも?


 マナー、嗜み、立ち振る舞い、教養は自分を護る武装なのだ。


 そんな思いで必死に足掻き始めたわたしは気が付いた。なんと貴族の生活の攻略に前世の経験と知識が活用出来るのだ。


 最優先課題である養父母との関係であるが、前世で息子達がホームステイをした時に読まされた『ホストファミリーとの接し方』という冊子で得た知識が役立った。自室に篭ってばかりいないで団欒の時間には積極的に話に加わる。『この子の事はさっぱりわからない』と思われないように、聞かれたことにはなるべく詳しく丁寧に答える事を心掛けた。尚且つ引き際を見極めてしつこくならない程度のところで席を外す。

 

 この養父母との距離感は狙い通りだったらしく、私は直ぐに気に入られ可愛がられるようになった。


 愛嬌を振り撒くことも媚びを売ることも必要ない。思いやりを持って気遣いをし相手の気持ちを考えて動けば、人間そうそう嫌われたりしないと思う。そもそも養父母は優しく暖かい人達なのだ。一人息子が結婚して別の屋敷を引き継いでおり寂しさもあったのだろう。


 養父のアシュレイド侯爵は威厳があって近寄り難く見えるが、実は甘いものが大好きと聞いたので厨房を借りてお菓子を焼き、ちょこちょこ差し入れてみた。前世では小さかった息子達にせがまれるまま毎日のようにお菓子やパンを焼いたものだ。クッキーやパウンドケーキやマドレーヌは何度焼いたかわからないくらいだから美味しく作るコツはしっかり掴んでいる。手作りのお菓子は忽ちお養父さまのお気に入りとなり、今では私が執務室に差し入れに来るのを心待ちにされているそうだ。


 お養母さまは30歳を過ぎた息子さんやお孫さんがおられるとは思えない若々しく美しい方で……私の脳内年齢よりもちょっとだけ年上で同世代の素敵なお姉様的な存在として打ち解けるのも早かった。ちなみにピピルちゃん垂涎の金髪碧眼の持ち主である。一人息子だったから娘を着飾って楽しむのに憧れていたそうだ。わかるそれ、すごくわかる!


 今の私は普段着る服と外出用の服が数着あれば事足りるのに、どんどん枚数が増えていくのには苦笑いするしかないのだが、しばらくしたら満足して落ち着くだろう、と願いたい。


 屋敷の使用人達はそれぞれがプロフェッショナルだ。誰の仕事も尊敬できて素晴らしい。元々職人志望だった私は技術を持った人への興味と関心、それからリスペクトが人並み外れて強いのだ。感心して感動して日本人の性で一々ありがとうございますを乱発していたら、何時しかピピルお嬢様は候爵家の天使だと囁かれていた。

 

 そして、社交界デビューに間に合わせるのは大変だと思われた淑女教育だったけれど、これも予想外に順調で進み具合の確認に訪れるハイドナー氏が拍子抜けしたほどだった。

 

 平民でもそれなりにきちんとした家庭だった我が家では常識的な行儀作法をしっかりと躾られおり、おまけに前世では躾る側だったのだ。必要とあらば敬語も使いこなせるし上品な振る舞いもできる。うちの息子達は中高一貫教育の私立校に通ったんだけど、お友達のお母様にはザマスな奥様がチラホラいらしたので、オーっほほほ的なお付き合いもございましてね。品の良い奥様の猫を被るのは朝飯前でしたのよ。


 身分が上の方にはこちらから話しかけてはいけないというような貴族社会の社交上の細かい常識を身につければ、普通の貴族令嬢と遜色無いだろうというのがハイドナー氏の評価だ。


 一般教養は、貴族が通う花嫁修業がメインの学院を出た令嬢よりも女学校を卒業している私の方が高いらしい。しかも記憶が戻ってからというもの、勉強しなさいという親心が痛いほど理解できたのでそれはもうシャカリキに勉強し、かなりの上位で卒業した。全く問題無いだろうというハイドナー氏の評価。


 芸術の嗜み……そもそものきっかけは歌だし。


 小さい頃からピアノのレッスンも受けていたのもあるのだが、これも歌と同様前世で高校卒業まで続けていた影響なのか、記憶が無くてもどう弾けば良いのかというイメージがあったのだ。手の小ささや動きの拙さで思うようにはならない事は多かったけれど、身体が成長しテクニックが追いついた今は思い通りの演奏が出来るようになっている。恐らくサロンでは歌だけではなくピアノの演奏するように依頼されるだろうから、レパートリーを極力増やすべきだろうというハイドナー氏の評価。


 そして最大の難関であるダンスだが……何を隠そう前世の私はオバレリーナだったのだ。

 30代半ばを過ぎてバレエスタジオに通い始めた時は散々馬鹿にされたが、めげずに続けた自分を心の底から褒めたいと思う。転生先で役に立つなんて夢にも思わなかったけれど。


 突然申し込まれて踊るとか踊りながら話をするとか、一体それどうやってるのかと不思議だったのだが、あれは超基本ステップを繰り返しているんだって。ダンスの種類が何パターンも有るから覚える事は多いけれど、一通り覚えてしまえば何とかなった。


 ただしこの国ではデビュタントのダンスだけは決まった相手と踊るので、振り付けをし練習して臨むのだという。エスコートは婚約者や恋人のほかに兄弟だったり従兄弟だったりするそうで、私は侯爵家嫡男のケネスお義兄さまにお願いすることになった。


 お義兄さまはとてもダンスがお上手でレッスンにも欠かさずお付き合いしてくださる。自分のリードでどうにか誤魔化してそれなりに見せれば…なんて思っていらしたら、私の覚えが予想外に良くて面白くなってしまったらしい。レッスンを重ねるうちに先生の求めるレベルがどんどん高くなり振り付けもどんどん難しくなり……前世ならライセンスが取れるくらいの難易度になっている気がする。ここまで求めてはいなかったけれど、何事も上達することは良いことだろうというハイドナー氏の評価。


 貴族令嬢の嗜みとして忘れてはならないのが『刺繍』である。私はそう、刺繍の職人を目指して訓練校に進むことになっていた。


 前世の私も手先が器用で色々な趣味があったのだが、一番熱中したのが刺繍だ。ただ前世ではどんなに綺麗に作れるからといってそれを仕事にするのは難しく、クラフトイベントで小物を販売するくらいのことしか出来なかった。


 でもこの世界ではまだ刺繍が出来る機械が無いので刺繍の職人の需要は高い。腕が良ければドレスの刺繍をする高給な仕事にも就ける。私の目指した平凡かつ堅実で幸せな人生を、女一人で生きていくのにこんなうってつけな職業はないではないか。もしかして私、転生して水を得た魚みたいな事になったりしてるかも…なんて思い、せっせと練習に明け暮れた一年。それが訓練校の先生方を唸らせる技術に繋がったのであるが……


 貴族令嬢の嗜みとして役に立つとは思いませんでしたよ。


 御令嬢の手慰みの刺繍とはクオリティが違うのは当然です!更に立体感や艶を出すテクニックを身につけ、加えて几帳面な性格が表れた狂いのない正確なステッチは、何を隠そう訓練校の先生方に『天才が現れた』と言わしめたほどなのだ。


 これに関してはハイドナー氏の評価は無し。


 当然出来るだろうと判断しているのか、やっぱりちょっと後ろめたいのか?


 市庁舎のあの部屋を出る時には複雑な表情を浮かべたハイドナー氏だったが、それ以降は事務的対応の一言に尽きる。ほぼ週イチで顔を合わせているのにこれっぽっちも打ち解けていない。実のところ目も合わせない。文字通り顔も見たくないのだ。面接の練習で『視線はネクタイの結び目に』って言われたでしょう?久し振りに忠実に実行してますよ。


 私だってこの人達に対しては仲良くしてねなんてとても思えないので聞かれた事に答えるだけ、それ以外は帰り際の『お気をつけて』くらいしか言わないけれど、これ、淑女としては良く出来ましたの対応でしょう?


 このようにして私の貴族令嬢としての淑女教育は着々と進んで行ったのであった。


 

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