白熱する戦い


 シアラ・アーレンスは、釣り竿を手に携えある一人の男の前に立っていた。

 その感情の宿っていないように見える瞳に、闘志の炎を灯らせ、静かにシアラは口を開く。


「⋯⋯⋯⋯全員、わかってない」


 この釣り大会において、周りからどうやって抜きん出るか。シアラはこの数日の間に深く思考し、一つの結論に辿り着いていた。


「⋯⋯大きなリスクを背負ってでも、お前をマークするのが、正解だという事を」


 シアラの静かな言葉に、彼女の前に立つ男は瞳を閉じる。


「――やめておけ」


 そして、男――ナクリ・キャラットは再び目を開く。シアラの釣り竿を持つ手に力が込められた。


「たとえ娘のためになろうと、弱者をいたぶる趣味はない」


「弱者⋯⋯?」


 シアラの眉が僅かに歪む。はっきりと下に見られている事が不快であった。

 確かに釣りにおいて、ノイルすらも師と崇めるこの男は、圧倒的強者であるのかもしれない。しかし、所詮は娯楽。

 そもそも、釣りは一定水準の技術に到達してしまえば、差は生まれにくいものだ。経験による読みなどは確かにあるだろう。だが、シアラから言わせれば、技術的な面はさして難しいものでもなく、極めようと思えば習得は容易であった。ルアーの操作に関しても、決まった種類を使用し、魚への有効なアプローチが限られている関係上、それに合った動かし方さえ覚えてしまえばよく、その種類も多くはない。要は、パターンさえ知ってしまえばそれで済む話だ。練度の差は生まれるだろうが、シアラ程の天才であれば、一足飛びに熟練者の域に達することが可能。


 経験面において、シアラとナクリに圧倒的な差があるのは確か。だが、そんなものはこうしてナクリをマークし、同じ釣り場を狙う事で埋められる。彼の使用するタックルを真似、そして最終的には視線や気配から狙う場所を先読みしてしまえばいい。付きまとい先んじてポイントさえ抑える事ができれば、彼にはもう何もできない。その豊富な経験により選別した、彼独自のスポットを奪い取れさえすれば、たとえ経験が浅かろうと、彼レベルの大物を釣り上げられる。

 実際はそこまで上手くはいかないだろう。しかし一度でも成功すれば、ナクリには敵わずとも、ノイルを狙う女性陣の中ではトップに立てる事は間違いない。それ程に、彼が狙う魚は他とは一線を画す高得点魚のはずだ。

 そして、シアラにはその自信があった。釣り大会の間に、一度は確実にこの男に先手を取る自信が。


 シアラはここ数日の間で、王都の水路を全て網羅し、アリアレイクに棲息する魚も全て頭に叩き込んだ。生態、習性、食性、有効な釣りの手段、何もかもをだ。事前に釣り大会で解放される全水路の下見も済ませている。怪しいポイントは抑えてあるのだ。

 経験の乏しいシアラだけでは確かに確実に穴場を割出せはしないが、ナクリの移動する方向からどの場所を目指すかは先読み可能。また、ルアーの取り換えもひたすらに練習した。ポイントを察知し、そこでどんなルアーを使用するかも、しばらく観察していれば予測できるだろう。ならば、一度程度出し抜く事は難しくはない。


「⋯⋯⋯⋯ほざいてろ」


 シアラはナクリに短く言葉を返し、彼の一挙手一投足を注視する。最初は観察に努め、タイミング見計らい、仕留める。


「⋯⋯ノイルんの妹だ、手荒な真似はしたくないが」


 ナクリはシアラの視線に一切気負った様子はなく、頭をゆっくりと横に振ると再びその鋭い瞳を彼女に向けた。


「――向かってくる相手に、手加減はできん」


「⋯⋯その余裕が、いつまでも――」


 言いかけ、シアラは愕然と目を見開く。

 水路を背に立っていたナクリは、いつの間にか釣り竿を取り出していた。そしてその糸の先――ナクリのもう片手には、既に魚が入ったタモが握られている。


 ぞわりと、シアラの全身を悪寒が駆け抜けた。


 いつ⋯⋯釣った⋯⋯? 

 そもそも、いつ、投げ、た⋯⋯?


 シアラの思考が混乱に陥る。

 全く、そんな素振りはなかったはずだ。実際、直前まで――いや、今でもナクリはシアラの方を向いている。水路に一度足りとも顔どころか視線すら向けてもいない。


 だというのに、シアラに注視されている状態で、一体いつ釣り竿を取り出し、水路にキャストし、魚を釣り上げたというのか。


 シアラには、何一つ理解が及ばなかった。


 ま、ずい⋯⋯。


 ただ、それだけを本能的に感じ取る。


 ばけ、もの⋯⋯。


 釣りは上級者同士ならば差が生まれにくい?

 所詮は娯楽?


 違う。


 釣りは、それ程甘いものではない。


 今、シアラは自身の愚かさを理解する。

 この作戦の失敗を、理解させられる。


 練習は充分に熟したつもりだった。

 知識もたっぷりと身に着けたつもりだった。


 だが――そんなものは、『本物』の前では意味などない。


 決して生半可な気持ちではなかった。

 しかしこの男に挑むには、覚悟がまだ足りなかった。

 この男と釣りという競技で相対するのならば、全てを懸ける必要があったのだ。命すらも。


 これが、兄――ノイル達の見ていた世界。『本物』のアングラーの領域。


 初めてそれに触れたシアラは、自然と身体が震えるのを感じた。冷や汗が滔々と流れ落ち、喉はカラカラに乾いていく。


 ナクリから放たれる静かで洗練され、それでいて圧倒的な覇気に、その重圧に、シアラは耐えられず、圧し潰されるかの如く両膝を落とした。


「貶めたつもりはなかった。その覚悟を揶揄したつもりも」


 ああ、そうだろう。


 釣り上げた魚をリリースしながらのナクリの言葉に、シアラは俯く他なかった。


「ただ、本気だったからこそ、偽らず伝えるべきだと思った」


 釣りの世界においてシアラは――どうしようもなく弱者であった。

 ナクリは事実を言ったまで。


「気分を害したのなら謝罪する」


 それだけを言うと、ナクリは俯くシアラを置いて、歩き去る。シアラはどうすることもできず、何も言うことすらもできず、その場に蹲った。


 ナクリの釣りを見せつけられ、『本物』を知り、シアラの戦意は喪失した。







「てめぇふざけんじゃねぇぞゲロブスがぁ!」


「貴女こそ、よくこれ程下劣な真似ができますね!」


「ああ!? これはアリスちゃんが独自の調査で割り出したルートなんだよボケが!」


「そんな見え透いた嘘を! 私の集めたデータを盗み見たんでしょう! でなければここまで行動が重なるわけがありません!」


 都市外のアリアレイクでは、アリスとフィオナがそれぞれ自走するボートに乗り、激しい言い争いを繰り広げていた。ここまで二人は、開始時点から全く同じルートを辿り、全く同じ釣り方で、全く同じ釣果を収めている。二人が狙っているのは釣る事が容易なメルンという魚種であり、数でポイントを稼ぐ作戦であった。


 メルンは群れでアリアレイクを回遊する魚だ。その魚群をマークし続ければ継続的にポイントを獲得できる。問題は、メルンが決まった深さを泳がず、群れにより回遊ルートが異なる事にあるが、二人は綿密な事前調査の結果、最も釣果が期待できるルートを割り出したのだ。


 ただ、それがダダ被りしていた。


 故に釣果は分散され、想定していたよりも得点は伸びず、二人はお互いへの憎しみを向け合っている。

 当然、この二人は万が一のトラブルに備え次善の策も用意してはいた。しかし、ここでルートを譲るということは、即ち相手に最もポイントを稼げる手段を与える行為に等しい。だからこそ、二人はこのままではポイントが伸びないと理解しながらも、罵倒し合い争い続けるしかなかった。


 魚群の次の出現地点まで、並び合って魔導具のボートを突っ走らせる(決められた速度は守っている)二人の言い争いは、決して止むことはなく加速度的にヒートアップしていく。


 と、フィオナが突然顔を青ざめさせ、小さな袋を手に取ると口を広げる。


「おえぇぇぇ⋯⋯」


 そして、そこに吐いた。


「きったねぇから定期的にゲボ吐くの止めろや! つーか吐くなら帰れゲロカス!」


 もう何度目かになるフィオナの嘔吐にアリスは顔を顰める。


「うるさい! 黙りおえぇぇぇ⋯⋯」


 言い返そうとしたフィオナは、再び袋に顔を押し当てた。


 彼女が定期的に嘔吐している理由は、決して船酔いなどではない。釣り大会はルール上、魔装マギスを使用できない。その為、フィオナは現在悩みに悩んだ末、苦渋の決断で《ラヴァー》を解除していた。

 《愛》はもはや彼女にとって常に発動しているのが当然であり、身体の一部と言ってもいい。ノイルの存在を感じ取る事ができるフィオナだけの感覚器官だ。そのため、首輪を通してノイルと繋がっていない事は、フィオナに尋常ならざる負荷を与え続けていた。一種の禁断症状である。


「マジできめぇ⋯⋯」


 アリスが再度盛大に顔を顰めて呟くと、フィオナはようやく袋から顔を上げた。口をハンカチで拭い、袋の口を結んで――そこで、はたと何か思いついたように手を止める。


「ふむ」


 そして、一つ頷くとアリスの方を向いた。


「下品な手なのであまり気は進まないですが」


「おいバカマジでやめろおいクソおい」


 アリスが頬を引き攣らせる。


「これ以上私に付き纏うようならこれを貴女に投げつけます」


「ゲロブスビッチがッ!!」


 手の平にゲロ袋を乗せて艶やかに微笑んだフィオナに、アリスは冷や汗を流しながら叫んだ。


「安心してください。弾は沢山ありますので」


「脳ミソまでゲロでできてやがんのかイカれ女がぁッ!!」


「私も本当はこんな事をしたくないんです。先輩にはしたない女だと思われたくないので」


「人に自分のゲロをぶつける事に忌避感を覚えろゲロカス女ッ!!」


 これまでのゲロ袋を取り出し自身の側に並べ始めたフィオナを見て、アリスも動く。流石の彼女でもゲロをぶつけられるなどたまったものではない。素早く胸元に手を入れ――アリスは何かに気づいたように動きを止めた。そして、ニヤリとガラの悪い笑みを浮かべる。フィオナが怪訝そうに眉根を寄せた。


「⋯⋯何ですか?」


「自分の右肩見てみろや」


 フィオナは更に眉根を寄せると、自身の右肩へと視線を向け――


「⋯⋯ひゅっ」


 甲高い音を立て短く息を吸い込んで固まった。限界まで目を見開いた彼女の顔にダラダラと大量に汗が流れ落ち始める。

 フィオナの視線の先、自身の右肩には一匹の虫がとまっていた。


 ふさふさとした体毛を持つ、二対の大小の羽根が生えた昆虫。蝶と蛾の中間程の見た目のそれは、イーリストではよく見られる『マニンハ』と呼ばれる昆虫である。


 人に害はなく、むしろそのふわふわの姿は可愛いと評判で、愛好家も居るほどの虫だ。また、その生態も愛らしく、速く走るものが好きなのか追随して飛び、追いつけば満足したようにそれにとまるという習性を持っている。人にもよく懐き、愛好家たちには共にかけっこをする遊びが大人気だ。


 そんなペットとしても愛されるフィオナこ肩にとまったマニンハは、視線に気づいたのかその黒い大きな二つの瞳に見える複眼を、彼女の顔へと向けた。そして、顔の部分が小首をかしげるかのようにこてり、と傾く。こういった仕草も、マニンハが人気の理由である。


「――――ッ――――ッ」


 しかし、フィオナは声に成らぬ声を上げると、ふっと白目を向きバタンとボートの上で倒れ込んだ。彼女にとまっていたマニンハが、慌てたように飛び立つ。


「クヒヒヒハハハハハハハッ!」


 その様子を見ていたアリスが、口の端をこれでもかとばかりに釣り上げ、高らかな笑い声を上げた。


「ざまぁああああッ! クヒヒヒヒ! ざまぁああああああああッ!!」


 両手の中指を立てながら、アリスは心底バカにするかのような表情を倒れたフィオナに向け――


「は⋯⋯?」


 顔を青ざめさせた。


 制御をなくしたフィオナのボートが、彼女のボートへと向かってきたからだ。


「おいちょま⋯⋯ざけおぶあああああ!!」


 アリスは慌ててボートを操縦しようとしたが、時既に遅し。


 二台のボートは衝突し、アリスの叫び声と共にアリアレイクに沈んでいくのだった。

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