やらかし

 ニノンが恐る恐る一度エイミーに視線を向けると、彼女は諦めたように瞳を閉じて、深刻そうな表情でこくりと頷いた。


「それ、ノイルに伝えないでね?」


「あ、はいっす⋯⋯」


 そして、ノエルに笑顔でそう言われ、二人同時にビクリと肩を震わせる。


 ノエル、いや、彼女たちが何をやろうとしているのかニノンは理解できてしまった。


 確かに今の状態のノイルは、勝負を持ちかけられれば間違いなく乗る。普段の彼ならばそういった話はのらりくらりと躱すだろう。しかし、無駄なプライドを見せてしまった今ならば話は別だ。


 つまりこれは、彼女たちにとって千載一遇のチャンス。例えば負けた側はなんでも言う事を聞く、という条件を持ちかけたとしよう。そうすれば、勝った場合はノイルを好きにでき、負けてもリスクは何もない。条件を更に細かく設定して言い逃れできないようにしておくのもいい。いや、そんな事はせずとも、釣りで勝負して負けたのならば、それがどんな内容であれ、ノイルは受け入れるしかないのだ。自分もそうだが、いくら汚属性であっても釣りに関しては言い訳はせず、彼は真摯であろうとするだろう。釣りを裏切る事はできない。


「本当汚いよね。ノイルさんへの釣りへの想いを利用するなんて」


 いや、ノイルという人間にはそれくらいの事をするべきだろう。彼を取り巻く女性関係は複雑かつ厳しい。その中でリードする為には、清濁合わせ飲む必要がある。綺麗事など言っていられず強かさが必要だ。それに、やる事は純粋な釣り勝負である。利用したと言えば確かに聞こえは悪いが、別に何も悪い事はしていないのだ。


 更に、魔法士はこう言っているが、当然自分も勝負を持ちかけるつもりだろう。人の事をとやかく言えない。ただ彼女は、ニノンに釣りを教わる事で、ノエルが突出するのを防ぎたいだけだ。その綺麗なアメジストの瞳は、「勝つのは私」と明らかに語っている。エイミーでさえ、狙いを教えてくれはしたが、数日前から釣り情報誌を買い漁って部屋で読み耽っている事をニノンは知っていた。


「ニノン、このソースをかけてみると良いのじゃ。少し意外かも知れぬがのぅ」


「助かるっす」


 勝手に皿の上のチーズにソースをかけて来た人と、未だにノイルとレットの喧嘩を何かに成りきって見ているソフィについてはよくわからないが、カウンター席側に居ない人間は、全員このチャンスを逃す気はなく、誰かに譲る気もないのは明白だった。


「はん! 釣り大会は魔導具の使用は禁止だ! いつもくっだらねぇ魔導具に頼ってるてめぇじゃ絶対に俺には勝てねぇ!」


 と、レットの大声が店に響き渡る。瞬間、ノイルが目をこれでもかとばかりに見開いて、口を両手で抑え、悲鳴のような甲高い音を立てて息を吸いながら椅子を倒して立ち上がった。


 何なんすかそのリアクション⋯⋯。


 ニノンがそう思ったのと同時に、ノイルはレットに負けない大声で叫んだ。


「今の言葉取り消せッ!!」


 本気の怒鳴り声。明らかな激情。ここまで感情的な彼をニノンは初めて見たかもしれない。


「はふ⋯⋯!」


 フィオナが恍惚そうな表情のまま鼻血を噴き出し気絶し、ノエルが笑顔のままさっと彼女の前の食器類を退かしてワイングラスを置いた。どっとテーブルにフィオナが突っ伏し、噴き出した鼻血は何処も汚す事はなく、彼女が飲んでいたワインの中に落ちる。


 ⋯⋯さーて、わけわかんなくなってきたっすよぉ。


 ニノンは自分の頭の処理能力が追いつかなくなってきたのを感じながら、ソースのかかったチーズをとりあえず口に運んだ。美味しかった。


「チッ⋯⋯あのクソガキが⋯⋯まあ、クソダーリンの反応が良かったから許してやる」


 良かったすか? アレ。


 そう思いながら、チーズを飲み込みニノンは舌打ちした人物に視線を向けた。魔法士の正面に座っている、銀の髪に碧の毛束が混じった少女のような女性――アリス・ヘルサイトは一度レットを睨みつけた後、一つ息を吐き出す。


「つーか、怒りで周りが見えなくなってるガキにキレてもしゃーねぇか」


 そう呟いてジョッキに注がれたエールを一気に飲み干した彼女は、口元を拭う。


「⋯⋯⋯⋯いい飲みっぷり、流石行き遅れ、おっさんみたい」


 そして、ノエルの隣に座っていた黒髪黒眼の無表情の美女――シアラ・アーレンスがボソリと彼女に喧嘩を売った。


 ちょっとぉ⋯⋯シアラちゃん。

 テセアちゃんが居ないんだから勘弁して欲しいっす。


 ニノンはたった今飲み込んだチーズを戻しそうになりながら、額から冷や汗を流す。


「死にたくなかったら、酒もロクに飲めねぇクソガキは黙ってろボケ」


「⋯⋯⋯⋯これだからババアは。ホルモン不足でヒステリック。もう死んだほうがいい」


「あ? 表出るかカス?」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯出ない。更年期で暑いなら、一人で外で風に当たれ」


 テセアが旅に出てからというもの、シアラの機嫌は誰がどう見てもあまり良くなかった。なんだかんだ姉の事を心配しているのだろう。その内慣れるだろうが、ニノンも非常にテセアが恋しくて仕方がなかった。


「チッ⋯⋯てめぇこれが終わったらマジで一度ぶっ殺してわからせてやる」


 一度殺したら人って死ぬんすよ。


「⋯⋯⋯⋯年寄りのお節介ほど、迷惑なものはない」


 殺意とお節介は絶対に相容れないものっすよ。

 その二つは永遠に出会うことはないっすよ。


「ニノン、早く食べぬとチーズがまた固まってしまうじゃろぅ」


はふはるっふたすかるっす


 ニノンが俯いて二人のやり取りを聞いていると、ミリスがその口にチーズを押し込んだ。もうニノンは心を無にする事にした。


「はぁ、これでは収拾がつかないね」


 まったくその通りだと、ニノンは肩を竦めてゆっくりと首を横に振ったエルシャンに、心の中で今日一番の同意をする。そもそも、このメンバーで収拾がついた試しがない。


「それに、そろそろ頃合いだろう」


 エルシャンはそう言って立ち上がると、ノイルの方へ振り返った。


「むぅ⋯⋯」


 その際精霊がちらついたのだろう、ミリスが鬱陶しそうに顔の前で手を振る。


「ノイル、ボクとも釣り大会で勝負してくれないかな?」


 その言葉に、ざわついていた店内は静まり返った。両手で相手の顔をはさみ合っていたノイルとレットも、ピタリと歪み合うのをやめ、優美な笑みを浮かべているエルシャンの方を向く。


「⋯⋯⋯⋯冗談だよね?」


 一度頭を横に振ったノイルは、信じられないとばかりに笑いながらそう訊ねる。エルシャンは、そんな彼に凛とした声を返した。


「いや、本気だよ」


 ノイルの顔から笑みが消えた。レットも眉根を寄せてエルシャンを見ている。


「それは、僕に勝つ自信があるってこと?」


「ああ」


「っ⋯⋯」


 ダメっすよノイルさん⋯⋯!

 乗せられちゃダメっす⋯⋯!


 ニノンは口の中のチーズを咀嚼しながらも、必死にノイルに首を振ってそう訴える。しかし、珍しく頭に血が登り視野の狭まっている彼は、ニノンのメッセージに気づく事はなかった。


「クソダーリン、アタシもだ」


「⋯⋯⋯⋯は?」


「ノイルさん、私もノイルさんと勝負したいです」


「私も私も」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯は?」


 更に、アリスがノイルを煽り、魔法士とノエルが後に続く。

 ノイルは額に手を当ててふらつくと、そのまま片手をニノン達の方に向ける。


「⋯⋯待って、どういうこと? この僕に⋯⋯僕だよ? 僕? この僕に、釣りで勝てると思ってる人はどれくらいいるわけ」


 さっと、ニノンの周りの女性陣とレットが手を挙げた。もちろんニノンも挙げた。何故かミリスも堂々と挙げていた。ソフィはしたり顔で頷いていた。フィオナは幸せそうな顔で気絶したままだった。


 それを見たノイルは愕然としたような表情を浮かべ、おろした両拳を震わせる。


「⋯⋯わかった。どうやら皆、はは⋯⋯ちょっと⋯⋯勘違いしてるみたいだ⋯⋯じゃあこうしよう」


 ああ⋯⋯もう止められない。

 ニノンはそう思いながらも、手は上げ続けていた。


「もしも釣り大会で僕よりも順位が上の人が居たら、僕はなんでも言う事を聞いてあげるよ」


 あー⋯⋯言っちゃったっすねぇ⋯⋯。


 ノイルは彼がクールだという笑みを浮かべながら、堂々とそう宣言する。炭火亭の店主と元気な従業員を含めた何人かが、顔を手で覆って俯き、女性陣はニノンを除く各々が笑みを深めた。


「皆で勝負だ。言っとくけど、泣いても知らない。僕は本気だ」


 泣くのは多分ノイルさんっすよ⋯⋯。


 ニノンはそう思いながら手を下ろした。

 ノイルが憮然したように再び椅子に座り、エルシャンとレットも着席する。


 しかし、ノイルは今自分の首を絞め殺したとはいえだ、彼に釣りで勝つのは容易な事ではない。ニノンとレットはともかく、いくらここに集う者たちの能力が並外れていようが、それでも釣りに人生を捧げてきた者とそうでない者との間には、大きな隔たりが存在する。


 自分が上ではあるが、ノイルの釣りの腕前はニノンも評価しているのだ。

 更に、釣り大会は魔装マギスや魔導具、その他特殊な能力や道具は使用禁止となっている。当然、言うまでもなく『神具』もだ。

 競われるのはあくまでも純粋な釣りの腕であり、ならば如何に彼女たちといえど、ノイルには敵わないだろう。釣りは運も大きく関わってくるが、ニノン達の領域に運だけでは到底届かない。

 釣りにおいて不正など以ての外、という事も彼女たちは理解しているだろう。


「バレなきゃテクニックだ」


 と、ニノンの表情から考えを読んだのか、アリスはガラの悪い笑みを浮べてそう言った。


 平気で不正する気っすね。


 だとしたら、流石のニノンでもそれは放っておけない。


「冗談だよ。やる気ならわざわざんなこと言わねぇ」


 しかし、ニノンが口を開くよりも先にアリスは可笑しそうに笑う。


「⋯⋯⋯⋯でも、普通にやったらノイルさんには勝てないっすよ」


「いえ、それは問題ありません」


 と、いつの間にか起きていたフィオナが、鼻血をハンカチで拭きながら微笑んだ。


「確かに、先輩のその崇高な釣りの技術に勝てるなど、考えるだけでも傲慢極まりない行為ですが――今回に限っては、その素晴らしい実力を発揮できないでしょう。もちろん、それは先輩のせいではありませんが」


 私は傲慢じゃないっすけどね。


 しかし、ニノンはフィオナの言っている事が理解できず、首を傾げる。

 実力を発揮できないとは、どういう事だろうか。ノイルは見るからにやる気を出している。むしろ、彼の集中力などは高まっている筈だ。過去最高のパフォーマンスを発揮しても不思議ではない。


「⋯⋯⋯⋯当日になれば、わかる」


 シアラが、ひくひくと可愛らしく鼻を動かし、手に持ったワインの匂いをかぎながらフィオナの言葉に続いた。どうやら、先程の酒も飲めないというアリスの言葉を気にしてはいるらしい。シアラはそのままちびりとワインを舐めるように飲み、僅かに眉を顰めてグラスを置いた。


「まあつまり、ノイルさんとではなく、私たちは私たちで争うという事になりますね」


 頬杖をつき、片手でフォークを弄びなから魔法士がそう言った。


「そういう事だね。あまりノイルに迷惑をかけるのは良くない。ノイルに言う事を聞いてもらうのは、最も順位が上だった者だけ――それでいいかな?」


 エルシャンの提案に、ピリと空気が張り詰めた。


「もちろん、いいわよ」


 と、それまで沈黙を貫いていた、エルシャンの正面に座った猫耳と尻尾の生えた黒髪の女性――ミーナ・キャラットが堂々たる笑みを浮べて同意する。この時を待っていたと言わんばかりの笑顔であった。


 ああ⋯⋯師匠の娘なら、確かに他の人とは一線を画すかも知れないっすね。


 釣り人のみが感じ取れるその覇気に、ニノンは思わずミーナの実力を測りにかかる。

 日頃から釣りをしているわけではないとはいえ、師匠に育てられたのなら釣りの経験はあるのだろう。彼の技術も教えられている筈だ。釣り自体は彼女の趣味にはなり得なかったのだとしても、技術面において、ミーナは圧倒的アドバンテージがあるのかもしれない。


 ふむ⋯⋯B⋯⋯いや、Aってとこっすか。


「何か失礼なこと考えてないわよね?」


「え、いや⋯⋯何も考えてないっすよ」


 ミーナに鋭い瞳を向けられ、ニノンは慌てて両手を振った。本当に何故そんな事を問われ、キツイ目を向けられたのかがわからなかった。ただ自分は、釣りの腕をその身に漂うオーラから見定めていただけだというのに。何か気に障ってしまったのだろうか。

 しかしニノンがそう言うと、ミーナも不思議そうに小首を傾げる。


「そう⋯⋯じゃあ勘違いね⋯⋯何かそんな気がしたんだけど⋯⋯悪かったわ」


「ああ、別に大丈夫っすよ」


 そして、ニノンへと謝った。どうやら、彼女自身も何故そう感じてしまったのかよくわかっていないらしい。


 まあ勘違いは誰にでもあるっすからね⋯⋯それより、Aっすか。思ったよりも⋯⋯


「また何か考えてない?」


「え、いや、何も⋯⋯」


「そう⋯⋯ならいいんだけど⋯⋯何なのかしら⋯⋯おかしいわね⋯⋯」


 再び疑われ、ニノンはよくわからなかったが、もう彼女の釣りの腕前を見定めるのは止めておいた。何かそれが原因の気がしてきていた。


 とりあえず、この中なら私の次に釣りが上手いのはミーナさんで間違いないっすね。でも――


 ニノンはそう考えながらも、周囲の女性達を見回す。

 いつしか彼女たちからは、只者とは言えない釣り人のオーラが放たれていた。


 ⋯⋯こういう機会のために、皆腕を磨いてはいたってわけっすか⋯⋯。


 その執念に、ニノンは思わず冷や汗を流して無意識に口の端を吊り上げてしまっていた。自分には到底及ばないだろうが、一朝一夕で獲られるオーラではない。


「おほー」


 未だにチーズを炙っているミリスからは何のオーラも感じないが。


 皆が鋭い視線をぶつけ合い、パチパチと炭火が弾ける音が響き、極僅かに火の粉が宙を舞う。


「今、乙女たちのー仁義なき戦いが始まるー」


 そして、ソフィの平坦な声が響き渡るのだった。

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