平常運転

 ワイングラスを置き、一つ息を吐いてニノンは改めて彼女たちと向き合う。


 一応彼女たちも一度は釣りを心の底から愛そうと試みたはずだ。しかしノイルの事を抜きにして釣りを好きになる事はできなかったのだろう。


 まあ、女性にはあんまり人気ないっすしね。


 基本的に野外で行い、用を足す施設もなく、手や肌や髪は荒れる。たまにやる程度ならば問題ないだろうが、ノイル程ディープな人間ならば、それに付き合うには何かを犠牲にする必要があり、彼女たちのやる事は非常に多い。ニノンは一体いつ何処で彼女たちが睡眠を取っているのかわからないほどだ。しかし、健康状態と美しさを保っている所を見ると、必要な睡眠時間は確保しているのだろう。あまりにも不可解である。


 野生動物っすか。

 

 夜中に熾烈な争いが静かに行われている瞬間を、ニノンはトイレに起きた際などに何度か目撃している。

 ノイルが寝ている間は絶好のチャンスであり、同時に彼の代わりに警戒しなければならない。寝ている間に周りに出し抜かれる可能性もある。だから彼女たちはノイルが眠っている時は殆ど眠らず、自身の睡眠を誰にも気取られないようにし、誰にも見られない所で眠っているのだ。この安全なイーリストでだ。


「おほー」


 ノイルを狙っている者で例外は、ニノンの隣でチーズを焼いて瞳を輝かせている純白の魔人族――ミリス・アルバルマくらいだろう。彼女は好きな時に眠り好き勝手に過ごしている。この人もこの人で野生動物のようではあるが。


 今だって、周りなど気にせず好き勝手にチーズを焼いている。マイペースにも程があった。


「――まあ、フィオナの性癖は置いておいて、彼女の言は概ね正しいね」


 と、ニノンがチーズを焼いているミリスを眺めていると、更に隣のテーブルから凛とした声が響いた。


 性癖て。


 ニノンがそう思いながらそちらを見れば、芸術品のように整った容貌の黄白色の髪の美女――エルシャン・ファルシードが、これまた美麗な仕草でグラスの中のワインを揺らし、ニノンへと微笑む。


「ニノン、良き妻の条件の一つがわかるかな?」


「んー、わかんないっす」


 まず何故そんな質問をされたのかがニノンにはわからなかった。


「夫の趣味にとやかく口出ししない事だよ」


 非常に得意げな表情で、エルシャンはそう言うとワインを一口飲み、再び口を開く。


「過干渉は嫌われる。妻は夫を愛し尽くしながらも自由にさせてあげるべきだ。ボクのようにね」


 ?⋯⋯⋯⋯???


 ニノンは彼女の言っていることが理解出来なかった。

 冗談なのだろうか。笑うべきなのだろうか。

 彼女は自身の発言を口に出す前に頭にちゃんと通したのだろうか。


 ニノンの思考は混乱に陥る。


 ニノンは知っている。ノイルがトイレすらも四六時中監視されている事を。彼がまともに動けなかった間は、介護と称して身体中もはや彼自身知らない所まで手を出されていた事を、知っている。

 過干渉という言葉の定義はいつの間にか変わってしまったのだろうか。


「⋯⋯辞書を改訂しないとっすね⋯⋯」


「ん? どういう事かな?」


「いや⋯⋯」


「すまない。ちょっとキミの発言の意味がわからない」


 そっくりそのまま同じ言葉を返したい。

 ニノンはそう思いながらも、不思議そうに小首をかしげたエルシャンに、口を噤んでぎこちない笑みだけを返しておいた。


 これでも、彼女は王都では知らない人は居ないほどの高名な採掘者マイナーなのだ。ニノンは採掘者協会の行く末が心配になった。

 エルシャンの隣では、この一年で驚く程に成長した藍色のふわふわとした髪の少女――ソフィ・シャルミルが、何故か付け髭をつけ腕を組んで、感慨深そうな渋い表情をノイルとレットの二人に向けている。今は何に成りきっているつもりなのか、何をしているのかもわからないが、今やニノンよりも背の高い彼女は、直に少女とは呼べなくなるだろう。


「――ねえニノン」


「あ、はいっす」


 ソフィの世界観を考察していると、名を呼ばれニノンは再び正面を向く。すると、鼻血を流すフィオナの隣では、明るい茶色の髪の可愛らしい女性――ノエル・シアルサがニノンへと人好きのする笑みを向けていた。彼女はお茶で満たされたジョッキに両手を添えながら、ニコニコとニノンに話しかける。


「後で釣りのテクニックとか教えてくれない?」


「え⋯⋯」


 そのお願いに、ニノンはやや警戒しながら怪訝な瞳をノエルに向けた。つい先程の考察通りなら、彼女たちは既に釣りを利用してノイルに接近する事は諦めているはずだ。エルシャンの、まあ行動はともかく言っていることも理解できる。そして事実ノイルの釣りに関しては、基本的には彼女たちは下手に手を出さず、好きにさせている。

 だとしたら、ノエルがニノンから釣りの技術を教わる必然性はなく、接近を目論んでいるのだとすればニノンではなくノイルに教わればいい。


 ニノンには、ノエルの思惑が読めなかった。


 ただ、一つわかる事は、明らかに不純な動機で釣りの腕を向上させようとしている、という事だけだ。釣りに関してだけはニノンの嗅覚は優れている。ノエルという人間の考えを読むのは普段ならば困難極まりないが、今はその愛らしい笑顔の中に下心、というべきなのかはわからないが邪な色を感じ取れた。

 そして、近日に控えた釣り大会。ここまでくれば、そこで何かしら企んでいると推察するのは容易だ。


 ニノンは一度ノイルをちらりと横目で窺う。


 ターゲットは彼。そんな事は考えるまでもない。問題は自分にも危害が及ぶかどうかだ。釣りの技術を教えるだけならば構わない。ただし、面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。


 ニノンは再びノエルへと視線を向けた。

 ノエルの笑顔は変わらない。

 ニノンは思考する。


 引き受けるのが正解か、断るのが正解か。

 どちらがより楽かを。


 結論が出るのは早かった。


「条件があるっす」


「うん」


「釣りを教える以外の事を、私はやらないしやらせない。釣り大会の日には私には一切関わらない。それでいいっすか」


「いいよ」


「なら引き受けるっす」


 逃げ道を作り、安全を確保した上で引き受ける。どちらが正解かわからないなら、自ら正解を作り出した。多分、ノイルの事まで考えるのならば断わるべき頼みだろうが、ニノンはそこまで殊勝な人間ではなく、彼がもし逆の立場なら同じ事をしただろう。故にニノンは悪くはない。例えわかっていた上で間接的に彼女の策に加担していたとしても、悪くない。

 自分たちは汚属性であり、ならばこの程度は裏切りにはならないのだ。


 まあ⋯⋯何するつもりかさり気なく訊きだして、忠告と助言くらいなら⋯⋯


「そっちも余計な事はしないでね」


「あ、はいっす」


 笑顔で釘を刺され、ニノンはこくりと頷いた。


 悪いとは思ってるっすよ⋯⋯。


 そして、ふっとニヒルな笑みを浮かべてワインを一口飲む。ノイルの方はもう見ない事にした。


「――浅ましい」


 と、エルシャン達のついているテーブルとは反対の、ニノン達の隣のテーブルに座っていたストロベリーブロンドの髪の女性――魔法士がまるでゴミを見るかのような目をノエルへ向けてそう呟いた。


 あー⋯⋯始まったっす⋯⋯。


 ニノンは半ば反射的に身を縮める。


「平然と抜け駆けしようとするんですね。恥を知ったらどうですか?」


「何が、マリー? そもそも別に私たち仲良しってわけじゃないし、抜け駆けも何もないでしょ」


 マリー――魔法士が小バカにするかの様に肩を竦めると、ノエルも彼女へと笑顔を返した。


 何が始まったのかはわかんないっすけど、何か始まっちゃったっす⋯⋯。


 ニノンは椅子の上で膝を抱え、やや斜め上に遠い目を向ける。安全を確保したとはいえ、釣りを教えるのを引き受けたのは、軽率過ぎたかもしれないと早くも後悔する事になった。


 へへ⋯⋯私、何やらかしたっすか。


「おほー」


 何故か串に刺さったチーズをミリスに手渡され、ニノンはそれをとりあえず彼女と一緒に焼きながら嵐が収まるのを待つ事にした。


 魔法士はノエルの返答に呆れたように首を横に振ると、彼女ではなくニノンへと声をかける。


「ニノンちゃん」


「あ、はいっす」


 ニノンはとろけていくチーズから目を逸さずに頷いた。目を合わせてはいけないのだ。


「釣りを教える必要なんてないからね。あの穢れた女に」


 あーキツいっすね。

 相変わらずキツいっす。

 ノイルさんとレットさんの喧嘩が児戯に思えるっす。


 ニノンはそう思い冷や汗を流しながら、決して彼女と目を合わせずに耳だけを傾ける。魔法士――いや、彼女だけでなくノイルの周りの女性陣は平然と恋敵を貶める。穢れた女など、ニノンはおそらく一生の内で一度も口にする事はないだろう。そもそも普通の人ならそんな言葉を口にする機会がない。しかし、彼女達の間ではこの程度ならば挨拶と何ら変わりないのだ。

 奥で行われている男の二人の本気の喧嘩など、微笑ましくすら思えてくる。ジャブで既にストマックにかかる圧が違う。


 ニノンはちらりとカウンター席の方に視線を向けた。そこでは、既に退避を済ませていた男性陣、ガルフ・コーディアス、クライス・ティアルエ、守護者――ゼスト、キルギス・ハイエンが物珍しそうにノイルとレットの喧嘩を眺めながら談笑している。ニノンたち女性陣のテーブルには一切目を向けようとしない。

 元より女性陣の囲むテーブルに近づこうとはしない狩人――シスフィ、それに付き添った癒し手――メイエスタと、変革者――ユーリアもカウンター席の方に居た。

 『紺碧の人形アジュールドール』の一号と新二号もその輪に加わっており、あの二人はあの二人で何やら最近良い雰囲気らしい。


 全員がノイルとレットの喧嘩を見守って口を出さないが、あちらは非常に平和な世界だった。


 私は⋯⋯何でこっち側なんすかね⋯⋯。


 ニノンもあちら側の人間になりたかった。しかし、ミリスを始めとした者達に誘われてしまえばその近くに座らざるを得ない。妙に気に入られているというのは、ニノンにとっては失礼ながらあまり嬉しい事ではなかった。


「ニノンちゃん、この面の皮が厚い醜い女はね」


 遠い世界にニノンが憧れていると、魔法士は実に親しげに話を続けた。焼けるチーズが芳しい香りを漂わせるが、ニノンの胃が痛み始める。


「ノイルさんより釣り大会で良い成績を収めるつもりなの」


 その言葉に、ニノンは眉根を寄せた。焼いていたチーズをミリスの皿に乗せ――


「それはニノンが食べて良いぞ」


 自分の皿に乗せ。思わず魔法士の方を向く。そして、いつもの厚手のローブ姿の彼女にぽつりと呟いた。


「無理だと思うっすよ」


 何故ノイルに勝ちたいのかはわからないが――


「ん?」


「ニノンちゃん、これ⋯⋯」


 と、魔法士に視線を向けていたニノンの肩を、ミリスとは逆の彼女の隣の席に座っていた赤茶色の髪の女性――エイミー・フリアンがちょいちょいとつついた。そして、眉を顰めるとニノンにささやきかけ、彼女の前にスッと一枚のメモ用紙を差し出す。テーブルの上のそれに書かれた内容を、ニノンはとりあえず黙読する。


 ――怒りで判断力の鈍ってるノイルさんに、条件付きの勝負を持ちかけると⋯⋯?


 ぞわりと――その文面見た瞬間、ニノンの肌は粟立った。

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