第33話 帰郷の空・終
体の芯が
橘教官と別れて下宿に帰った誠は、さんざん水でシャワーを浴びた。汚れをさっぱりと落とし、十分に身体を冷やして、今はベッドに大の字に横になっていたが、胸の内から生じる熱を消し去ることはできなかった。激しさを極めた闘いの後、肉体は休息を求めていた。だが心はそれを許さなかった。
「とにかく休みは終わったんだ」
跳ね上がるようにベッドから起きた誠は、非常用のランタンを片手に、壁に吊してあった
…明日は、今日とは違う自分が使うつもりでな…
やかましく言っていた管理人の部屋らしく、床には塵一つ落ちていなかった。夕刻に使っていた調理器具も、きれいに洗われて網棚に置かれている。
「さすが海兵隊あがり」
誠は息を漏らした。
戦時下の兵士は過去に未練を残さないために、自室を出るときには完璧なまでに掃除をしておくという。
…出立の時はすぐ目の前にあるかも知れない。だからこそ坊や、今とこの場を大切に
…そして迎えよう、仲間が待つホームへ飛び立つ その時を…
下駄箱の横に、綺麗に磨かれて置いてある誠の革靴が、伊藤操縦士の残留思考をささやいた。次いで、一階の格納庫にある錆混じりのコンテナの扉が開き、超小型のジェット機が翼を広げながら突堤を滑走し、空に飛び立つイメージが続いた。
伊藤操縦士は、誠の心が安定することを願いながら、大空に出立する日を楽しみに待っていたのだ。
「ああ、伊藤さん」
初老の操縦士の思いやりに満ちたメッセージに、熱を溜めていた胸の
植え付けられていた記憶の残骸とともに、抑圧されていた感情がどっと流れ始めた。それなりに解消されていたはずの、能力者ゆえの悩みや苦しみが、狂おしく奔出してくる。
…人の心から放たれる無数の尖った針、逃げ場のない孤独の中で味わった死への誘惑、
誠は、破裂しそうな鼓動にふらつきながらも体を動かし続けた。玄関を出て、鉄階段を下りながら、箒で足下を掃き続けた。今できることに五感のエネルギーを費やし、感情の流れが、清らかな風へと霧散していくのを待った。
汗を滴らせながら一階の格納庫を掃き終えて外に出た時、夜空には煌々たる満月が浮かんでいた。天球に散らばっていた小さな星々は、輝きの座を一つ所に集めようとするように、その数を減らしている。
港に目を向ければ、既に漁船からの投光は消え、診療所から漏れる光が時に自衛官たちの影に遮られ、ちらちらと揺れていた。
「島は眠りについた」
つぶやきとともに流れた息には、もはや荒々しさはなかった。体の火照りは気だるさへと変わっている。部屋に戻るのも億劫になり、階段下のステップに背をついて座った。
意外に眩しい月の光の下で、誠はそっと瞼を閉じた。
… … …
空に微かな風切り音が聞こえた。音源に耳を傾け、姿の見えない上空の鳥の知覚に波動を宿らせた。
『君は何処に行くんだい』
翼の持ち主に声をかけた。もちろん返事はなかった。誠自身の瞼の裏に透ける月の光と、鳥の瞳に映っている月の光が重なり、美しい金色の光輪が広がった。
『何処に行くかなんて、野暮な質問だったね』
誠は微笑みながら、遠離っていく鳥の知覚に波動を宿らせ続けた。流れる時の狭間に、船とヘリのエンジン音、幾多の硬い靴音が遠くに聞こえた。
『空挺団は帰っていった。けれど夜明けはまだ先のこと』
薄く開けた瞳にも、空の遥か高みからの視線にも、東の彼方から伸びてくる光は映らなかった。
誠の瞳は、翼の持ち主の赴くままに空を駆っていた。
前方に羽ばたきの気配を察すれば、空間を跳躍し、別の鳥の視線を持った。
…黒い大地に点々と浮かぶ街灯と淡い筋を描く道路の光…花火のように広がっては消えていく都会の明かり…
…時に吹きつける突風、身を凍らせるジェット機の爆音…
知覚を宿した鳥たちは何も語らずに、その強靭な翼で空を抱き、同時に空に抱かれながら羽ばたき続けた。
途中、波動の宿り先の鳥が、大きく旋回しながら降下を始めた。長旅に疲れた翼を癒す一時の休息の場を地上に見つけたのだ。
そこは広い道が交差する巨大な区画だった。
その中心には、春の日差しのような柔らかい黄色の光が広がっている。遠巻きに複数の人間の気配がある。どれもが優しく、地上への降り立ちを見守っている。
…お帰りなさい、先輩…
翼をたたんだ体を、黄色い光が温かく包み込んだ。
了
高校生(超能力)戦士〜Eyes Over The Sky @tnozu
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