第32話 帰郷の空2
…南にずれている…
…丘を流れる風は読んでいるのか…
…校庭は約百メートル径。だが操作性の低いラウンド(円形)タイプで、木々に覆われ、海風が吹き上げるこの場所への着地はきつい…
周囲の思考がざわめいた。
『心配は無用。教官はきっちり風を読んでいる』
誠は思った。
石段の上空にずれてしまっているパラシュートからは、若葉色の生体波動がビームのように伸びて周囲を探っている。
人の感情は、気温や風などの自然環境よって微妙に変化し、それと同時に波動も伸びや向きを変える。教官は、歩哨に立つ自衛官たちの生体波動を、吹き流しのように見ているのだ。
『彼は、自分と自然世界を、そしてあの青年を信頼しきっている』
誰かの思考とともに、ハタハタという風音が聞こえ始めた。
海岸から吹き上げる風を受け、パラシュートが校庭側にあおられた。
タン!
誠の手前5メートルほどの所に橘教官は降りたった。着地の衝撃をやわらげるために横に倒れながらも、右手で地面を叩いて起き上がった。
「教官!」
特に交わす言葉はなかった。歩み寄った誠の突き出した拳を 厚手の革手袋が力強く受け止めた。
「いいパンチだ、三井」
ゴーグルの下に暗闇でも分かる白い歯が剥き出した。
「君、見事なランディングだったよ」
パラシュート降下の難しさを知るプロ中のプロたちが、感嘆の思いとともに集まってきた。立場の分からない奇妙な高校生の存在はすっかり忘れられている。
「橘君とやら、君の所属部隊は…」
フラッシュライトを教官に当てた男が、その場でビーンと直立して固まった。他の自衛官たちも同様だ。滅多にお目に掛かれない教官の隊服姿。その肩章、三つの桜の花と二本線の刺繍に気付いたのだ。
「すまない。極秘任務であれこれ言えないのだ」
腰のハーネスを外しながら、教官が言った。
「はっ、一佐殿」
この場の自衛官にとっては、いわば雲上人のような存在だったに違いない。千人に及ぶ部隊への指令権をもつ上級士官が、独りで空から降りてくるなど普通ではありえないのだ。何をしてよいものか、戸惑うばかりの様子だった。
『へっ』
誠は心の内で笑った。
学校では特殊能力のエキスパートとしての教官で、階級について話をしたことはない。階級章のついた服を着ている姿も見たことはない。いつものエネルギッシュな波動は、どこかぎこちない。
『しょうがないだろう。余計な詮索を受けないためには、階級を利用せんといかんのだ』
「それで、テロリスト達の現状は?」
やや情けない思考の声の一方、落ちついた低い声で教官は聞いた。パラシュート降下の際の装備品は、隊員らが丁寧に回収している。
「報告いたします。テロリスト総勢五十一名、その多くは眠っておりますが、この場と、丘の頂上、クルーザーにて確保しております。念のため、島の各所を隊員が探索しておりますが、隠れている者が見つかったという報告はありません。明日の未明までに、海上保安庁の部隊が到着する予定で、テロリストとクルーザーの引き渡しがすみ次第、我々はこの島を離れます」
先ほど自衛官たちに命令を下した上官が滑舌よく話した。
「了解、降下の出迎えありがとう。では任務を続行してくれたまえ」
「はっ」
挙手の敬礼をし、自衛官たちは教官から離れていった。彼らの足取りは、やや緊張しながらも気分が昂揚した時のように軽かった。空挺のプロでも見惚れるようなパラシュート降下の技は、即、実戦に飛び込まんとする姿勢でもあった。現場の息遣いを知っている上級士官からの直接の言葉は、隊員たちの志気を大いに高めたのだ。
「教官、今みたいな様子、ぜひ生徒たちに見せて下さい。すごい偉い人から訓練を受けてるって感動されますよ」
「三井よ。嘘か本音かは丸見えだぜ」
「うう、やだやだ。能力者の教官は持ちたくない」
二人は脇腹を小突き合いながら、大いに笑った。
診療所に向かう途中の橘教官は、なかなかに忙しく滑稽だった。冗談めいて学校での出来事を話していたかと思えば、急に姿勢を正し、直立する自衛官たちにねぎらいの言葉をかけたり、ころころと態度を変えていたのだ。
「気遣いって大変ですね」
教官の明るい言葉の裏には、心寂しい思いをしていた誠への優しい配慮があることがわかっていた。
「大変だが、本心と一致しているのなら、なんの苦もないことだよ」
陽気に肩をすくめた教官が、言葉を加えた。
「まあ、本心と一致していても、気遣いに苦労することも多々あるけどな」
「特に愛する女性の前では」
チラリと見えてしまった白色の波動を持つ女性のイメージを、誠はズームアップして心に描いた。
「うーむ、それがやっかいなんだ。女心の前では、本心と気遣いのバランスをとるのがやたらに難しい。おまけにあっちはマスター・ウェーブ・コントローラー、すべてはお見通しだしな」
真面目に言葉を返した教官の表情に、誠はあることを思い出した。
「教官、お願いがあるのですが」
「なんだ、改まって」
目の前に診療所の明かりが見えた。自衛官や島民たちが溢れる中で、誠は外見上の口を閉じた。
『これは事件に直接関係がなくて、イーエス委員会の規律に反することかも知れませんが』
『おう、はっきり言ってみ』
『伊神亮介の足跡を追って、この島にやってきた女性の事のことなんですが』
誠は思いを圧縮して伝えた。
『ふむ。生体波動を同調させ、水沢刑事の記憶に伊神の最期の映像を刻みつける。それで彼女が知りたかったことを伝えてあげるわけだな。
うーん、それを覚醒時に行うことは、一般人の脳に手を加えること、極秘事項を伝えること。二重の意味で規律違反だ。だが、夢の映像として見せることは、侵入性も低く、内容も曖昧。今後の誠への追跡もやむ可能性もあるという点で、規律すれすれにオーケーだと思う』
『ならば、お願いしても…』
『だが、僕はしない』
すぐ横で敬礼をした自衛官に、同様の動作を返した教官が、誠に首を曲げた。
『それはおまえの願望に過ぎず、彼女がもつ心の羅針盤を人為的に消すことでもあるからだ』
黒い瞳の奥から、矢のように鋭いメッセージが投げ込まれた。
『それは僕の願望にすぎず、彼女の心の羅針盤を消すこと』
痛かった。まるで、固まりかけた
水沢刑事がこの島に追いかけてきたのは、姉が愛した男の足跡だ。彼女は、伊神亮介が既にこの世を去っていることを知らない。もしここで事実を知ったら、追いかけるものがなくなったら…その後の水沢刑事の心境は予想することはできない。
言えるのは、彼女に道を示してきた心の羅針盤が一つ消えるということ。充足は、時に欠落以上の空虚感を生みだす。
『僕は、自分が背負いこんだ秘密という重荷を彼女に渡して、楽になりたかったのだ』
『人について背負いこんだ重荷は、その人の歩みを信じきることで軽くなるさ。さて、一仕事する前に、眠れる伊藤おじさんと、勇ましき女性刑事の顔を拝んでおこうか』
『仕事?』
『ああ、後始末だ。驚異的な能力をもった高校生の情報を、敵さんの頭の中で書き換えとかんとな。今後の大事件の火種ともなりかねない』
『では、水沢さんの記憶の書き換えもするということ?』
『いや。第一に彼女は犯罪者ではない。そんな彼女が必死に集め、経験したことを書き換えることはできない。第二に彼女は公私両方の立場で、秘密をきっちり守ってくれるはずだ。イーエス委員会には報告するが、たぶん委員会も同じ結論を出すと思う』
「ささ、一佐殿」
診療所のドアが開かれた。
「情報提供、ありがとう。では三井君、今日はじっくり休みたまえ」
橘教官が姿勢を正して、手を伸ばした。
『再会できて、ほんと嬉しかったよ』
硬く結ばれた手から、痛いほどに熱い波動が放出された。
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