第27話 ミラーニューロン2

むっと漂う草いきれの中、夏の虫が鳴いていた。人の気配を感じて草や小枝を揺らすものがいる。大した重みのない小さな生物の移動。蛇、蛙、鼠…そういった類だろう。道幅は二メートルに満たないが、地面は踏み固められていた。

「足跡は?」

小道に入る前に水沢刑事が足下を照らした。

小石のめり込んだ土には、荒いソールの足跡が多数あったが、長靴をはいて果樹園を往復をする島民が多いため、敵のものとの断定はできなかった。


「今日は蜘蛛さんたち、お休みみたいね」

左右の茂みが深くなったところで、後ろに声が飛んだ。

「そんな日だってありますよ」

「ふっ」

軽く息を吐いた二人は、歩みを緩めることなく、しかし、より慎重に進んだ。


蜘蛛…。先を歩む水沢が、粘つく蜘蛛の巣の糸に悩まされることはなかった。多くの虫たちが通る宙の道、蜘蛛が巣をかけるには絶好の場所のはずである。そこに巣がないということは、数十分以内に人が通ったということ。島民たちは日没を待たずに丘を下っている。

『敵はいる』

誠は確信した。水沢刑事も気づいているはずだ。


「この道、通ったことがあるから、僕が先に行きましょうか」

「高校生がライターをつけて歩いていたら、怖いおじさんたちに叱られてよ。一応、お姉さんが守ってあげるけど」

「はい」

提案はあっさり却下された。炎を携えて前を歩く水沢刑事は、闇に潜むかもしれない敵の吹き矢の的となろうとしてくれているのだ。


『事が起こったら…ストロボ光をぶちまけながら果樹園を抜け、坂を下って、港で漁船を失敬して脱出する』

誠の脳裏に今後の計画がめぐった。

『いや、僕は船を操縦したことがない。漁師に頼んで島を脱出する。そして…ああ、敵はクルーザーを持っている。すぐに追いつかれてしまう。それに伊藤管理人を置いていくわけにはいかない。敵が気づいているかは知らないが、あの厳ついおじさんだって、自分と同じ情報に接触しているのだろうから。

しかし…、自分は出会って一時間も経っていない女性を信じ、行動を共にしている。これでよいのだろうか。彼女が敵の一味だとしたら』

歩調が緩んだ。土からはみ出していた岩に足下がぐらついた。


『僕は馬鹿か!辿り着いてもいない石橋を叩いて、疑心暗鬼にもなっている。理屈で考えるんじゃない、自分の体が感じるものを信じるんだ』

似たようなことを、どこかで誰かが教えてくれた。デジャブなどではない。自分と一緒に戦った熱い情熱を持った人…。

『肌で感じる。そう、目の前の女性も、かの人と同じ情熱を持っている』

先を歩む細い影を見て誠は思った。


「ねえ、吹き矢の針って、刺さると痛いのかしら」

水沢刑事が言いながら足を止めた。炎に照らし出された先に、人の腕ほどの太さの木が折れ、斜めに道を塞いでいた。高さは膝辺りで、普段なら手をついてひょいと跨いでいくところだ。

ズズズ…

水沢刑事はナイフの刃先で、折れた木の表面の一部をいだ。埋め込まれていた吹き矢の針が微かに光って地面に落ちた。

「じゃ、ここを踏んでね」

二人は針のなくなった部分を踏んで前に降りた。

「残りの針は、後ろの敵さん用に残すんですね」

「そのとおりよ」

先を見据えながら水沢は笑った。茂みは十メートル前方で切れていた。紺色の空が漏斗のような輪郭を現している。薄雲の合間に星が一つ流れた。あるいは稼働停止中の人工衛星か。


・・ ・・ ・・

ヘリコプターの低い轟きが聞こえてきた。サーチライトを照射しながら島に接近している。ほどなく上空を突っ切り、港の方に降りていった。

「海上保安庁のヘリだわ。島民からの無線通報を受けたのね」

「磯辺に停泊しているクルーザーに気づいてくれたらいいのだけど」

「後で教えてね、その千里眼のこと。さあ、あちらさん慌てているはずよ。今を逃してはいけないわ」

炎を消した水沢刑事が腕を伸ばし、誠がかけていたカメラの肩紐を外して自分にかけた。


「これから私は全力で走る。あなたは距離をおいて後から来て!」

「果樹園に出たら茂みに沿って右に行けば、降り口があります」

「ありがとう」

柔らかい手が誠の手を握った。冷ややかだが生気に満ちた強さがあった。誠も力強く握り返した。

「じゃ!」

しなやかなタップが刻まれた。夜行性の獣のような足取りの先に閃光が放たれ始めた。

『よし!』

誠は短く息を切った。残りの坂を一気に駆け上がっていく。


黒い果樹園が目の前に広がった。右に折れていくストロボ光の点滅を目印に、下草の刈られた平坦な土地を、木々を避けながらジグザグに走る。心は張り詰めた状態だったが、体を左右にぶらしながら進む感じが妙に心地よかった。


『敵はいないのか』

一瞬の疑問とともに視線を向けている先、点滅する光の中に黒い影が踊った。女性の低い呻き声が続き、先導していた光が消えた。

『やはり いた』

心がつぶやいた。と、斜めに体が宙を飛んだ。地面すれすれに張られていたロープに足を取られたのだ。自分の吐息が遠ざかった。紺色の空と黒い地面が回転している。頭部を曲げ、受け身の姿勢をとった。


ドツッ!

肩への強い衝撃とともに、鋭く硬い石が背中を突いた。息ができなかった。思考が回らず、体も動かない。ただ、空宙に伸びる木の葉が揺れて見えた。


奪われたカメラのストロボ光が視界の端に点滅し始めた。矛先をこちらに向けて近づいてくる。幾多の靴音が集結してくる。辛うじて体を捻り、背中がその下の尖った石からずれた時、

「手こずらせやがって」

怒鳴り声とともに、腹を深く蹴り上げられた。




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