第23話 眠りし者3
『ん、何やらうまそうな…』
部屋の中に漂う甘酸っぱい香りに、誠は目を開いた。
シャワーの後、階段の下で鼻歌まじりに釣り道具を洗う伊藤管理人を横に過ぎ、誠は自室に戻ってベッドに横になった。また歴史の教科書を手に取ったが、いつの間にか眠っていたようだ。夕方の赤味を帯びた光につつまれた机上の時計は、六時三十五分を指していた。
「うはっ、遅れる」
誠は慌てて起き上がり、ベッド下の収納からジーンズを引き出して足を通した。
「よっしゃ、完了!」
隣の部屋から、威勢のよい声が響いた。元気すぎる隣人の大声が投げつけられる前に誠は扉を開けた。
ガスコンロの前に立つ、頭に鉢巻き、花柄のエプロン姿の管理人が振り返った。
「おっ、いい所に登場だ。これ食ってみ」
差し出された金属ボウルの中には、先ほど伊藤管理人が釣っていた山ほどのコアジが揚げられ、千切りの人参やタマネギと混ぜ合わされていた。
「これ、なんですか」
「まあまあ」
おそるおそる指に挟んで、口に放り込めば、
「うまい!」思わず声が漏れた。
「だろ!南蛮漬けってやつよ。ただ揚げただけでは面白くないから、シェフの味を加えてやったわ。この味に辿り着くのに十匹は食っちまったがな」
ガラガラと笑う男の横で、誠の手は自然にボウルに伸びた。
「全部いくなよ。先生の家族への手土産がなくなっちまう」
「あと、二匹…」
確実な味の保証を示すおねだりに、管理人の鋭い眼光がほのぼのと緩んだ。
「坊や、先に行っててな。わしは、もう少し味が滲みてから行くから」
油汁のついた手を洗面台で洗っている誠に声が投げられた。どうやら料理の出来映えに満足して、競走の約束は忘れているらしい。
「あっ、はい」
日没が迫っているとはいえ、夏ただ中のこと、調理魚を運びながら汗にまみれるのは勘弁だった。管理人が余計なことを思い出す前に玄関に急いだ。
「では、お先に」
「おう!」
足音を鈍く残す鉄製の階段を降りた先のステップに、防波堤の影が長く伸びていた。遠くの島影に朱色に肥大した太陽が差し掛かかろうとしていた。
誠は防波堤の上を丘に向かって歩いた。仕事を終えた一隻の漁船が、鈍いエンジン音とともに入港してくる。二、三人の漁師が桟橋の上で網の手入れをしている。
『なんだろう、この感じは』
胸の内に微かな切迫感を感じた。鼓動が高まっている。
『幻覚の世界からの誘惑?意識ははっきりしているのに』
と、一直線に飛来してくる物体が視界の端に映った。思考を巡らせる前に、右腕が跳ね上がり、首筋の手前で弾き飛ばした。肘を降ろす間もなく、手首が俊敏に回転し、再び飛来した物体を排除した。
誠は横の小道に飛び降りた。そのまま腰を低く落とし、堤の壁に沿って走った。
『あれは?』
桟橋から六十メートルほど離れた丘の登り口で誠は息を吐いた。呼吸は上がっているが、先ほど感じられた切迫感は消えている。軽い痛みを残す手の甲に目を向ければ、赤い筋が残っていた。
『幻覚ではない。あの弾き飛ばした物は…』
先ほど視界に映ったのは、最初はごく小さな点だった。そして弾かれて落下していく時に見えたのは、ちょうどゴルフのピンを一回りスリムにした円錐形。先端は、針のように尖っていた。
『吹き矢だ…誰かが僕に放った』
停泊中の船のいずれかから放たれたのに違いないが、残念ながら怪しい動きをする人物は視界に映らなかった。恐らく西日の影に隠れていたに違いない。
『しかし、何のために』
島民はよそ者である誠を快く迎えてくれている。夏休みで帰省中の若い世代も同様だ。気さくに近づき、出身地のことなどを尋ねてくる。
…静岡出身けえ、ほなら、富士山のぼったん?…
…ほんでまた、どうして、こんな所に?…
…なんぞ不便があったら、遠慮なく言いよ…
方言混じりの屈託のない言葉を、何度聞いたことだろう。彼らに敵意があるとは思えない。さらに自分が来たことによって、迷惑を被っている人といえば、島に置いてけぼりを喰らった新本教諭ぐらい。教諭が吹き矢を放つなどありえない。
『ということは、イタズラか』
敵意こそないが、よそ者は
「ふっ、トレーニングを勧めてくれた管理人さんに感謝しなくては」
下宿のある方を向いてつぶやいた。
伊藤からは、気になることがあれば、自分で処理しようとせずに報告するように言われている。悪戯とはいえ、吹き矢を放つなど重大事故を招きかねない。だがそれを一本気な伊藤に知らせたら、どうなることだろう。先ほどのご機嫌ぶりは、マグマのような熱い怒りに転じ、島の代表宅に怒鳴り込んでいきかねない。
「初めてのことだし、報告はなしということで…」
誠は、丘の小道を登り始めた。
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