第22話 眠りし者2

丘を下った先、防波堤の端のせり出しに、釣り糸を垂らしている初老の男がいた。

「伊藤さん、今日の収穫は?」

誠は声をかけた。

「よお、下宿人の坊や。それがな、今日は入れ食いってやつよ。ちょうどコアジの群がこの湾にきたみたいでな」

痩せこけた頬の上、サングラスの奧で鋭い眼光が笑っていた。見れば、横に置かれたバケツには、体長五センチ程の魚たちが溢れんばかりにうごめいていた。


「今夜は、こいつらで揚げ魚の食い放題といこうや」

「いや、僕、新本先生に星空観察を誘われているんです。それにご家族との食事も…そうだ、伊藤さんも一緒に行きませんか。先生には言っていないけど、それだけの魚を持っていったら文句も言われないだろうし」

「ちっ、そしたらわしらの食い分が減っちまうじゃないか」

舌打ちの横で、誠の頬が思わず緩んだ。


男の名は伊藤忠八。下宿のもう一つの部屋に住む管理人だ。

自然に満ちたこの島での管理人の募集を知り、勤めていた会社を辞めてやってきたという。誠の身の周りのことをあれこれ面倒みてくれている他は、釣りばかりして過ごしている。

詳しい素性は知らないが、怪しい人物ではないのだろう。何せ、教育委員会の審査を経て、下宿の管理人に選ばれたのだから。

歳は三回り近く離れているが、誠にとっては、島で唯一の気が置けない人物だった。厳つい外見の一方での快活さや情の深さもあったが、どこかしら自分が失くしてしまっているものを補ってくれているような気がしていたのだ。


「それじゃ、もう一踏ん張りせんといかんな。おっ、今三匹は喰いついているぞ。ついでだから日頃のトレーニングの成果を試してやろう。針は全部で八つだ。いいか」

「それを捕まえろって?」

「おうさ、せっかく身につけた能力だ、実戦で使わんとな」

「実戦?まあ、やってみましょう」

誠が返事をするのと同時に、伊藤管理人の握る釣り竿が上方に跳ね上げられた。うごめく魚の背鰭が紺色の空にきらめく弧を描いた。


『枝分かれしたテグスの先に喰いついているのは、三匹じゃない。四匹だ!』

瞬時に見て取った誠は、上方から落下してくる魚に、目にも止まらぬ早業で腕を突き出した。端から見ている者には、空中にあるピアノの鍵盤でも叩いているように見えただろう。


伊藤管理人が視線を横に向けた時には、既に魚たちは誠の両手に二匹ずつ納まっていた。余っていた釣り針は、手に傷をつけることもなく、指の端にぶら下がっている。

「ははーお見事。わしも動体視力には自信があるが、釣り針までは見れんかった」

「そりゃ、さすがにお歳だし」

魚をバケツの中に放りながら誠はつぶやいた。

「えっ、何だと?はっきり言え」

「いや、なんでもないです。じゃあ、先に帰っています」

年寄り扱いを極端に嫌う伊藤管理人だ。怒らせたら余計な競争を突きつけてくるに決まっている。ついこの前も、堤から二百メートルほど沖の獅子岩への競泳をしたばかりだ。


「下宿で、こいつらを調理し終えたら、学校まで競走だ。いいな!」

歩き始めた背中に声が投げられた。やはり聞こえていた。

「やたら体力のあるおじさんとの付き合いはこりごり…」

本心とは別に、誠は小さくぼやいた。


消防団の建物のなごり、防火装備の下げられている階段を登り切り、ドアを開けた誠は1K仕様の管理人の部屋を横切り、納戸を改装した自室のベッドに身を投げた。

天井、そして部屋のあちこちにぶら下がった凸面鏡に、自分の体が映り込んだ。胸のはだけたYシャツ姿の自分が、虚ろな瞳で見返している。

「だめだ!」

ぼうっとしていたら、理解不能の生々しい誘惑に満ちたデジャブの世界に引きずり込まれる。


東西にある二つの小窓を開け、むっとにごった空気を追い出した。深く息を吸いながら再び横になり、枕元に転がっていた歴史の教科書に手を伸ばした。付箋を挟んだページを開く。

…歴史というのはな。現在と未来を支え、今も成長し続ける過去の財産なんだ…

新本教諭のお気に入りの言葉が耳元をよぎった。

『はたして僕の過去の財産は…』

教科書に綴られた歴史上の出来事は、ざるに注がれる水のように空しく視界を流れていった。世界との関係が希薄な自分に、歴史は何を教えてくれるというのだろう。


「つかむ、今の自分を!」

参考書を手放し、むくりと起き上がった誠は、長押なげしのハンガーにズボンを掛けた。Yシャツを身悶えするように脱ぎ捨て、ベッドサイドの籠に入っているスーパーボールを片手にすくった。間髪をあけず、力強く、打ちっ放しのコンクリートの壁に投げつけていく。

「やっぱり、こいつだ」

次々と跳ね返ってくる直径3センチの5つのスーパーボールを、目まぐるしく両手首を回旋させながら、キャッチとスローを繰り返した。その間の時間差は、ゼロコンマ3秒を切っている。バイブレーションのように手を叩く感覚が、たまらなく心地よい。

筋肉がほどよく熱を帯びたところで、視線をあちこちの凸面鏡に向けた。姿は縮んで映っているが、命をもつマシーンと化した自分が躍動的に上肢を動かしていた。


誠がしていることは、いわゆるお手玉。正確にはジャグリングの応用技だ。ゆるやかに壁に投げつけるだけなら、七つのボールを扱うことができる。

実際、世界には、七つ以上のボールを操れる大道芸のプロが存在するという。だがその場合、単に投げ上げたり、床に弾ませる程度に留まる。五つのボールとはいえ、誠のように加速をつけて壁に投げ続けられる者はいない。まして、鏡に映した自分を見ながら行うことなどは、到底不可能なのである。

神業…誠はこの三ヶ月余りに、世界一流のショーステージで喝采を浴びるだろう能力を身につけていた。


「坊やの心を『今この時』に繋ぎ止めるのには、最高の方法だと思う」

出会って数日後、伊藤管理人が三つのスーパーボールを渡し、投げ上げの例を示してくれた。管理人が、彼の潜在的な動体視力と反射神経を見抜いていたかは分からない。だが見事、この方法は誠に適合したのだ。

心が遠くに離れていきそうになれば、ボールの数を増やし、あるいはスピードを早めたり、投げ方を変えた。

「ついでに、視点を変えてやってみたらどうだろう」

技の思わぬ進歩に溜息を漏らした管理人は、島のどこからか、農耕機のサイドミラーを失敬してきて部屋にぶら下げた。

大幅な視覚運動回路の変更に、誠の脳は悲鳴をあげた。だが、一週間とかからずに視野の正面でボールを受けるという染みついた習慣は消え、外部から自分を見つめる視点に対応できるようになった。それで今のレベルに達したのだ。


「けど、限界ってあるよ」

手からこぼれ落ち、部屋中を跳ね回るボールを拾いあげた誠は、苦笑しながらボール投げを再開した。

一般の人には、壁との間を結ぶ五色のラインにしか見えないボールの動きだが、誠には、回転運動をするボールの一つ一つを見ることができた。だが、やはり腕を動かす早さには限界があった。身体能力はさらに上をいく動体視力には追いつけなかった。やがて、たっぷりとかいた汗が指先まで伝うようになり、ボールのコントロールが難しくなった。

一息ついた後、誠は着替えを持って、一階にある消防車両用の格納庫に向かった。

シャッターを引き上げた先に立ちはだかる緑色のコンテナ、何が入っているのかは不明だが、錆混じりの金属の壁を過ぎ、奥手にあるシャワーの蛇口を捻った。


「坊や、帰ったぞ!」

激しく体を打つシャワーの水流の向こうから、怒鳴るような声が聞こえた。


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