第21話 眠りし者1

・・  ・・  ・・  


「…ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

それで、この方丈記の冒頭部分で、作者が言いたいことは…」


開け放たれた窓から風がそよいでいる。どこからともなく白い霧が立ち昇り、古びた木造校舎の香りに、鉄筋の建物の酸味が混じり込んだ。

…つまり…

霧が長身の人の形となり、顔にあたる部分が言葉を発するように動いた。

「時代は…」

人の形をした霧と同調するように誠の口が動き、自然に声が漏れた。


「なんだ、分かるのか。言ってみ」

「時代は、仏教の教えが消えるという末法思想が広まっていた頃です」

目の前で語る誰かの言葉を、誠はそのまま復唱した。

「ほほう。それで」

不意に霧が晴れて、周囲の物がはっきりと輪郭を現した。自分を突き動かしていたものは消え去った。

「いや、わかりません」

「また、リアルなデジャブってやつか」

将棋の駒のような顔立ちの新本教諭が、白髪混じりの頭を前後に振った。

「ぼうっとしながら、はっとする事を言ったかと思えば、しゃっきりしながら、心ここにあらず」

「ええ、まあ」

机を突き合わせて座る教諭に、誠は曖昧に笑いを返した。


デジャブ…

実際には経験していないのに、どこかで見聞きしたように感じること。

リアルという言葉がついているのは、実際に知らなければできないことを部分的に再現できてしまうからだ。

今の授業でもそうだ。確かに方丈記の冒頭部分は聞いたことがある。だが末法思想がどうだの、時代背景などは、自習は勿論のこと習った覚えはない。なのに、部分的ながら明らかに知っている。


「まったく、おまえの頭の中はどうなっとる。受験は半年後に迫っている。どうかな、もう一度、大学病院の精神科を受診してみては」

教諭の眉はハの字に歪んでいた。本気で心配してくれているのだ。が、誠は首を横に振った。

「どうせ、健忘症とか脳波異常とか、変な診断をされるだけですよ。それか、嘘つき呼ばわりされるか」

「そう言うなって。確かに、おまえはいつも心ここにあらずで変わっているよ。でもな、デジャブ云々というのは別格だよ。やはり気になる」

「もうその話はやめましょう。生活には支障ないし。授業の続きいきましょう」

「まあ、本人がそう言うならな。つうか、なんで、ぼうっと屋のおまえに催促されないといかんのや」

苦虫を噛みつぶしたような顔をして、教諭は教科書を手に取った。

「じゃあ、本文読むから、ようく聞いときよ」

「はい」

教諭の口から発せられる先人の綴った言葉の羅列。誠はその意味を捉えることなく、ただ字面だけを目で追った。


リアルなデジャブ…

気持ちを引き締めていれば起こることはなく、それ自体は問題があるとはいえない。

「心ここにあらず」

時折、教諭に指摘される奇妙な非現実感、それこそが問題だった。


目の前にいる中年の教諭とは、高校三年の編入で瀬戸内海に浮かぶこの島に渡ってきた時からの馴染みだ。今も夏休みだというのにぴったり顔を合わせている。すでに三ヶ月を超える濃密な関わりがあるのに、肌で感じる親近感はまだ育っていない。

それだけではない。廃校となった小学校の空き教室を、高校の分教室として利用しているのは、誠ただ一人。当然、周囲にあるのは勝手知ったものばかりだが、愛着心というものは芽生えていなかった。

まるで、夢うつつの世界のような実感のなさ。それは、島民との交わり、二年を過ごした静岡の高校の友人達、父母とのこと、過去に遡るほどにひどくなっていくようだった。

自分がこれまで歩んできた人生というものの実感…誠はそれを感じることができなかった。


【自然豊かな瀬戸内の島で高校生活を!】

学年途中からの編入をよしするこの分教室のPRに惹かれたのは、そんな自分が生まれ変われるのではないかと期待したからだ。だが実のところ、そんな期待があったことさえ怪しい。


ヴォーーー

低く伸びる汽笛が鼓膜を震わせた。

「夕方の定期便がやってきた。今日はこのぐらいにしとこうや」

教科書を置いた新本教諭が顔を綻ばせた。時刻は午後五時を回ったところだ。普段なら六時までは続くはずである。

「誰か来るんですか」

「まあな、娘がな」

「確か、小学一年生の」

「そう、おませなな」

目尻を下げた教諭の傍らで、誠は胸が痛んだ。

新本教諭は、三月末に閉校になった小学校の教頭をしていた。事務処理などの後始末はあったものの、年度初頭には家族の待つ愛媛県の今治市に帰れたはずだった。だが残念ながら、五月の半ばに誠が来ることになった。高校の教員免許を持っていたために、そのまま居残りとなってしまったのだ。


「今夜は二つの天体ショーがある。町明かりのないこの島でこその夜空を、娘に味わってもらいたくて呼んだんだ」

気遣いもあったのかも知れないが、教諭の表情は実に楽しそうだった。

「一つはペルセウス座流星群。もう一つは、ほれ、莫大な費用をかけて打ち上げたのに稼働していない衛星」

「ヘルメスの翼、略称はWOH」

元々口の中にあったように言葉がもれた。

五月に打ち上げられた夢の通信衛星、ヘルメスの翼。だが、各国に割り当てられる専用周波数のコントロールプログラムに、ハッカーが忍び込んだ疑いがあり、稼働は今のところ保留となっている。各国の軍事情報の漏洩の危機をはらんだ大事件だけに、ニュースや新聞をほとんど見ない誠も知っていた。


「おお、それそれ。そいつがこの島の上空を通過するんだ。どうだ、三井も一緒に見ないか」

「はい、ぜひ!」

特に天体観測に興味があったわけではない。だが発せられた言葉には、思いも寄らず強い感情が含まれていた。

…新本教諭の優しさに応えるため…誠は、自分の感情の高まりを、そのように理由づけた。

「おっ、いい返事。衛星の通過時刻は七時半だから、七時ぐらいに校庭に来てくれ。軽い晩飯ばんめしも用意しとくから」

「わかりました」

デイバックに教科書を突っ込んだ誠は、軽く礼をして教室を出た。


校庭の記念樹から蝉時雨せみしぐれが降り注いでいた。校門の石柱を過ぎた所で、瀬戸内の海の煌めきが目に飛び込んできた。

『やっぱり、自然はいいや』

現れ消えるさざ波が無数の光を宙に放っている。深い藍色の夕刻の空に、膨れ上がった積乱雲が広がっている。まさに大自然が描いた絵画であった。

丘を登ってくる磯の香りを深く吸いながら、誠は下宿へと坂道を降りていった。


ここは、愛媛県今治市から北東の沖合約二キロに浮かぶ島、犬床島である。

周囲は約四キロにおよび、百名前後の島民が暮らしている。その多くは高齢者で、漁業のかたわら、柑橘系の果樹栽培を営んでいる。

島はちょうど椀を伏せたような形をしており、電波塔を抱く海抜約八十メートルの丘の南側斜面の中腹に、誠の通う高校の分教場がある。

そこからひび割れたアスファルトの道を五分ばかり下った所に、小さな港があり、防波堤に沿って漁村の家屋が肩を寄せ合って並んでいる。

その端に立つ鉄筋の建物…元々は消防団の建物だったが、団員不足のため用を為すことはなく、その二階にある一室が、県外から来た誠のために貸し出されていた。


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