第15話 ヘルメスの翼

「橘君、金井君。伊神が本格的に動きだすのは、明日の午後だ」

一息ついた後、野村尊師がおもむろに口を開いた。


「明日といえば、通信衛星の打ち上げがある。そういや、昨日の事件で斉藤が走り込んだ喫茶店も、サテライト(衛星)という名前だった」

篠田のつぶやきに似た発言に老人が眉を下げた。

「ほう、察しがよい生徒じゃ。橘君が思考波で送ってくれた事件のあらましで、彼の計画が分かったよ」 

「まさか、伊神は人工衛星から、サブリミナル思考波でも流そうとしているのですか?」

橘教官の疑問に老人はぴしゃりと膝を叩いた。

「その通り!」

「でも、どうしてあいつは、僕らに自分の存在を知らせたのだろう。それに、サテライトなんて名の喫茶店を使うなんて、自分の計画に気付けとでも言っているみたいだ」

誠は首を傾げたが、あっと息を吸った。

「あいつ、事件の後、自分の教官にもよろしくって言っていた。つまり野村尊師によろしくと… 」


「ふむふむ。ちょっと、君」

野村尊師が斉藤を指さして、胸を叩く仕草をした。

「えっ俺、何も悪いことしてないですよ」

「違うわよ」

顔を強ばらせた斉藤に金井教官が手を伸ばした。しなやかな手がカッターシャツの胸ポケットから、薄い小箱を取り出した。

「あの喫茶店のマッチ箱。残留思考はなかったけれど…」

自信なさそうに言う斉藤の手前、尊師が軽く首を曲げた。

「マッチ売りの少女遊び。能力者が使う余興じゃよ。可能性がないとは言えない。金井くん、試してみたまえ」

「はい」

尊師の意図は承知しているとばかり、金井教官は躊躇せずマッチ棒を取り出し、箱の横面を擦った。

「うはっ」

ぽかんと口を開けていた生徒たちから声がもれた。

小さく燃え上がった炎の上方の空間に、巨大なこぶしの映像が投影されたのだ。頭薬の燃焼とともに徐々に開いていく拳の中には、衛星写真で撮られた青い地球が浮かんでいた。どこからか低い含み笑いが聞こえ、炎は消えた。

「マッチの頭薬の内部に残留思考を刻んだんだ。彼は、尊師に、いや世界中のES委員会に挑戦状を突き付けたんだ」

橘教官が吠えるように言った。


明日、五月五日午後二時。種子島にある宇宙センターから、通信衛星を搭載したロケットが打ち上げられる。その衛星の名は、「Wings Of Hermes(ヘルメスの翼)」。

ギリシャ神話に登場する十二神の一人であり、天界、地上、冥界を自由に行き来する神々の伝令役、情報通信の神と言われるヘルメスの名にちなんでいる。


ヘルメスの翼…

略称WOHは、地上で用いられるあらゆる電波を受信することが可能で、それを特殊なマイクロ波に変換し、様々なタイプの衛星に、各々の受信バンドに応じて情報を送ることができる。WOHからの送信を受けた人工衛星は、本来のマイクロ波を使って、既に主要国に配置してある地上トランスレーターに情報を送ることとなる。そしてその情報は、地上波に変換され、各種の端末器に送られるのである。もちろん地上の端末器も、トランスレーターと衛星を介して、WOHを利用できる。


つまり、端末器さえあれば、世界中を飛び交うあらゆる電波のやりとりが可能になるのである。日本でテレビをつければ、イギリスの家庭番組を観ることができるし、うまくすれば、子供用のトランシーバーで、日本と地球の反対側にあるチリとの交信が可能になるかもしれない。


今後、予想される空の彼方での衛星ラッシュや宇宙ゴミの散乱、さらには国家間の領空侵犯争いを危惧した国際衛星委員会が、世界の政府や企業に働きかけて完成した、まさに夢の通信衛星だった。

もちろん、各国政府が単独でもちいる暗号パルス付きの専用周波数が必要になる。軍事大国が秘密裏に打ち上げている偵察衛星の画像まで、お茶の間に流れるなんてことがあってはならないのだ。

各国の暗号パルスは、衛星が静止軌道にのって二時間以内に、指定できるようになっている。その後、WOHは活動を始め、世界のあらゆる電波を飲み込み、放出することになるのだ。



「伊神はWOHを使って、全ての電波に自分の思考波を乗せようとしている。同時に、全ての情報を手に入れようとしているのじゃ」

「しかし尊師、WOHは、我々のサブリミナル思考波をカットするようにプログラムされているはずですが?」

橘教官が聞いた。

「WOHのコンピューター・プログラムを自分の好みに応じて変更しているとしたら?」

尊師がぐっと目を開いた。

「うーむ」

橘教官が唸った。


「あいつは世界を支配する神になってしまう」

篠田がつぶやいた。

「そうじゃ。それが彼の望みじゃ。わしが昔、CIAで働いていた彼の心を読み込んだ時、かなり深いレベルに草藪に隠された金庫のイメージを見つけた。他の能力者たちの協力を得て、それをこじ開けた時、叫び声が飛び出した。

『無力なイーエス能力者たち!俺は愚かな政治家どもの尻拭いをするだけの犬じゃない。必要なのはリーダーだ、人類全ての平和を実現するただ一人のリーダー!いつかきっと俺がなってやる!』とな」

「尊師、彼は既にWOHのコンピュータープログラムを担当した木内博士の精神を乗っ取っているとお考えですか」

金井教官が煌めく瞳を上げた。

「確かに国際ES委員会は、プログラム作成後に博士の記憶に鍵を掛けた。しかし、プログラムに不具合が生じた場合、博士にしっかりと記憶を取り戻してもらう必要がある。よって、その鍵は完璧なものではない。金井君さえ上回るウェーブ・コントロールの力を持っている伊神なら、鍵を破ることは不可能ではない。

鍵を破られた木内博士は、彼の思想の崇拝者として、人格を変容されているに違いない」


少しの沈黙の後、斉藤が首を傾げた。

「もし、あいつが世界の電波に自分の思考波を乗せたとしても、優秀な能力者たちがなんとかしてくれるんじゃないですか。ウェーブ・コントローラーなら、人々がサブリミナル思考波で操られていても、簡単に催眠暗示を破れますよね?」

橘教官が首を振った。

「悲しい事に、ウェーブ・コントローラーでも、一人で対処できるのは十名前後なんだ。考えてもみたまえ、一つの国で、今、テレビを観ている人はどのくらいいるだろう。その人たちが、昨日のように三十分後に自殺するように暗示をかけられたら?そして、今、電波の恩恵を受けている人は何人いよう。ラジオを聴いている人は?スマホを使っている人は?億万単位の暗示にかかった人々を前にしては何もできない」


「もう、どうにもできないということですか」

誠が聞いた。

「いや、手はある。三つの選択肢じゃ。長野の家を出る前、橘君の連絡を受けた国際ES委員会のマズロー会長と思考波を交わしたんじゃが、同じ意見じゃった」

老人が低く言った。

「一つはWOHの打ち上げを中止させる事。一つはコンピュータープログラムを当初の計画通りに打ち直す事。さらに一つは、伊神亮介を捕獲、必要があれば亡き者にする事」

美春が最後の言葉に顔を背けた。


老人は続けた。

「そして我々はそれを、我々だけでやり遂げなければならない。

マズロー会長は、各国の委員会に思考波を送り、日本に派遣する特殊チームを編成してくれている。無論、日本政府には内緒でな。じゃが、チームの到着は容易なことじゃない。日本政府は各国の能力者を把握している。通常の空路や海路の入国経路には、伊神の目が光っていると思ってよい。だから、明日の打ち上げまでにはとても間に合わない。まずは我々でできることをするしかない。

特殊チームは後で、伊神に思考を乗っ取られた能力者や政府高官たちを、じっくりと元に戻してくれることになると思う。もちろん、我々が事を成し遂げたらの話じゃが」


「WOHを壊してしまうのは?それが一番、簡単なようだけど」

斉藤が聞いた。

「そいつはできない」橘教官が軽く首を振った。

「WOHが打ち上げされる種子島宇宙センターは、カウントが始まった昨日から完全に封鎖されている。もし、ヘリや船などで近づこうとすれば、たちまち自衛隊のF35機に木っ端微塵にされてしまう」

「何も、うちらがやるなんて言ってないですよ。外国の軍隊にお願いしたら」

「そいつは論外だよ。日本政府の頭脳は伊神がコントロールしていることを忘れている。国境侵犯で、下手すりゃ、戦争勃発だ」

「そんなあ」

篠田の指摘に、斉藤は力なくうなだれた。


「ということは、いずれにせよ、私たちは筑波の第二宇宙センターに向かわなければならないわけですね」

金井教官がちらりと、橘教官に視線を投げた。

「筑波のセンターには、WOH発射後の管制装置があるし、そのシステム管理の代表スタッフでもある木内博士がいる」

橘教官が大きく頷いた。

「その通りじゃ。WOHジャックを目論む伊神自身もそこにいる」

「ここまでの道のりで、十分な睡眠はとっております。さっそく、現地に参ります。金井教官、行けるかな?」

「もちろん!」

「かぁー、またあの罰当たりのスイカ割りヘリに、こんにちはか。尊師に体を任すと、肩凝りがとれて最高なんだが」

伊藤操縦士が笑いながら腕をぐりぐりと回した。


「でも、筑波の方も厳重な警戒体制がしかれているのでは」

首を傾げた誠に、橘教官が含んだように笑った。

「かもな。だが、あちらは町中にある施設だ。爆撃機で派手にドンパチやられることはない」


「で…三井君、君も一緒に行きなさい」

尊師が言った。

居合わせた皆が、きょとんとして、前に座る老人に顔を向けた。誠も当然驚いた。

『僕が行って何ができる?』

「尊師、三井はまだ高校生です。あちらには衛星の見守り役として、複数の能力者が国連から派遣されています。伊神に心を変容されているいないに関わらず、侵入者を排除しようとするはずです。命を奪われることはないにせよ、精神に深刻なダメージを受けかねません」

強く言う橘教官に、老人は笑った。

「教え子の力を信じ切る。それが教官たる者の務めじゃ」

「むぅー」

唸りながら橘教官は誠の顔を覗き込んだ。青い波動は涼しげに揺れていた。

「教官、僕は平気です」

言いながら誠は自分で驚いた。

『どうしてこんなに落ち着いていられる?気持ちの表では狼狽うろたえているのに、その裏では平然としている』


橘教官が首を捻りながらも頷いた。

「何故だか知らないが、三井の波動は極めて安定している。まるで戦争時の総司令官のように…。気にはなっていたのだが、感情に走りやすい三井の性格が、この数時間の内にがらりと変わってしまった。何か心境の変化でもあったのかい?」

誠は首を振った。

「僕にも分からないんです。伊神への怒りは感じるのだけど、それを冷静に見るもう一つの目が開いたっていうか。ヘリコプターに乗った時からこうなんです」


「三井君、君は、このささやかな修行の場が何処にあるのか、知っているのでは?」

尊師が聞いた。

「ええ、新宿から西に二四〇キロ、そこから北東に四三〇キロの辺りです」

誠はすらすらと答えた。老人がにっこりと頷く。

「こいつはぶったまげた。坊や、GPSでも持っているのかい」

伊藤操縦士が目を見開いた。皆が誠に視線を注いでいる。


「私、最初の授業の時、感情を高ぶらせた三井君を落ち着かせようとウェーブで覆ったことがあります。でも、そこに覆いきれなかった小さな亀裂があった。そして三井君は、私のウェーブコントロールを振り切った。あの時は偶然かとも思ったけど、彼のレーダーのような能力は、そこから発揮されているのですね」

金井教官の目がきらめいた。

「まあ、そういうことじゃ、筑波に乗りこんだ際に、三井君の風変わりな能力が役に立つかも知れん」

「へえ、さっき僕もウエーブを使ったけど、全然気づかなかったぞ」

「一ミリにも満たないごく小さなものよ。ちょうど眉間の辺り」

「やっぱり、マスターレベルにはかなわないな。しかし、尊師、実は具体的な作戦プランをお持ちなのでは?」

誠から視線を外した橘教官が聞いた。


「まあな。じゃが、もったいないから今は言わん。それに今、言ったら君たちがどこかに逃げてしまうかも知れん。若さという未知数への期待を込めて、ミッション・アルファと作戦名を名付けよう」

「くぅー、作戦名だけあって、内容がないときたよ」

橘教官が後ろを向いて小さくののしった。金井教官がその横の畳をぴしりと打った。


「それじゃ俺たちは?まさか一緒に行くってことはないでしょう?」

斉藤が聞いた。その波動は、お化け屋敷に入る前の子供のように硬く凍りついている。

「いやいや、君たちにも力になってもらいたい。ただし、行くのは別便でな。君と篠田君、それに美春は、わしと一緒に地上ルートで筑波まで行こう。わしの体力も、ちと落ちてしまった。もし山を下るとき、へたばってしまったら担いでくれ」

篠田と美春は頷いた。篠田は誠に先を越されたようで、やや不満そうでもあったが、誠は尊師の計画の上で必要な存在なのだ。そう思って納得した様子。

「まあ、いいさ。あの恐ろしいヘリにも乗らなくてすむし。尊師、ゆっくりと行きましょうね。教官たちがうまく事を運んだ後で到着するように」

安堵の息を吐きながら斉藤が言った。


「そいじゃ、わしはヘリをチェックしてきます。いくら、わしの体の操縦がうまい尊師でも、機器が故障したら対処できないでしょうから」

立ち上がった操縦士と二人の教官に、尊師が目を向けた。

「出発は日が暮れてからにしたまえ。夜間の方が、効率よく事が運ぶじゃろうて」

「じゃあ、ひと寝入りするとするか」

伊藤操縦士はゴロリと横になり、十秒と経たない内にいびきをかき始めた。







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