第16話 鳥の瞳
池の奥にブナの原生林に囲まれた天然の露天風呂があった。
周囲の苔が陽の光を浴びてきらきらと輝き、鮮やかな色彩の蘭の花がそこここに咲いている。木々の合間では、鳥たちが伸びやかにさえずり、どこからかクマゲラが幹に嘴を打ちつける音がカツカツと響いてくる。
誠と斉藤、篠田は、橘教官と一緒に熱めの湯に浸かっていた。
「こりゃ、最高でっせ」
顔に湯を掛けながら斉藤が言った。
「だろう。ここには何もない。でもすべてがある」
橘教官は事件のことなど忘れているかのように、晴れやかな顔を空に向けていた。
「この場所のこと、イーエス委員会は知らないんですか。尊師ほどの人なら、現役を引退しても、国連の精神鑑定を受けるのでしょう」
篠田が聞いた。
「確かにな。だが、仙人に憧れる尊師の個人的な趣味などは取るに足らないこと。記録の片隅に残しているかさえ怪しい。
それに宣戦布告した伊神は、尊師との戦いを楽しもうともしている。だから、ここには追手はやって来ない。きっとな」
朗らかに笑った教官の割れた腹筋が湯の中で揺らめいた。
「俺さあ、野村尊師があんな人だとは思わなかったよ。神様みたいに畏れ多い人だと思っていた。あれじゃ、ちょっと賢い普通の爺ちゃんだよ。なあ、三井」
「まあな」
軽く目を閉じ、鳥たちの声に耳を澄ましていた誠は頷いた。
「つれない返事だこと。教えろよ、GPSの秘密」
「僕は本当に知らないんだ。でもな、こうやって鳥の声を聞いていると、何となくわかるような気がする。尊師が僕に期待していることは、全くわからないけど」
「風流なお返事、ありがとうございます」
口をすぼませた斉藤は、教官に首を振った。
「それはそうと教官、金井教官との関係はどうなっているんですか。俺、聞こえたんです、ヘリの中での金井教官の幸せそうな声。『健司さん、あなたのウェーブ、久しぶりよ』って。橘さんならともかく、健司さんですよ。こりゃ、ただ事ではない」
誠は瞳を開いて教官に顔を向けた。隣の篠田がにやついている。
「そいつは、大人の世界の極秘事項だ。君たちが成人式を迎えたら教えてあげよう」
「ふう、やだやだ」
斉藤が首をすくめた。
「なんだかんだ言って、教官だってプライバシーってやつがあるじゃないですか」
誠は突っ込んだ。
「違うって。今、いいところなんだ。おまえらにごちゃ混ぜにされたくない」
「なんだ?いいところって。ますます怪しい」
「あっちいけ!」
教官は首を寄せる三人の生徒に、熱い湯を押しつけた。
「俺、ちょっくら国連にいって、自白剤を手に入れてくるわ」
篠田がざぶりと立ち上がり、誠と斉藤も続いた。
「君たちも、いい青年時代を送りたまえ!」
「何が青年時代だ。自分は、思春期まっただ中のくせに」
斉藤の捨て台詞に、誠と篠田は「全くその通り」と深く頷いた。くるりと背を向けた三人に、小声がかけられた。
「今の話、金井教官には黙っとくんだぞ」
三十分ほど後、誠は一人、池の周りを歩いていた。
浅瀬には黒く光る板が並べられている。尊師が持ってきたという太陽電池だ。その上を銀色の腹をきらめかせて魚が泳いでいる。奥の方では、二匹のカルガモが
湯上がりで火照った体を、心地よい
「三井先輩」
後ろから声がかかった。
振り返ると、風呂上がりで髪の先が濡れている美春がいた。その横には、野村尊師が微笑みながら立っている。カルガモが美春の黄色い波動に魅惑されているかのように浅瀬に泳いでくる。
隣に立った美春は、可愛いらしく尾を振って泳ぐ鳥に優しい視線を注ぎながらも、少し強めに話した。
「私、怒ってるんです。お祖父さんたら、こんな所に太陽電池を置いてしまうんですもの。これって立派な環境破壊だわ」
「わしだって、電気ぐらいほしいわな」情けなく老人がぼやいた。
「森田さんは、よくここに来ていたの」
「ええ、現役を引退したお祖父さんと一緒に。勿論、お風呂に目がない伊藤さんも。あらっ」
美春が水辺の向こうを見ながら息を切った。そこには、空から舞い降りてきたばかりのシラサギがいた。
「あの鳥、足を引きずっている」
美春は走っていった。
誠も後に続いた。間近まで来ても、その白い鳥は逃げなかった。太陽電池のすぐ先にいた鳥は、黒い板の隙間を、長い足で奇妙にリズムをとって二人に向かって歩いてきた。
誠の横に立つ少女からは、黄色の固有波動がジュータンのように伸びていた。その上をシラサギは歩いてきたのだ。
美春は小柄な体で鳥を抱きしめた。か細い足先の二本の指に、釣り糸が絡まっていた。
「かわいそうに。もう少しで壊死を起こしてしまうところよ」
美春が言い、もつれた糸を丁寧にほどいた。シラサギが小さな頭を誠に向けた。
「!」
突然、目の前に広角レンズを覗いているように景色が広がった。
池の周囲の木々が、葉をざわめかせながらぐるりとそそり立っている。その中心に鏡を見ているように自分が立っていた。腰を屈めて心配そうにこちらを見つめている。瞳の中の茶褐色の光彩が大きく広がっている。
黄色の波動に包まれて、どこかで感じていた痛みが遠退いていき、安らぎが満ちてくる。
「ああ、三井先輩、そこにいるんですね」
驚きの声が響いた。
二人の後ろに立つ老人が、ゆっくりと頷いた。
「シラサギの目で見た自分の姿は、どんな風に映っておるかね?」
「…何、言ってるんですか」
僅かの間、口が動かなかったが、何とか話した。シラサギは水辺の奥に歩いていき、一度だけ振り向いた。
また、視点がかわった。
少しだけ自分の姿が遠ざかっていた。その顔は驚いたように引きつっている。自分の瞳の茶褐色の光彩はまだ見えている。鼓動とともに早めの息遣いが聞こえる。魅力的な波動が池からすーと引き、美春の小柄な体の周りで静かに揺れていた。
『僕は今、シラサギの目を、耳を通して、世界を感じている!』
大空が映った。
眼下には、小さく開けた土地がぐるぐると回っている。三つの人の形が池の畔に見える。向こうには新緑の木々に覆われた山並みが続いている。一つの山からは、異性を求める歌声が聞こえている。
ふと我に返ると、シラサギが空の端に飛び去っていくところだった。
「ということじゃ。君は、今、鳥の知覚の中に入っていたんじゃ。先程ここの場所を正確に言い当てたところをみると、君自身が、渡り鳥と同等あるいはそれ以上の方位知覚能力を持っているに違いない」
「私、鳥の瞳の中に、はっきりと先輩の波動を見ることができたわ」
美春が叫んだ。
「僕は、君の波動をこの体でなく、別の小さな体で受け止めていた」
唐突に二つの謎が解けた。
日常から離れて、ふと
固有波動に際だった変化がなかったため、単なる夢と片付けていたが、実際に、空を飛ぶ鳥の知覚とリンクしていたのだ。
そして、美春の波動に感じている何とも言えない懐かしさは、誠の波動を乗せた鳥が、彼女の元を訪れていたからなのだ。傷ついた鳥とともに、誠自身の心の痛みも癒されていたのかもしれない。
「とても珍しい」
じっと誠の目を見つめていた老人が語った。
「遥か古い人類には、君のように、動物に波動の
これまでわしは、世間に埋もれている数多くの能力者に会ったが、君のような能力を持った人に出会ったのは初めてじゃ。
美春の鳥を導く波動に包まれて、それにあの全く特殊なヘリコプターの中で、能力がはっきりと目を覚ましたんじゃろう」
「でも、私が鳥を抱きしめたのは、長野の家か、ここでだけよ。先輩の波動はそんなに遠くまで飛んできていたってこと?」
事情を悟った美春が老人に聞いた。
「うむ、まちがいない。美春が七才の時、この池で足を折ったシギを見つけ、しきりに手当てをしていた。その鳥には、砂粒のような人間の波動が付着していた。
それからあとも、美春は何かしら不具合のある鳥たちを、長野の家かこちらで手当てしていたが、度々に同じ波動が付着しているのをわしは見ていた。奇妙に思っていたのじゃが、君に会ってやっと謎が解けた。その波動こそは、三井君の波動とぴったり同じじゃった。
さて、今度は向こうの山の上のトンビに目を向けてごらん。君の意思も飛ばしてな」
胸の奥にあった謎が氷解したためか、誠は、寄り添うように伸びる黄色い波動に、花のような芳香を感じたような気がした。自分の青い波動が、これまでにない不自然な脈動をはじめている。
『これは能力が伸張するときの波動の動き、あるいは…恋…いや、余計なことを考える時ではない』
誠は目尻を下げながら見つめる老人と、急にうつむいた美春から視線を外し、深く呼吸しながら、空の彼方に旋回する黒い点を見つめた。
『!』
不意に視点が入れ替わった。若草色の山並みが大きく回転していた。山の麓を走るバスが小さく見えている。それを視野の中心に置いた。画像が大きくなったような印象…秋田周遊観光…運転席の上の文字がはっきりと見えた。
『追いこせ』
心のつぶやきに、景色がすばやく流れ、いきなり灰色のバスの天井を掠めた。
低いエンジン音に金属の悲鳴が混じっている。オイルが汚れているのか、排気ガスが黒い。前方に線路がちらりと見えた。枕木が梯子のように、木々の梢に見え隠れして伸びている。最初に見えた山並みは視界の後ろに消えていた。
『さあ、戻ろう』
小さな野原が見えてきた。その端にある池を視野の中心に。魚の銀色の腹が見えた。うろこに黒い筋が走っている。
『捕まえろ』
狙いを定める。池の中の銀色の輝きにダイビング、そして再び大空へ。
「こら、無理をさせたらいかん!」
しゃがれ声が高らかに空に響いた。
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