第13話 尊師の元へ

ジェットホッパーはわずかに残る空の赤みに向かって飛んでいた。

目的地の指示は教官からは出されていない。操縦士は制服を着ておらず、町工場で働くようなベージュの作業衣を着ている。そう言えば機体には何のマークも入っていなかった。


「伊藤さん、この飛行機はどこに所属しているんですか。それに向かっている先は?」

誠はおそるおそる聞いた。

「なあ、金井ちゃん、その坊やに涼やかな声で説明してやってくれ」

渋い声が響き、向かって左側に座る金井教官が顔をのぞかせた。

「三井君、この機は政府機関には所属していないの。学校の創設者の野村敬三氏の個人所有よ。操縦士は専属の伊藤忠八さん。お若い頃はアメリカの空挺師団にいらした筋金入りよ。私が学生の頃は、訓練校に派遣されていらしたのだけど、早めに退職されて、野村氏のもとに行かれたの。伊藤さんは、野村氏以外の誰の命令も受けない。今はご自身で判断して進路を決めているの。政府機関が、伊神の思考に乗っ取られてしまっているとすれば、行く所はただ一つ、私たちが尊師と呼んでいる、野村敬造氏の所よ」

「ということだ。少し訂正しておくが、わしが命令を聞くのは、もう三人、尊師のお気に入りの橘くんと金井ちゃん、それにかわいい美春ちゃんだ」

伊藤操縦士は日に焼けた顔を後ろに向け、誠の隣に座る美春にウィンクした。


ぎょっとして誠たちは、小柄な一年生の顔をのぞき込んだ。

「おぬし、何者!」

斉藤が叫んだ。美春は恥ずかしそうにうつむいた。

「坊やたち、二人の教官は何も言わなかったのかい。美春ちゃんは野村尊師のお孫さんだ。いいか、二人を尊敬してもいいけど、信じちゃだめだ!」

しゃがれた笑い声で満たされたジェットホッパーは、一路、西へと進路を刻んだ。


空に星が瞬き始めた。機体は一度、エアポケットに入ったかのように大きく傾いて落ち込んだ。その後すぐに体勢を立て直し、低速飛行に入った。濃紺の夕闇に浮かぶ黒い山並みを、ひらひらと縫うように飛んでいる。空気を切る高い音がリズミカルにハモっている。ジェットエンジンを停止し、ローター飛行に切り換えたのだ。


誠は我知らずひゅーっと息を鳴らしていた。

伊藤操縦士は世界に悪名高い暴れ馬を、見事に乗りこなしているのだ。

篠田と斉藤はさっきから黙ってうつむいている。不規則に揺れる機体の中で酔ってしまったのだ。誠は、美春の黄色い波動に触れながら、ゆったりとした気分で窓の外を眺めていた。


確かに日本政府は、伊神という男に乗っ取られてしまったのかもしれない。ES機関の中で、まともなのは二人の教官だけだ。だが、日本には忘れてはならない偉大な人物、野村敬三氏がいる。こんな事態でも落ち着いていられる二人の教官の心境が分かったような気がした。


「三井、おまえ平気なのか。こんな常識を越えた飛行機に乗るのは初めてだろう。しかも、山肌を掠めるように飛んで揺れているのに」

向かいの窓側に座る橘教官が首を曲げた。

「ええ、ちっとも」

誠は微笑んだ。

「もっと揺れてもいいぐらいです。その方がすっきりします」

「おまえの耳の奥の三半規管、いかれてる」

篠田が呻いた。

「三井君の波動、スポーツ選手が競技に熱中している時みたいよ。ここが自分の居場所だと言っているみたいに」

金井教官の言葉に誠は頷いた。頭が冴え、体全体で生き生きと周囲の状況を察知している。

「風が足りないって叫びたい気分です」

「その坊やは、根っからの空の男なんだ。経験などしてなくても、空に浮かべば体がうずいちまう」

伊藤操縦士が黒い稜線に視線を注ぎながら、がらがらと笑った。見るからに熱そうな赤い波動が、誠の周りに手招きするように伸びてきた。

「どうだ、わしの弟子にならんか。空挺師団仕込みのこの腕を、そっくり伝授してやるが」

「え…」

誠は返答に困った。

「だめよ、伊藤さん。あなたに任したら前途ある高校生の将来が、滅茶苦茶になってしまうわ。荒ぶる魂の持ち主はあなただけで十分」

金井教官がフォローした。

「それは、わしをけなしとるのか、誉めとるのか」

「その両方です」

橘教官が怒鳴るように大きく言った。

「ははは、だから、わしはおまえさんたちが好きなんじゃ」

白髪頭の操縦士が、操縦桿をゆっくりと前に倒した。


「三井先輩、船とか飛行機とかに、よく乗っていたんじゃないのですか。それかお父さんの車の運転がすごかったとか」

美春が、可愛らしく笑いながら聞いた。誠と同じく酔った様子はない。

「いや、うちのおやじは、小心者の平凡なサラリーマンだよ」


誠は「君とは、違うよ」と付け加えようとしたが、やめた。

美春は、現役を退いてはいるが、今なお国際イーエス委員会から意見を求められるあの野村氏の孫なのだ。そんな偉大な人の孫であっても、偉ぶるような素振りは全くない。街で見かける女の子より、よほど純朴だ。ちらりと掠めた皮肉っぽい思いを恥じた。

「君の名字は、野村ではなく森田だよね。お母さんが、森田という名字のお父さんのところにお嫁さんにいったのかい」

誠の問いに教官たちの表情が硬くなった。

「ええ、コンピューターのソフト開発の仕事をしていたお父さんのところに。二人とも普通の人だったけど」少し口ごもった後、美春は続けた。

「国際ES委員会を立ち上げようとしていたお祖父さんに反対していたヨーロッパの政府高官の差し向けた工作員に殺されたの。能力者が、国際政治に首を突っ込むなという脅しのために。でも、お祖父さんは委員会を立ち上げた。その役人は、あとで謀略が発覚して逮捕されたわ」

誠は美春を見つめ返した。

彼女の波動に怒りのとげはなかった。むしろ太陽の輝きのように、均等に眩しく放出されている。勇気と前進を示す波動に、自分の青い波動が力強く同調するのを感じた。


国際ES委員会は、今から十年前に設立されたものだ。その立ち上げに際しては、多くの困難が伴ったという。能力者たちの存在を知る各国の大臣級の政治家や次官レベルの官僚たちは、国際組織にまで発展しようとする能力者たちの集団に怖れをなした。

彼らは、下手をすれば国際紛争にまで発展しかねない、自分の胸に抱いた黒い野望を見抜かれるのではとこぞって設立に反対した。

時を同じく、既に世界で活躍していた能力者やその家族の命が次々と奪われた。だが、野村尊師をはじめ各国の代表者たちは、その脅しに怯まなかった。代表者たちは、所属する政府の意見には必ず従い、主に凶悪犯罪捜査や大規模災害などの際の集団パニック沈静に、その能力を使うと約束したのだ。そして能力者たちには、年一回の心の透視を国連の査察委員会により受けることを義務づけた。さらに代表者たちも自ら、自白剤などを用いた精神鑑定を受けると約束したのだ。

これには、さすがにお偉いさんたちも、頷かざるを得なかった。能力者たちの納得できる進言に敢えて反対することは、かえって自分の心の裏側があると主張するようなものだったからである。

そして野村尊師の強い提案により、他人の思考に心をずたずたにされていた若者たちを救うため、世界の主要国で、正式にES能力特殊訓練校が開設されたのだ。


「さあ、坊やたち、しっかり座ってな!」

伊藤操縦士が操縦桿を前に倒したまま、両足のペダルを複雑に踏み込んだ。迫り来る黒い崖に向かって、機体は急降下していった。皆は座席に深く背を付けた。

赤いランプが目の前に見えたかと思うと、機体は水平に戻った。明るく輝くフープのような輪が、ずっと奥まで並んでいる。


「ここは?」

誠が聞いた。

「長野の家の裏にある山の中のヘリ格納庫に進んでいるの。昔ここは炭坑で、それを伊藤さんとお祖父さんが改造したんです」

美春が答えた。

「着いた着いた。みんな急げや」

煌々と照らし出された広い空間に、ジェットホッパーは降りていた。


「乗り換えだ!」

橘教官が勢いよく、ジェットホッパーのドアを引いた。広間の奥には小さなトロッコ列車があり、奥の暗闇にレールが溶け込んでいる。

「ふう、やっと到着したか。お次はあれだな。あれなら大丈夫」

ふらふらと歩き始めた斉藤を、美春が呼び止めた。

「斉藤先輩、違います。こっち」

美春が手招く横で、伊藤操縦士がジェットホッパーの隣にある細身の黒光りするヘリコプターに乗り込もうとしていた。

「ああ神様、俺、もうだめ」

へたり込もうとする太い体を誠が支えた。篠田は何も言わず、背中を丸めながらヘリコプターに乗り込んだ。六人は窮屈な座席に身を寄せて座った。


「伊藤さん、このヘリには窓が付いていませんが」

誠が言った。

「もちろん最初は窓が付いていたさ。でもな、尊師がこいつを操縦する時には、外を見るななんて言うから、えーい面倒だって、窓を覆って、ついでにステルス仕様のコーティングをしてやったんだ。まあ、目隠しのスイカ割りヘリとでも呼んでおこうか」

固定ベルトを締めた伊藤操縦士が、大きく息を吸い込み、何も見えない窓枠に向かって言った。

「わしはこの瞬間が一番、嫌なのだが、さあ尊師、お願いします」


これまでベテランの操縦士から放たれていた赤い固有波動が、他の生体波動の色と同じように薄くなっていった。代わりに強く現れたのは銀色の波動だ。それは波に洗われる砂浜に一瞬、見られるような煌めきに満ちていた。

「お祖父さんの波動」

美春が嬉しそうに言った。

頭を少し揺らした操縦士の足がペダルを踏み、一方の操縦桿を握る左手がゆっくりと外側に回転した。機体が振動し始めた。皆の体がぐっと後ろに傾く。百年前の潜水艦よろしく、単純なレーダーが装備されている他は、殆ど目隠しの状態で、ヘリコプターは飛び始めたのだ。


「三井、何が起こってるの。安心できそうなことなら言ってくれ」

目をつぶったままの斎藤が掠れ声で聞いた。誠は吹き出した。

「そいつは難しいよ。安心といったら安心だし、心配といったら心配だ」

「教えてやれよ、三井。能力者の奥義を目の前で見られるんだぜ」

向かい合わせに座る教官がにやついた。

「それにな、伊藤さんのクタクタ人形ぶりもお目にかかれる」

美春がくすっと笑う一方、金井教官は呆れた視線を橘教官に投げた。

「つまりあのう、伊藤さんの体を操って、野村敬三氏がへりを操縦しているっていうか」

「もういい、もういいよ」

事態がよく呑み込めないまま説明した誠に、斉藤は小さく首を振った。


橘教官が続いた。

「野村尊師はウェーブ・コントロールの力を持っているわけではない。

恐ろしく強烈な思考波を伊藤さんに送り、自分の固有波動と同調する僅かな生体波動の色相と連絡を取り合っているんだ。伊藤さんの固有波動は、尊師によって異常に拡大された波動に圧倒され、ついでに脳幹の知覚運動中枢の支配権を一時的に明け渡してしまっている。それで尊師は、伊藤さんの脳に刻まれた空路とヘリのレーダーを見て、こいつを操縦しているんだ。

どうだ、ぶったまげた話だろう。もちろん、伊藤さんの尊師への心からの信頼があるからこそできる芸当なんだが…、他人に乗り移ってしまうこんな能力を、よくまあ、旧防衛庁の幹部になるまで黙っていたもんだと、ほんと驚くよ」


「だけど、ヘリコプターに乗り換えたり、何でこんな手の混んだことを?」

何の反応もしない斉藤、篠田を後目に、誠は聞いた。

「ここに来る途中、山中を連なって走る車のライトが見えたわ。尊師のご自宅に、伊神が手を回したのよ。当然、尊師はご自宅にはいないけど」と金井教官。

「じゃあ、これからどこに?」

「お祖父さんの別荘です。どこにあるのかは誰も知りません。何もないけれど、とても素敵な所。行ったら、きっと気に入ると思います」

薄いオレンジ色の室内照明の下、美春が瞳を輝かせて答えた。


野村尊師の別荘。その場所は誰も知らないのだ。

現役で働くES能力者は、政府への忠誠を誓った途端、プライバシーというものを失う。委員会による心の透視や国連の精神鑑定はもちろん、それに加えて、政府から派遣された調査官に、生活の全てをチェックされるのだ。生活面まで調べ上げられることについては、正当な理由はない。能力をもたない者が、自分を慰めるためのせめてものあがきなのだろう。

『自分たちの心は能力者の前では裸だ。だから当然の義務として、能力者は生活の全てを見せろ、それがバランスを保つということだ』といったたぐいの。

政府で働く多くの能力者は、世俗から離れた生活を望んでいるとも聞く。これから向かうのは、そんな能力者が退職後にやっと実現させた夢なのか。


「野村尊師ほどの人でも、誰にも知られない生活がしたかったんですね」

誠は、以前ちらりと頭を掠めたことのある疑問を口にした。

「橘教官は、プライバシーやら、いろんな厄介ごとから逃れるために、いっそのこと能力に鍵を掛けてもらった方が楽だ、なんて考えたことはないのですか」

教官は笑いながら答えた。

「確かにな。訓練を受ける前は『なぜ、こんなに苦しまなければならないのか、こんな能力はいらない』なんて、自分を呪ったこともあったよ。でも僕たちは、自分の心を苦しめつづけた能力と、手を繋ぐことを学んだ。今では自分自身の一部さ。鍵を掛けた方が楽だなんて思ってもいないよ。厄介ごとがあるというのは、そこに、世間の価値観とは合わないとびっきり素敵な自分自身がいるということだよ。

そんで、プライバシーってやつだが、僕は鈍いのか、考えたこともないんだ。金井教官はどうだい?」

話を振られた金井教官は、小さく首を傾げた。

「プライバシーっていったい何かしら。生物の世界でいうと、個体の弱点みたいなものかしら、そこを攻撃されると生存に関わるような。そう考えると、すごく大変なものみたいだけど…私たちは、生物としての生存には関係のない弱点と、それを責め立てようとする人を頭の中で勝手に作り上げているような気がするわ。

プライバシーの侵害のことを言うのなら、まずは心の中の責め立て屋の小人さんに言ってみたらどうかしら、「お仕事大変ですね」とね」


二人の教官の言葉は、全く違っているようで、同じことを言っているようにも聞こえた。つまり、厄介ごとを作り出しているのは自分自身なのだ。それと戦おうとするほどに苦しみが生まれてしまう。

『けど、戦わずして手を繋ぐなんて、そんな簡単にできることじゃない』

誠は取りあえず頷いた。

「無理に理解しようとしないで。これは私たちの見解に過ぎないのだから」

波動の硬さを見つめた金井教官がそっと微笑んだ。

「それから、野村尊師だが…、あの方は子供の頃から、役行者えんのぎょうじゃという仙人に憧れていたそうだ。それで誰も知らない山の中に別荘を作って、時々、仙人の真似事をしているんだ」

橘教官が付け足した。


「別荘などではないぞ。神聖な修行の場じゃ、それに仙人の真似事とはなんじゃ」

伊藤操縦士が頭をかくかくさせながら、しゃがれ声で話した。いや、話したのは野村尊師だ。

「お聞きになっていたんですか。申し訳ありません」

橘教官が丁寧に頭を下げた。金井教官は眉を上げてにやついている。

「お祖父さんが仙人だなんて、とんでもない」

美春がつぶやいた。


「金井教官、例のやつ、お願いします」

これまで黙っていた篠田がうつむきながら言った。隣の斉藤も、目をつぶったまま頷いている。

「まあ素直ね、最初からそう言えばよかったのに」

「いや、今度は僕がやろう。あんまり使わないでいると腕がなまってしまう」

にかっと笑った橘教官の波動が、様々な色に変わり始めた。皆の波動に少しずつ触れた後で、それは青みがかった薄いグレーになり、さらさらとした感触で六人を包んだ。


誠は、涼しい風が額の辺りに吹き始めたように感じた。瞳に心地よい霞がかかる。

僅かな間、頭の中に黒い山並みが映し出されたような気がした。それに重なって、どこからともなく現れた方位磁針の針がぐるりと回った。

『僕は、今、北東にむかって飛んでいる』

薄れていく意識の中で、誠はぼんやりと考えた。


「健司さん、あなたのウェーブ、久しぶりよ…」

甘えるような女性の声が微かに聞こえた。




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