第7話 特殊訓練授業
午後一時三十分。午後からの授業である特殊訓練が始まった。
誠は頬を軽く叩きながら、午前中のぼうっとした感じを脇に置き、気持ちを引き締めた。これから四時まで続く授業が、この学校の特殊性を示している。イーエス能力に関する理論の学習と強化実践がこれから始まるのだ。一、二年は、午前中に二時間ずつ、三年は午後にフルに組み込まれていた。
金井教官がヒールを軽く鳴らして教室に入ってきた。
「こんにちわ」と、三人ににこやかな笑顔を向けながら、勝手知ったるように教卓の下に手を伸ばした。同時に、風の唸りのような掠れ音が聞こえ始めた。思考波が外に漏れないように、イーエス干渉波のスイッチを入れたのだ。
強い思考波が漏れ出せば、隣の教室の一年生などはショックで気を失ってしまうかもしれない。それに、万が一にも、このカリキュラムの存在が学校の外に知られてはまずいのだ。日本政府に悪意をもつ能力者が、この学校の存在に気づくとも限らない。
「では、さっそく授業を始めましょう」
懐かしそうに部屋のあちこちに目を配った教官だが、その明るい瞳は、過去の思い出をなぞる様子はなく、ダイレクトに三人に向けられた。
「新年度初めの特殊訓練は、残留思考の読み取りです。三井君、残留思考の定義は?」
いきなりだった。思い出話の一つからでも始めてくれるかと期待していたのだが、当てがはずれた。斉藤の緩んでいた口元が、呆気にとられたように大きく開いた。
「どう、覚えてる?」
「はい」
誠は立ち上がった。
「残留思考とは、物体に付着した想念エネルギーで、特定の範囲の空気や水の分子にも付着します。その場の物理的条件に変化がなければ、一般的には、五十日残ることになります」
どうか教官が、人の不幸と関係しない残留思考を持ってきていますように…誠は答えながら願った。
「そのとおり」
金井教官は軽く微笑むと、バッグから一本の透明な円筒を取り出した。
「想念エネルギーの残存期間は概ね五十日。亡くなった人を弔う法事の四十九日とほぼ一致しているわ。歴史的な宗教家の中に、イーエス能力をもつ者がいたと言われる
「それは、あまりにも強い感情を伴って発せられた想念が、その周りにある物質の表面に、レコードの溝のように刻まれた場合です。その場合、その物質の表面が削り取られない限り、半永久的に残ることになります」
背の高い篠田が答えた。
普通の授業の時でもそうだが、入学時には屈みがちだった背中がきちっと伸びている。霧のような白色の波動は、自信に満ちて均等に放出されている。他人の思考に触れるのが怖くて、小二から中三まで、ずっと家に引き籠もっていた彼が、こんなに堂々としゃべるようになるとは、誰が想像できただろう。全ての授業にわたって成績はよく、おまけにいつも冷静だった。
隣の斉藤は腕を組んで、「そのとおり!」とばかりに頷いている。
お調子者のこの友人は、内面にかなり繊細な感受性を持っている。斉藤には、今は施設に入っている重い脳障害をもつ年子の兄がいる。物心ついた時から、彼は兄の心に浮かぶ言葉を超えたイメージを、自分なりに脚色して、両親や周りの人に伝えてきた。周囲の人は、兄弟だからこそ分かることと感心していたらしい。
誠は、斉藤が深刻な悩みを持っていたとは聞いたことがない。自分が悩むなど許されない状況で育ってきたのだ。もちろん、陽気な装いの奥にあったはずの葛藤を聞き出す必要はなかった。
「そうね、イーエス能力者でなくても、物質に刻まれたものと類似した想念エネルギーをもつ人は、その場に残った感情や思考、時には映像まで見ることができるわ。たとえば、家族の形見を手にした時や、いわくつきの場所に行った時に、死者の亡霊を見ることができるように。
さて、今日は残留思考の中でも、一般的な物を持ってきたわ。五日前に、ある場所から採取した空気よ。ここに残された内容はどのようなものか、読み取ってごらんなさい」
言いながら金井教官は、手にした円筒の蓋を取り、空中で軽く振った。途端、三人の顔が苦痛に歪んだ。
「それでは、一言ずつ言ってもらいましょう。じゃあ、斉藤君から」
斉藤の小さな目は、空中のどこか一点を見つめている。
「突然の衝撃です、理解不能の。そしてまた衝撃」
「それで、はい、三井君」
「目の前に小学生の女の子がいます。微笑んでいるその子の名は、ミナコ」
「そして、篠田君」
「スズちゃん。スズコという名の奥さんが、泣きながら手を振っています」
「はい、斉藤君」
「遠い声がハルオと呼んでいます。とても懐かしい声」
「三井君」
「華やかな色の洪水、冷たさと温かさの混じった手が包み込んで…」
誠の目から涙が溢れていた。
交通事故だ。ハルオという名の男性が、突然オートバイにはねられ、地面に叩きつけられて、愛する妻と一人娘を残して死んでいく。その数十秒間に思い描いた光景が、三人の口から語られているのだ。
こんな状況を授業に取り入れるなんて、などという批判はここでは意味をなさない。これがイーエス能力者の体験している世界なのだ。特に能力を仕事に用いる場合、正面切って見つめなければならない。
「はい、オッケー」
皆に軽くウィンクしながら、金井教官は言った。
「臨死の際の思考は、パターン化していて読み取りやすいと言えるわ。ここで私たちがやらなければならないことは他にあるはず。分かるわね。さあ、その残留思考を絵にしてノートに描いてごらんなさい」
誠は鉛筆を手に取った。
もちろん、言いたいことは分かる。思考の個人的な思いを読んだだけでは、お涙物のドラマではあるまいし、何の役にも立たない。涙が引っ込むのを待って、教室に漂う残留思考に注意を集中した。
ヘルメットをかぶった若い男の顔が覗き込んだ。困惑した表情が冷たく変わった。
…しめた、このまま逃げちまおう…
声が聞こえた。亡くなった人の思考ではない。バイクに乗った男のものだ。
『畜生!命が消えていくことを、かえって喜んでいる。くそ!』
誠の握る鉛筆の芯がボキリと折れた。
『ナンバープレートだ。ハルオという男性の残像記憶の端に、そのナンバーが刻まれているに違いない。あいつをこのまま逃がすわけにはいかない』
額に汗が流れた。胸がむかつき、熱い血がドクドクと頭に昇ってくる。
大型の赤いバイクが空中に描かれた。衝突時に転倒したのだろう、マフラーがぶらついている。
…あばよ…
冷たい声に続いて、雷のようなエンジン音が、悲惨な状況をかき消すかのように荒々しく響く。
「まちやがれ!」
誠は叫んだ。
勢いあまって立ち上がり、机が前に転がった。激しい呼吸のまま我に返り、周りを見ると教室は静まり返っていた。他の二人は、今の物音に気づいていない様子。残留思考に集中しているのだ。
「三井君、自分の感情を巻き込んでどうするの。座りなさい!」
押さえ込むような教官の声に、憎悪の感情が破裂しそうになった。が、次の瞬間、奇妙に心が落ち着いた。
教壇の上で、陽に焼けた穏やかな顔が優しく微笑んでいた。去年度まで橘教官とともに特殊訓練を担当していた大川教官だ。最初に出あった時、誠がそれまで抱えてきた苦悩をただ黙って聞いてくれ、その後も、地道に支え続けてくれた。
『尊敬する大川教官、今は中東で国連の職員と一緒に働いている。いつ日本に帰ってきたのか』
『… … ちがう!』
心の片隅で、小さな声が響いたようだった。自分を包もうとする夕焼けに似た紅の波動を押し退けた。
「やめてください。僕は自分で落ち着けます」
誠は、大川教官の波動をのばす金井教官に言い放った。
教官の瞳は、一瞬、不思議なものでも見たかのように大きく開かれたが、冷静なうなずきとともに、波動は細い体に消えた。
その後、誠は、残留思考に集中しようとしたが上手くできなかった。
訓練の終了後、疲れきった顔をした斉藤が声をかけてきた。
「しょっぱなにしては、ヘビーな授業だったよな。最初の課題のバイクのナンバー分かったか」
誠は重く首を振った。
「まさか、またやっちまったのか」
斉藤が同情するように肩に手を置いた。
他人の思考への自分の感情の巻き込み。誠がどうしても克服しなければならない課題だった。一、二年の時の反感情の克服の授業では、実際に教官に掴みかかっていた。だいぶ進歩したとはいえ、まだまだ実践で使えるレベルには達していなかった。
「それで金井教官は、どうやっておまえの感情をおさめたんだい」
「朝の波動コピーと同じだよ。僕の場合は大川教官だった。本当に大川教官が目の前にいるように見えた」
「でも三井、おまえは教官が波動を引っ込める前に、自分で振り切ったじゃないか」
篠田がぼそりと言った。
「知ってたのか」
「当然さ。あれだけ、がたびしやられりゃ気づくよ」
「ひゅー、それって、もしかしたら凄いことなんじゃない。マスター・ウェーブ・コントローラーの波動を浴びたら、身も心もグニャグニャになっちまうのでは」
「確かにそうだ。三井、どうやって波動を振り切ったんだい」
篠田が真剣な顔をして聞いてきた。
「たまたま、だろう」
誠は肩をすぼめて一人歩き始めた。新年度早々、気分が落ち込んだ。
『自分は能力者としてやっていけるのだろうか…』
寮へと続く渡り廊下で、誠の横に一人の女子が近づいてきて並んだ。暖かみをもつ黄色の波動が、ささくれた青い波動に優しく重なった。
「あのう」
恥ずかしそうにその娘は言った。
「あっ、森田さん」
誠はすぐに彼女の名前を言ってしまったことに、顔を赤らめた。午前中、ずっと彼女のことを考えていたことがばれてしまったようだ。
「三井先輩、どこかでお会いしたことありませんか」
『ああ、この娘もそんな気持ちだったのか』
誠は目を見開きながらも首を振った。
「先輩の目、すごく間近に見たことがあるんです」
「いや、きっと、勘違いだよ」
優しく手を振りながら、誠はその場を去ろうとした。
あまり親しくない人に声をかけられると、つい遠ざかりたくなる衝動に駆られる。刃物のような他人の心と出会い続けた能力者が、身につけてしまいがちな自己防衛のための行動だった。
「でも絶対、見たことあります」
なまりの残るかわいらしい声が食い下がった。能力者にしては人との間をとろうとしない。自己紹介の時の物怖じしない波動といい、きっと心が傷つくことのないよい環境で育ったのだろう。
「僕も、君と会ったことがあるような気がする」
自然に口が開いた。
誠は、この場を立ち去りたい気持ちが消えているのに驚いた。彼女の波動はそのままだ。不思議と安らぎをもたらす波動。ウェーブ・コントロールの力を持っているわけではない。
「ああ、やっぱり」
美春はにっこりとうなずいた。黄色い波動がふんわりと広がった。
『ずっとこのまま、いつか触れていた この波動の中で休んでいたい』
誠の青い波動が、眠りにつく前のように少し薄くなった。ぼんやりとした顔をあげると、視界の端に、小太りとのっぽの友人たちが近づいてくるのが見えた。
「今、忙しいから、ごめん」
「今度、ゆっくりお話しましょ」
愛らしく笑いながら、美春は離れていった。
素知らぬ顔をして歩き始めた誠に、口笛を吹きながら斉藤が肩をぶつけてきた。
「なんだよ」
「おまえこそ、五分前のあのギスギスした波動は、どこにいっちまったんだい」
そのまま、にやにやしながら斉藤は通り過ぎた。
「三井、おまえの感情を抑えるのって、女の子との付き合いが一番効くかもよ。まじで」
そう言いながら、篠田は前をゆく斉藤に追いすがり、肩をぶつけ合った。
「だよな、だよねえ。だからそうなのね・・・」
訳の分からない歌を口ずさみあっている。
「だから、能力者の友人は持ちたくない」
誠は、イーエス能力者がよく使う口癖をつぶやき、居室のドアを引いた。
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