第8話 JR中央線



四月はゆったりと流れていった。

誠にとって、感情のコントロールを主眼においた金井教官の訓練はかなりこたえたが、少しずつ沸き起こる強烈な感情を抑えることにも慣れていった。

女性の教官だったことが、余計な反発心を招かずに幸いしたのかもしれない。もちろん、マスター・ウエーブ・コントローラーの不思議な波動が、何らかの作用を及ぼしていたのかもしれないが…

一方、橘教官の訓練は、いわゆる体育会系の好みそうな内容だった。相手の思考を読みながら取っ組み合ったり、暗闇で、教官の波動の動きを見ながら、本気で投げつけられるボールを避けたりした。


イーエス能力者が働く現場は、教室のように落ち着いた環境であることは滅多にない。任務遂行中に乱闘に巻き込まれることも多々あるのである。そんな状況でもフルに能力を発揮できなければ、実戦には使えない。

体を動かすことが好きな誠は生き生きとこなしたが、運動オンチで平和主義の斉藤には、きつい訓練だった。篠田は両教官の訓練を淡々とこなしていた。


森田美春とは、食堂や廊下ですれ違った際によく話をしたが、その内容は授業のことや流行りの音楽など、たわいもないことばかりだった。あの懐かしさと安らぎを覚える波動については思い出せることはなかった。


五月の連休に入り、久々に誠は、斉藤、篠田らと街に繰り出すことにした。

一、二年と違い、三人は実家に帰るつもりはなかった。一応、家族の質問に対する回答マニュアルは頭に刻んでいたが、学校生活はどうだ、三年はどんな勉強してる?などという質問責めはうんざりだった。

「家族と上手くやるのも、大切な訓練と言えるのだが」

橘教官はぼやいていたが、ほんの短い休みのこと、勝手知った仲間と自由に過ごしたかった。



三人は今、JR中央線東京行きに乗っていた。

昼間の時間帯だが、連休だけあって列車は乗客でごった返していた。カジュアルな装いの家族連れが多い。小さなリュックを背負った幼児が無邪気に笑っている。小学生ぐらいを超えると、ゲーム機を手にしている人も多い。

あちらではサバイバル、こちらでは中世の騎士の旅、その横ではリズムゲームが開催されている。

一人でいる乗客は殆どがスマートフォンに見入り、やはりゲームをしたり、文字上に誰かの顔を思い描きながら、しきりに指を動かしている。

その他、苦虫を噛み潰したような顔をして車内広告を注視する人、サングラスの奥で対人恐怖に怯える人…様々な表情が、列車とともに揺れ動いていた。


『我ながら進歩したものだ』

吊革を握りながら誠は思った。

小学生や中学生の時は、他人の思考や波動の渦に巻き込まれ、公共の乗り物など、とてもではないが乗れなかった。乗ったとしても、すぐに気分が悪くなり、各駅ごとに降りてはホームの隅で休んだものだ。

だが、今では全く平気だった。一年の後期、週末ごとに教官と繁華街や病院などの人が集まる場所に出かけ、自分の能力を心の横に置くことを学んだのだ。それまでは、混乱のまっただ中に、自分の全てを置いてしまっていた。まるで、逆巻く海原に、自分の存在そのものが飲み込まれてしまうような恐怖に駆られていた。


今、他人の思考は、浜辺で見る海の一部のようだった。自分なりの思いにひたりながら、時折、波のざわめきや煌めき、遠くに見える雷雲に注意を向ければよかった。そう、激しい感情を伴った思考でも、実害のある可能性は限りなく低いのだ。


だが…

誠の意識の焦点が、今現在にかっちりと戻った。

『隣の車両の彼、どう思う?』

誠の横で、やはり吊革を握って車窓の景色に目を向けている篠田に聞いた。

『要注意だ』

短い答えが返った。十メートル前後の近距離では、親しい能力者同士では、相手に注意を向けなくても、交信は容易にできる。

『いけるよ。こんな人混みで実行なんかしないさ』

前のシートに座る斉藤は、斜め前に立つ高校生らしき女の子をちらちらと見ながら首を振った。


『かもしれない。けど…』

誠の視線の先、列車の連結部の先の小窓の向こうに、赤いバンダナを頭に巻いた男が座っていた。大学生だ。二浪した後、念願の大学に晴れて合格した。新宿で登山サークルの仲間と待ち合わせをしている。小田急線に乗り換えて大秦野駅下車、丹沢山に登る予定だ。

その男が、こちらからは見えないが、前に立つ人に強烈な殺意を向けていたのだ。登山家が持つ大型ナイフが、沸騰した泥水のような感情の先にちらついている。


…こいつだ。こいつさえいなければ、二年も棒に振らなかった。しかも彼女まで奪いやがって…


男の憎悪は急激に激しさを増していた。

前に立つ人は、同じ大学に通う高校時代からの知り合いだった。二年前に一足先に大学に入学した。男より僅かに成績がよく、一つだけあった推薦枠を取ったのだ。それだけならまだしも、苦労して予備校に通っている二年の間に、付き合っていた彼女はそちらになびいてしまったのだ。

キャンパスで擦れ違っても声を掛け合うことはない。たまたま三鷹駅から乗り込んできて、男の前に立ったのだ。


『そりゃ、彼女の気が変わるのも分かるよ。あんな心の狭い人間ではね。けど、なんでいきなり殺意なの。これからお楽しみの山登りが待っているというのに』

斉藤の疑問は当然だった。

感情はその前後の精神生活に影響される。親しい友人たちとの出会いをほんの十分ほど後に控えて、攻撃性が一気に高まるなど普通ではありえない。

しかし、疑問はそれだけではない。憎しみの波動の矛先が、小さな人形のようにぶらぶら動いている。吊革を握っている人は、そんな動きはしないものだ。

『なんだろう、視神経に異常があるのか』

『神経の障害があるなら、あんなに揺れるものに注意を向け続けることはできないさ」

篠田の問いに斉藤が答えた。

兄を含め、多くの障害をもつ人との付き合いから導かれた説明だ。


波動の奇妙な揺れの一方で、男の心の視野がぐっと狭くなり、周囲が見えなくなった。ズームアップされた知り合いの顔が冷笑を浮かべていた。


・・君は俺の日陰に生きるのがお似合いさ、これまでも、これからも・・

甲高い金属音のような声音が、男の耳の奥を引っ掻いていた。


列車が軽くきしみ始めた。ぐっと片足に体重がかかる。じきに新宿駅だ。男の視界に黒い霧が渦巻くと同時に誠は動き始めていた。


一般の人の争い事に、能力者は介入してはいけないと言われている。たとえ事件を未然に防いだとしても感情のしこりは残る。爆発のきっかけを遅らせるだけだ。それに崖っ淵に追い込まれたところで芽生える理性や良心というものもある。

『しかし、このまま放っておくわけには…』

『大丈夫だ。よく見ろ!』

篠田が誠の腕をとった。その手を振り払おうとした誠の動きが止まった。小窓の向こうに見えている男の振りかざした手には、折れ曲がったペラペラの地図らしきものが握られていた。ナイフなど鋭利な物を隠している様子はない。そんな紙切れを前に立つ人に突き立てようとしているのだ。男の思考にちらついていたのは大型ナイフだったのに。


『彼は幻覚の中で行動しているというわけか』

『そうだ』

『じゃあ、目の前の知り合いも実在してない可能性も』

『かもしれない』

三人が思考を交わす間に、男が激しく腕を前に振るった。小さな悲鳴が聞こえたような気がしたが、新宿到着を知らせる車内アナウンスの乾燥した声にかき消された。

「あちらから降りる」

誠は乗客の流れに逆らって隣の車両に移った。誰かが非常通報ボタンを押したのだろう、列車は発車せずにドアは開いたままだ。


男はうつむきながら、まだ座っていた。

先ほど握っていた地図は床に落ち、代わって、手にはストラップの切れた小さな人形が握られていた。今話題になっている願望を叶えてくれるというインドネシアの土産物だ。男とは全く関係のないOLの持ち物だったらしい。会社の同僚への想いが成就するように熱烈な願いが込められている。

『今まで殺意を向けられていたのって…人形』

『それで、波動の矛先があんなに揺れていたんだ。その人形は前に立っていた女の人のバッグか何かについていたんだろう』

『やはり、知り合いなんていない。すべては幻覚だったってわけさ』

窓の外から覗き込んでいた二人と思考を交わしながら誠は列車を降りた。


…俺は確かにナイフで奴を刺した。でも、いったいこれは…


誠が振り返った先の男は、当惑に満ちて人形を見つめていた。これまでの殺意は全く消えている。自分が現実に何をしでかしたのか全く覚えていない。


「まあ、よかったじゃん、大したことなくてさ」

斉藤が肩を叩いた。

「それはそうだけど、あの人、どうなってしまうんだろう」

「とりあえずは鉄道警察に直行ってところかな。気の毒だけど、お楽しみのハイキングは中止だね」

篠田がいった。

ホームの階段口で、駅員の手を引いたOLが引きつった顔で、男が座っている車両を指さしていた。


『あれが幻覚だったなんて…発作でも起こして、急に思考チャンネルが変わったとでもいうのか』

誠の脳裏に一瞬、疑念が走ったが、斉藤のあっけらかんとした笑いと、まるで何事もなかったかのような篠田の冷静な横顔に小さな引っかかりは消えていった。


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