第6話 授業開始
十畳ほどの小さな教室で、防衛大学校長の新年度の挨拶をネット中継でみた後、すぐに授業は始まった。
この学校では、普通の高校で行われるような様々な行事はない。特殊訓練のカリキュラムが組まれているので、時間的な余裕がなかったのである。
一時限目は古典だった。
イーエス能力の訓練校とはいえ、一般の高校と同じような科目が組まれている。特殊能力を持っていたとしても、普通科目の知識は必要なのだ。それに万が一、能力を奪われて地元の高校に飛ばされても、浦島太郎状態になることはない。大学から、能力を持たない教官が派遣されてきていた。
「で、この方丈記の冒頭部分で、作者が意図していることはどのようなことだろう」
五十代半ばの
「はい、三井」
「えー、飢饉があったり疫病が流行ったり、世の中が大変で、えー、えーと・・分かりません」
誠は罰が悪そうに、ぺこりと頭を下げた。
「まったく、なに考えごとしとる。それじゃ、代わりに篠田」
篠田は、顔を赤らめながら席に座った誠に、にやりと視線を注ぎ、流暢に答えた。
「時代は、仏教の教えが消えるという末法思想が広まっていた頃です。全盛を極めた平家が滅亡し、自然災害にも見舞われ、明日が見えない人々の不安はピークに達していたはずです。作者は、ただ闇雲に不安になっている人々の心を落ち着かせるために、世相を筆にしたためて客観視できるようにしたかったのではないでしょうか」
「うーむ、さすがだ、作者の意図を深く読んでいる。三井、ちゃんと聞いたか」
誠はうなずいた。
田端教官は一度首を捻ってから背中を向けた。焦げ茶色の波動は、これぞ我が世界とばかりに深緑色の黒板を包み込んだ。
教官は、自分の背中を見ている三人の生徒が、能力者であることを知らない。一般の教官が対応することのない国際実務科へ進学を予定している全国選りすぐりの生徒たちだと思っているのだ。
授業中にぼうっとしていても、学期末に行われる試験では、満点に近い成績を修めてしまうのだから疑うはずはない。
もちろん教官の思考を読むことは、固く禁じられている。だが、体から放たれる波動は自然に見えてしまう。生徒たちは波動が色を濃くし、その輪郭が鋭くなった時に、教科書にアンダーラインを引けばよいのだ。殆どの問題が、そこから出されるのだから。
テスト本番でもそうだ。見回りにきた教官の横で首を捻れば、波動はきちんと正解部分を撫でてくれる。
もし、全国一斉の模試を事務的に実施したら、普段の成績とはかけ離れた結果を示す生徒が多いことに、教官たちは驚くに違いない。それでも、目の前にいる生徒が能力者であるなどとは思いもよらないだろうが。
普通の人が、能力者の存在を知るのは、TVやネットで特別番組を観る時ぐらいである。そこに登場する能力者たちは、警察が
時に警察が、彼らに捜査への協力を依頼している。かの警察は、中央の幹部以外は、自国の政府がイーエス能力者を組織だって抱えていることを知らない。
番組を観た人々は、能力者の神秘の力に驚嘆し、感動すら覚える。やらせではないかとの疑念を抱く人もいるかも知れないが、能力者個人への否定感情までは至らない。それは、自分とは遠い世界に生きる、全くのマイノリティとして見ているからにほかならない。
誠たちの前で、今、熱心に教鞭を取っている人もそうだ。
生徒たちが見つめているのは、教官という衣を着た自分なのだと思うからこそ、安心して教壇に立っていられるのだ。心を読まれずとも、自分の感情が波動とともに丸見えであることを知ってしまったら、どうなることだろう。
午前中の授業は、他に英語と化学、物理があったが、特に変わったこともなく進んだ。
たった三人のクラスで、教官たちは常に目と鼻の先にいたのだが、誠は授業に集中できなかった。あの新入生の放つ懐かしい波動への思いが、ずっと頭にまとわりついていたのだ。
「確かにそれはおかしい」
休み時間に篠田が言った。
「同じような固有波動を持つ者に対して、懐かしさを感じるのは分かるけど、三井のは、深い青味がかったさらさらしたものだ。彼女のふわっとしたきめの細かい黄色とは全く合わない。どこかで会ったことがあるのでは?」
「いや全然。長野の方なんて行ったこともないし」
誠は首を振った。
「そりゃ決まってるさ。恋ってやつに、おまえが気づいていないだけだよ」
肉付きのよい赤い頬の持ち主がにやついている。篠田は眉をひそめて斉藤を見つめた。
「おまえ、二年の時に習った、感情が生体波動におよぼす影響を忘れたのか。恋をすれば、波動は波打つように大きく伸びたり、急に縮んだりするものだろう。朝、食堂で見たばかりじゃないか」
「やべっ、おっしゃるとおり」
斉藤は肩をすくめ、誠に向き直った。
「三井、マスター・ウェーブ・コントローラーに見てもらったらどうだ。午後からの特殊訓練、今日は金井教官が担当するそうだよ」
篠田が大きくうなずいている。
「それだけはご勘弁を。僕の潜在意識にだって、プライバシーってやつがあるさ」
誠は言った。
昼食は、寮の食堂に戻ってとった。
森田美春は微笑みを浮かべ、時折、誠の方に視線を投げていた。誠は目の置き場に困った。二年生のカップルに皆の注目が向くかと思ったが、どうやら人というのは、明らかな恋愛関係にある者については興味を示さないらしい。
それよりも、三年生と、出会ったことのない新入生の微妙な関係・・、そちらの方が魅力的な注意対象だ。様々な色の波動が、誠と森田美春の周りで探るように踊っていた。
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