罪の女の句・歌を詠おう ③ガブリエル


「ダニーなら上にいるよ」

 馴染みの客と抱き合ったまま、カタリナは指だけで上をさし示した。目をカウンターへ転じると、ナボが肩をすくめてと笑った。勝手に上がりなってことだろう。娼館の上にあるアパートは娼婦と子供たちの聖域で、男が入るにはちょっと敷居が高いのだけれど……ガブリエルなら問題ない、らしい。


 ついさっきここまでダニエリを送って自分は自分の部屋へと帰るつもりだったのだが、別れ際、表情が精彩を欠くように見えたのが気になって、途中で引き返してきたのだ。

 人の悪意や後ろ向きの感情には鈍くて、おまけに女心を察することにはとことん向いていないガブリエルでも、今日の出来事がダニエリを傷つけたことはさすがに分かった。傷口を癒すつもりでずっと手をつよく握りしめて娼館アパートまで送っていったのが、それだけでは足りないのだと心づいたのは、ふと路地裏の寂しい裸電球が見えたとき。そこには旧市街の明るいネオンも届かない。



 部屋をノックすると、顔を出したのはレメディオスだ。

「ちょうどよかった、さ、入って入って」

 と同居人ふたりの同意など必要ないって疑いもせず、ほいほい部屋へと迎え入れた。

「ダニーったら、また落ちこんじゃってんの。アナがいるからちょっとは元気になったけど、ここはとどめに? ダメ押しで? ガビが一発なぐさめてあげてよ」

「あたしじゃってわけにはいかないもんね」と応じるのはアナマリーア。

 花も恥じらう乙女というのにこんな明け透けな軽口が平然と出るのは、娼館に育ったからか、それともそもそも少女ってのはそんなものなのか……ガブリエルにはわからない。意外なのは、一番勝ち気なダニエリがこんなとき、却って口が重くなったりするのだ。

「ばかなこと言ってないで、ふたりともどこか行ってよ」

「んー? だってまだ映画見るし」

 どうやらふたりは、さっき見終わった映画のパート2を見るつもりらしい。でも実際は、耳はガブリエルとダニエリの会話へ100パー向けられるに決まってる。

「行こっ」

 ガブリエルの手をとり、立ち上がった。

「どこへ?」

「マカレーナの部屋」

 マカレーナの部屋は、主がいなくなってもう一年になるのに手つかずでそのまま残されている。

「ええー? せっかくだから一緒にいようよお」

 甘えた声出すアナマリーアを放って、ダニエリは部屋の扉をばたんと閉めた。


 マカレーナの部屋は昔のまんま、変わっていなかった。まるで女主人の帰りをいまも待っているかのように。子供たちが調子にのってそこらじゅう落書きした極彩色のダイニングテーブルもそのままだ。

 ふたり並んでダイニングチェアに座った。よく見ればチェアにまで落書きが残っている。

「ごめんね、ガビ」

 吐息といっしょに吐きだして、ダニエリはガブリエルの肩に頭を乗っけた。その髪を撫でて、左手でダニエリの背中を抱きしめた。

「なんで謝るのさ」

「だって、」ダニエリは鼻声だ。「あたしのせいで、ガビまで嫌な思いさせちゃう。ガビまでわるい人間だって思われちゃう」

「思われないよ。それにダニーもわるくなんかない」

 わるいのは、ダニーの弱さにつけこんだ大人たちだ。そう胸のなかでつづけたけれど、口には出さなかった。いまはそんな言葉さえがダニエリを責めるように思えたから。

 腕のなかで、ダニエリのふるえがすこしずつ収まっていく。やがて顔を上げて言った。

「……もお。ガビにかかるとなんにもわるいことはなくなっちゃうんだから。どうせまたダニーはいい子だって言うんでしょ」

 すこし拗ねたような口吻くちぶりは、唇が勝手にみをつくりそうになるのを押さえるためだ。

「わかってるじゃん」

 ガブリエルが笑うと、つられてダニエリも、こらえられず笑顔になってしまった。

「ねえ。あたしほんとにいい子? ほんとにわるくない? あんなにいっぱいわるいことして、罪にまみれてるのに」

 言いながら、見あげる目から涙がこぼれた。頬を伝った涙を拭って、ガブリエルがにっこり笑った。

「あのね、ダニー。ダニーが自分を傷つけたのが罪なんだとしたら、それはもうとっくに赦されてるんだよ。そのことで一番傷ついたのがダニー自身なら、傷ついたことで、その罪はあがなわれたんだ。あとは、未来を向けばそれでいい」

 ダニエリは頷いた。そのまますこしのあいだ固まっていたが、急に顔を上げると言った。

「ね、ここで寝よ? いっしょにここで。ねえ今日だけ、いいでしょ?」

 その声に、もう愁いは残っていない。甘えた顔で見上げるダニエリに、ガブリエルは仕方ないなあって顔で頷いた。

「寝るだけだぞ。それ以上なんにもないからな?」

「ええー」

 と言いながらも、表情はずっと明るくなってて、その笑顔を見るとガブリエルは抱きしめてやりたくなる。

 これはきつい精神修養だ、とガブリエルは苦笑した。高校卒業までは……と自分で言っておいて、最近は気分のたかぶることがちょくちょくあるのを、必死で抑えこんでいるのだ。


 その夜はベッドに並んで眠って、(ダニエリには気の毒だったけれど、)ガブリエルの理性は本能に勝利した。



 ***



「すごい花っ」

 ダニエリが、マカレーナの墓碑に置かれた花束を見て声をあげた。昼近くまでマカレーナの部屋で過ごしたあと、ふたりで丘の上の墓地を訪れたのだ。

 オレンジや黄の花が繚乱と、墓のうえに咲いている。風に吹かれて、半分ほどはもうまわりに散らばりはじめているのが、潔くてマカレーナらしいと思った。

「誰か来てたんだな」

 と言ってガブリエルはまわりを見まわすが、墓地にはいま、ふたり以外だれもいない。

「フアンよ」

 確信をもってダニエリが言う。

「だれか他の崇拝者ファンかもしれないよ。マカレーナはみんなに好かれてたから」

 にっこり笑うガブリエルに、不安を感じてしまうことがダニエリはあるのだ。

 自分が愛されているのはわかっている。それでも、だれでも愛してしまうガブリエルを見るとときどき、彼にとって自分が、他とはちがう特別な存在だという確信が揺らいでしまう。

 でも今日はちょっとちがう。どんな男にカラダを売ったって、コトが終わればそそくさ帰って、朝までいっしょにいたことは一度もなかった。まだ結ばれてなくたって、あたしがおなじベッドで眠った男はガビだけ。生涯ガビだけ。

「既成事実をつくっちゃった」

 陽気に走りだすダニエリを見てガブリエルは、

「やっぱりマカレーナに会うと、元気になるんだな。」

 なんて見当ちがいのことを言っている。ダニエリのむこうには、マカレーナの愛した空と海が見えている。



 まぶしに想うおもかげゆかしひと  ――ガブリエル


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