第44話・少年を辞めた日
黒鉄王国に向かった光武英輝が、死人のような顔色で戻って来たのを見て、皇帝は彼に付けたメイド・フォルテから詳細を聞き出した。
「――という事がありました」
「そうか、あまり虐めてくれるなよ」
話を聞き終えた皇帝は、苦笑を浮かべて軽く注意する。
それに対して、フォルテは普段通りの無愛想な顔で頭を下げた。
「畏まりました」
「では持ち場に戻れ」
皇帝にもう一度礼をし、フォルテは執務室から去って行く。
それをずっと壁際で見守っていたメイド長・イリスは、皇帝に紅茶を煎れながら、少しだけ不服そうな声を出した。
「少し甘すぎではありませんか? フォルテのした事は処罰されてしかるべきです」
三人の老婆に復讐を請われた事が切っ掛けとはいえ、英輝の精神にトドメを刺したのはフォルテだ。
「これで心を病んだ英輝様が、帝国に害をなしたとしたら、それはフォルテが帝国に害をなしたも同然です」
真に帝国の事を思うならば、落ち込んだ英輝を励まして籠絡するべきだったというのに、あろうことか追い打ちを掛けるとは、メイドの風上にも置けない。
そう怒るイリスに対して、皇帝は紅茶を一口飲んでから苦笑した。
「あまり責めるな。フォルテの生い立ちを思えば、怒りをぶつけてしまったのも仕方あるまい」
フォルテは幼い頃に両親を強盗に殺害され、その強盗を自分で見つけ出して殺し返したという、過酷すぎる過去を持っていた。
その後、仇の首を引きずって衛兵の前に出頭し、牢獄で裁かれるのを待っていた所で、その行動力を執事のコルニクスに買われ、皇帝直属のメイドとして鍛えられて今に至る。
「復讐を悪い事だなどと言われれば、嫌味の一つも返したくなろう」
むしろ、湧き上がる殺意を押さえ込み、罵倒で済ませられただけ、メイドとしては成長しているのだろう。
そう言って笑う皇帝を見て、イリスは溜息を吐いてから深々と頭を下げた。
「英輝様にフォルテを付けた私の采配ミスでした。申し訳ございません」
「だから、あまり責めるな。元はといえば英輝を止められなかった余の落ち度でもあるしな」
一度の失敗もなく全ての行動を成功させるなど、神でもない身には不可能な話だ。皇帝はそう言ってまた紅茶を口にする。
「まぁ、この度の件は大事になるまい。英輝にとっても良い経験になったであろう」
「信用なさっているのですね」
英輝が暴走して帝国に仇なすような事はないと、そう信じ切っている物言いに、イリスは少しだけ嫉妬を滲ませる。
そんな焼き餅焼きなメイド長の手を、皇帝は優しく撫でた。
「若さ故か、真っ直ぐすぎて融通の利かない所はあるが、彼は善良だからな。どれだけ悩み苦しもうとも、人を殺めるような真似はすまい」
そういうところがフォルテなどからすれば、偽善者に見えて腹立たしいのだろうが、アース人の反乱を警戒する身としてはありがたい。
皇帝はそう告げてから、ふと遠くを見つめて苦笑する。
「余にも彼のような、青臭い時代があったのだな……」
「何ですか、急に年寄りのような事を言って」
まだ思い出に浸るような歳ではないだろうと、イリスはつい笑ってしまう。
「でも、陛下は出会った時から大人びていて、子供らしい可愛さとは無縁でしたね」
「酷いな、当時は宝玉のようだと褒められていたのだぞ?」
皇帝も笑ってそう言い返しながら、彼女と初めて出会った時の事を思い浮かべた。
◇
まだ六歳になったばかりで、自分が帝国の皇子だという立場をよくやく理解し始めた頃、アラケルは彼女と出会った。
「この子が、お前を生涯支え続けるメイドだ」
父親である皇帝が、そう言って紹介してきた銀髪の少女。
歳が三つ上で、自分より背も高くて大人びて見えた彼女の姿に、見惚れて固まるアラケルに対して、少女・イリスは恭しく跪いて告げた。
「初めまして、アラケル様。貴方様の専属メイドを任されましたイリスと申します。この身が朽ち果てるその日まで、どうかお側に仕える事をお許しください」
まるで結婚の誓いのようだ――そう思い、アラケルは頬を赤らめながらも、跪くイリスの前に右手を差し出す。
「許す。君の生涯を僕に捧げよ」
「はい、アラケル様。喜んで」
子供なりに精一杯の威厳を出して命じたアラケルに、イリスは微笑み返して差し出された手の甲にキスをする。
その柔らかな感触に全身が熱くなりながらも、当時はまだ一人っ子だったアラケルは、従者というよりも綺麗な姉ができたようで、飛び上がりたいほど嬉しく思った。
そして、彼女の声で起床し、着替えを手伝って貰い、共に勉強し、風呂場で背中を流して貰い、布団を掛けて貰い眠りにつくその時まで、ずっと側に居る関係が毎日続けば、姉弟の親愛だと思っていたものが、男女の恋愛感情だと気がつくのに、そう長い時は掛からなかった。
「イリスは僕の事が好きか?」
ベッドに入り眠る直前、勇気を振り絞ってそう尋ねたアラケルに、イリスはいつものように微笑んで頷いてくれた。
「はい、もちろんでございます」
「じゃあ、僕の妃になってくれ」
相思相愛だと分かり、アラケルは大喜びで求婚した。
けれども、それを受けたイリスは、まるで涙を堪えるように歪んだ笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を横に振る。
「アラケル様には、もっと相応しい女性が現れますよ」
そう言って足早に寝室から去った彼女を、泣きながら追いかけられるほど、アラケルは無知な幼子ではなかった。
そして、まだ父親達が教えていなかった事実を、自ら書庫を漁って知ってしまう程度には聡明だった。
「皇帝直属のメイド達……」
三百年前に召喚されたアース人達。その中の一人に、女中に対して酷く執着する変人がいたのだという。
彼は女中達に白黒の特徴的な服を着せ、『メイド』という名前で呼び、そして自らの異能によって『躾け』を施した。
主にどこまでも忠実で、そして戦闘能力を持たない彼を守るために、並の騎士を圧倒するような体術や、音もなく背後を取る暗殺術を。
そうして生み出されたメイド集団を、初代皇帝は危ぶんだのか、それとも気に入ったのか、ともあれそのアース人を言葉巧みに説得し、分け与えて貰って自分の手駒とした。
これが切っ掛けとなり、白翼帝国の皇帝には、暗殺者や密偵として鍛えられた直属のメイド達と、彼女達を統括する専属のメイド長が仕えるという、一風変わった習慣が根付く事となった。
そして、次期皇帝であるアラケルに付けられたイリスは、次の専属メイド長となる運命だったのである。
「専属メイド長と結婚した皇帝はいないか……」
歴代皇帝の記録を漁って、アラケルは絶望の溜息を漏らす。
当然の話だ。この時代、結婚して妻となった女に求められるのは、跡継ぎとなる子供を産む事である。
そして、妊娠すれば出産の前後数ヶ月は、どうしたって仕事などできなくなる。
常に皇帝の側に控え、陰に日向に支え続ける使命を負った専属メイド長に、子供を孕んでいる暇など許されない。
それ以前の問題として、皇帝とメイドでは身分が違いすぎる。
常に寄り添ってくれるメイド長に愛情を抱き、手を出してしまった皇帝は歴代に何人も居たのだろう。父親と現メイド長もそうであろうし、アラケルもそうなるに違いない。
けれども、結婚する事は許されない。皇帝にとって結婚とは、自国の有力な貴族や他国の姫君と血を結んで、帝国を守り育てる儀式であるからだ。
いずれ長になるとはいえ、ただのメイドにすぎないイリスに、皇帝の妃となる政略的な価値は無かった。
「…………」
アラケルは無言で読みふけっていた本を閉じ、本棚に返す。
そして自室に戻り、ベッドの中で丸くなった。
(いっそ、イリスの手を取って逃げ出せたなら……)
誰も二人を知らない場所で畑を耕して、貧しいけれども幸せな家庭を築けたら。
そんな妄想が何度も頭に浮かぶ。けれども、それを実現できない事も知っていた。
アラケルは皇子だから、いずれ皇帝となり、西の辺境に追いやられた白翼帝国を守るという、使命を背負って生まれてきた子供だから。
その為に、民が飢えに苦しみ寒さに震えている時も、温かな帝城でお腹一杯食べてこられたのだという事を、幼いながらに理解していたから。
彼は深く悩み苦しみながらも、恋慕のためだけに皇子としての責任を捨てる事はできなかった。
それは十一歳の時、母親が妹を産んで直ぐに亡くなり、それを深く嘆いた父親までもが病に伏し、十五歳の時に早世した事で全ての退路は断たれた。
アラケルは若くして皇帝となったのだ。まだ幼子の妹を、自分を支えてくれる家臣達を、何よりも何十万という帝国の民を守り導く、白翼帝国の君主となったのだ。
メイドと結婚したいなどという、自分勝手なワガママは許されない。
だから、彼は皇帝となったその日の夜、寝室に新たなメイド長となったイリスを呼んで命じた。
「其方の生涯を余に捧げよ」
「はい、陛下。喜んで」
互いの呼び方は変わってしまったが、あの日と同じ誓いを告げて、皇帝アラケルは最愛の女性を強く抱きしめて心の中で誓う。
(どんな手を使ってでも、この国を守り抜いてみせる)
結婚して夫婦になれなくても、二人の子供が得られなくても、死が分かつその時まで、イリスと共に生きるために。
それから三年後、皇帝は幸運にも魔術師セネクと出会い、迫り来る災厄に抗うため、再び異世界の悪魔を召喚するために動き出しのであった。
◇
「長かった……」
あれから七年が経ち、常闇樹海と赤原大王国という脅威の排除に成功した事に、皇帝は改めて感慨に耽る。
そんな彼を見て、イリスは苦笑を浮かべた。
「また年寄り臭い事を言って。それに、まだ山頂を越えただけだったのでは?」
「そうだったな」
少し気を抜きすぎていたかと、皇帝は素直に反省する。
今の所、大きな問題は起きておらず、このまま何事もなくアース人の大半が故郷に帰れば、帝国に安定した平和な日々が訪れるだろう。
だが、何かは起きる。平穏を乱す事件は必ず起きる。皇帝はそう確信していた。
「運命の女神は気まぐれで、騒乱を好むと言うからな」
人々が穏やかに笑っている姿よりも、争い泣き叫ぶ姿を好むなど、随分と性格の悪い神だと、皇帝は心の中で愚痴る。
(元より、愛する女と決して結ばれぬ運命を用意する輩など、信じられるはずもない)
皇帝は運命の女神が嫌いだ。だから、女神が用意するであろう、端から観劇する分には起伏に富んで愉快な、だが当人達からすれば悲劇でしかない騒乱の運命など必ずや打ち砕いて、実に平坦で退屈な、だからこそ平和な日々を勝ち取ると誓っていた。
「余にはイリスという幸運の女神が居るからな、運命の女神などには負けぬさ」
「ご冗談を」
自信に満ちた笑顔で断言する皇帝に対して、イリスは僅かに赤面しながら、愛しい人の頬を軽く抓る。
そうして、二人が甘い時を過ごしている間にも、運命の女神が要望に応えるかのように、騒乱の火種は燃え上がろうとしていた。
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