第25話・月が見ている
青海王国の姫・アンジェは宛がわれた帝城の客室でソファーに腰掛け、静かに思考を巡らせていた。
(帝都を訪れて三週間ほど経ちましたが、まずまずの情報が得られましたわ)
皇帝アラケルの妹・リデーレとお茶会を楽しんだり、演劇を鑑賞するなかで、それとなく異世界人の話を振ったり、街の噂を集めてきた。
そのお陰で英雄と呼ばれる七人に加えて、料理人・味岡料助をはじめとした数人の異能を知る事ができていた。
(けれど、一番の成果はこれかしら)
アンジェは机の上に置かれていた、色鮮やかな表紙の本を手に取る。
漫画の単行本、と呼ぶらしいそれには、写実的ではないが美しく見やすい絵と共に、異世界人の故郷で使われているという、日本語という文字が書かれていた。
『これね、恋愛漫画って言うんだけど、とっても面白いのよっ!』
お茶会で趣味の話になった時に、リデーレが興奮した面持ちでそう言って、アンジェに押しつけてきた物である。
何でも、メイド達が日本語の勉強もかねて読んでいるのを目にして、気になって自分も見せて貰ったところ、思った以上にハマってしまったらしい。
それで、感想を言い合える仲間を増やしたかったようだ。
『絵を見るだけでも面白いから是非読んで。そうだ、いっそ私が読み聞かせてあげるね!』
『えぇ、お願い致しますわ』
後ろで控えていたメイド達が、何やら困った顔をするなか、アンジェはリデーレにその漫画を読んで貰った。
その内容自体は少年少女の恋愛という、あまり興味を引かれる物ではない。
だが、男女の背後に描かれていた、城よりも巨大なビルという建物や、自動車という機械仕掛けの馬車などは、アンジェにとてつもない衝撃をもたらした。
『これが料助様達の故郷なのですか?』
『そうらしいね。一度行ってみたいな~』
呑気に夢想するリデーレは、事の重大さを全く分かっていない。
異世界アースにはこの世界とは比べ物にならない技術が存在している。
そして、漫画――異世界の書物がこちらの世界にあるという事は、異世界の技術が書かれた書物も、帝国は入手できるという事なのだ。
(いえ、既に入手はしているのでしょうね)
けれども、天にも届きそうな建物の築き方やら、馬よりも早く駆ける機械の作り方など、技術書を読んだ程度でその全てが分かるはずもない。
仮に理解できたところで、異世界とこちらの世界ではあまりにも技術力の差がありすぎて、前提の前提の前提の技術が不足しており、向こう数百年は再現が不可能であろう。
(けれども、脅威である事には変わりませんわ)
優れた技術を知っている。こうすればこれを作れるという答えを分かっている。
本来であれば膨大な時間と人材を費やして、何十何百という失敗を繰り返して、ようやく辿り着ける正解を先回りして知っている。
(何というインチキ)
アンジェは思わず下唇を噛む。
大陸の西端に追い詰められていた小国が、たった一つの魔術によって、大陸を揺るがすほどの戦力と、数百年も進んだ知識を手に入れたのだ。これをインチキと言わず何と呼ぶのか。
(いえ、逆恨みですわね)
皇帝は成功する保証もないのに、魔術師セネクの才能に賭けて、長年の出資を惜しまなかった。
そして、アース人の召喚に成功したはいいが、彼らが謀反を起こさないか、帝国のために上手く動いてくれるか、今も神経を尖らせている。
山ほどの黄金を抱えながら、薄氷の上を歩いているようなものだ。冷静に考えるとあまり羨ましい状態ではない。
(ともあれ、これで我が国の方針は決まったようなものかしら)
帝国はアース人という戦力だけでなく、その優れた知識を手に入れている。
ならば、敵対するよりも友好関係を深めて、そのお零れに預かった方が得だ。
(民の財布を銅貨一枚でも重くする、それこそが我ら王族の使命ですわ)
三百年前に大災厄を引き起こした張本人に荷担するのは汚らわしいとか、自分達よりも小さな国に膝を屈するのは屈辱だとか、そんな金にもならない矜持など、青海王国は持ち合わせていない。
ただただ冷静に損得勘定で動く。それこそが貿易で栄えた商業国家の生き様なのだ。
(私がそう判断すると考えて、この漫画を与えたのかしら?)
だとしたら中々の策士だが、あの天然娘リデーレにそんな計算ができるはずもない。
ただ、アンジェの手に漫画が渡るのを、周りのメイド達が止めなかったり、後から回収しようとしなかったのは、皇帝の指示によるものだろう。
(踊らされているようで癪ですわ)
アンジェはまた軽く下唇を噛む。
手札の数は帝国の方が圧倒的に多いのだから、負けて当然ではあるのだが、それでも腹立たしい事には変わりない。
(もう少し時間があれば、仕返しの一つもできたでしょうに、明日にも帰らねばならないというのが無念ですわ)
アンジェは軽く溜息を吐いて、机の上に置かれた手紙に目を向ける。
そこには父親である国王ブラーヴから、重要な宴が開かれるので青海王国に戻るように、と書かれていた。
既に長居し過ぎたくらいなので、帰国する事自体に異存はない。
問題は、アンジェが覚えている限り、この時期に開かれる重要な宴などないという事だ。
(帝国を離れた方が良いという、何かを掴みましたのね)
概ね察しはつく。他国と貿易で繋がる青海王国だからこそ、その気配をいち早く感じ取れたという事だろう。
(だとしても、帝国に賭ける方が無難かしら? でも、保険はかけておいた方が……)
あれこれと考え込んでいる間に、気がつけば日が暮れていた。
アンジェはふと窓に目をやると、夜空に輝く満月に誘われるように、ゆっくりとソファーから立ち上がった。
「少し散歩をしてきますわ」
「畏まりました」
ここ数日、暇をみてはよく行っていた事なので、壁際に控えていた護衛や執事達も特に咎めたりはしない。
そうして、アンジェは客室を出ると、帝城の薄暗い廊下を歩いて行った。
◇
質実剛健を旨とする白翼帝国とはいえ、その庭は色取り取りの花々によって美しく飾られている。
そんな夜の庭園を、アンジェは一人で歩き回りながら、少し離れた所に建つ屋敷――異世界人達の住居を眺めていた。
(せめて一人くらい、アース人を懐柔したかったですわね)
この後、情勢がどう変わるにせよ、アース人を味方にできれば得こそあれ損はない。
だが、アンジェはこの三週間ほど、リデーレのお気に入りである味岡料助以外とは、ろくに面識を持つ事ができずにいた。
皇帝も引き抜きを警戒して、できるだけアース人と会わせないよう、メイド達に命じていたのだろう。
今もアンジェが屋敷に近づいていけば、どこからともなくメイドが現れて、表向きはやんわりと、だが断固とした態度でお帰りを願うに違いあるまい。
(外出中のアース人と偶然出会えたら良かったのですが、そうそう上手くはいきませんわね)
娼館に行っていた火野竜司や、カジノで遊んできた鳥羽遊子など、その姿を見かける事はあったのだが、お付きのメイドに邪魔をされて、話をする機会には恵まれなかった。
(アース人が一人で出歩く事自体が稀のようですし、仕方がありませんわね)
元より大して期待していたわけでもないので、アンジェは未練もなく屋敷に背を向ける。
そうして、城に戻ろうとした彼女の背後から、慌ただしい足音が響いてきた。
「どなたかしら?」
アンジェは僅かに緊張しながらも、それを表には全く出さず優雅に振り返る。
すると、そこには小柄で痩せた黒髪の少年が、息を荒げて立っていた。
「はぁ、はぁ……」
(庭に立つ私を部屋の窓から見かけて、急いで駆け寄って来たという感じかしら? アース人には違いありませんが、どなたかしら……)
料助や七英雄などと違って、目の前の少年は見た事も聞いた事もなかった。
望んでいたアース人との対面は喜ばしいが、全く情報のない相手にどう出るべきか悩ましい。
そんな内面の葛藤を微塵も滲ませず、アンジェは少年に向かって柔らかく微笑みかけた。
「こんばんは、月が綺麗な良い夜ですね」
彼女は自分の容姿が優れている事を知っている。
自慢でも思い上がりでもなく、それが男性を籠絡する武器になる事を、ただ冷静な打算として把握している。
なので、現れた少年の顔が見る間に赤くなっていったのは、十分に計算の範囲だった。
けれども、その口から飛び出てきた言葉は、全く予想もできなかった。
「シャ、シャルロットッ!」
「えっ?」
「マジでシャルロットだ! ようやくヒロインきたーっ!」
とても興奮した様子で、誰かの名前を夜空に向かって叫ぶ少年。
アンジェはその異様な雰囲気に気圧されながらも、どうにか笑顔を維持して話しかけた。
「あの、人違いをしておりませんか? 私は青海王国の第一王女・アンジェと――」
「うはっ!? マジでお姫様とか、リアル・シャルロット以外の何者でもねーっ!」
「…………」
人の自己紹介を遮って絶叫する少年の無礼さに、アンジェは怒りよりも呆れのあまり絶句してしまう。
(まさか、異世界ではこれが普通なのかしら?)
ついそんな考えまで浮かんだが、同じアース人の料助は貴族の作法に慣れていないだけで、とても礼儀正しい感じだったので、目の前の少年が異常なだけだろう。
(関わらない方が賢明ですわね)
待ち望んでいたアース人との対面だが、どうも幸運ではなく不幸な方の出会いだったらしい。
アンジェは素早く決断を下すと、この場を去るため優雅にお辞儀をした。
「あまり遅くなるとお付きの者達を心配させますので、これで失礼させて頂きます」
強引に話を打ち切って背を向ける。貿易大国である青海王国の姫に、ここまで素っ気ない態度を取られれば、普通は己の失態を悟って震え上がる。
だが、目の前の少年はこの世界の常識を知らず、そして異世界の基準でも普通ではなかった。
「待ってよシャルロット。せっかく会えたんだから、もっとお話ししようよ?」
そう言って、去ろうとするアンジェの細い左腕を無遠慮に掴み止めてきた。
(この人……っ!)
姫君の体に了解もなく触れるなど、平手打ちを食らっても仕方のない無礼行為である。
だが、アンジェは振りかぶろうとした右手を、強固な意志で押さえ付けた。
そんな彼女の努力も知らず、少年は馴れ馴れしく口を開く。
「俺の部屋に来てさ、いっぱい話そうよ?」
「――っ」
スケベ心を隠そうともしない、気色の悪い笑みを浮かべる少年に、アンジェは怖気を覚えながらも必死に思考を巡らせる。
(助けを呼ぶのは簡単ですわ)
彼女はお供を連れずに出てきたが、一国の姫が本当の意味で一人になれるはずもない。
姿こそ見えないが、今も物陰に隠れた護衛達が、こちらを一瞬たりとも逃さず見守っている気配が感じられた。
だから、彼女が悲鳴どころか嫌がる素振りをするだけで、助けは直ぐに駆けつける。だが――
(敵いますの、この方に?)
常闇樹海を焼き払い、伝説の魔物『
目の前の話が通じない少年が、彼らと同じ強大な異能を持っていたら、アンジェを守ろうとした護衛達は挽肉に変えられてしまうだろう。
(仮に武力がなかったとしても、アース人の不興を買うわけには……)
この場は切り抜けられたとしても、恥を掻かされたと怒った少年が他のアース人達まで巻き込み、異能を駆使して青海王国に復讐をしてくるかもしれない。
(アラケル様が取りなしてくれるとは思いますが……)
ただ、いかに皇帝でもアース人達を抑えきれない可能性はある。
(どうすれば……)
己の身を守りながら、自国を危険に晒す事もなく、この場を穏便に切り抜けられるか。
良い考えが思いつかぬまま、腕を引っ張る少年の力が強まっていき、アンジェが堪えきれずに悲鳴を上げかけたその時だった。
「何やってんだ、宇畑っ!」
聞き覚えのある声の持ち主が、聞いた事もない怒声を上げて、アンジェと少年――
「料助様……?」
唯一の顔見知りであるアース人・味岡料助の姿に、アンジェは驚きと共に深い安堵を覚えてしまう。
そんな彼女を背に庇いながら、料助は普段の穏やかな表情からは考えられない、険しい顔で夢人を睨んだ。
「アンジェ様が嫌がってるだろ、何やってんだよ!」
「な、何って、俺はシャルロットを見つけたから……」
料助の剣幕に気圧されたのか、それとも先程は興奮していただけで、本来は人と話すのが苦手なのか、夢人は弱々しく声を詰まらせる。
かと思ったら、急に不遜な態度で睨み返してきた。
「ようやく運命のヒロインが見つかったのに邪魔すんなよ。でないと、殺っちまうぞ?」
そう言って、右手から不気味な紫色の光を放ち始めた。
「――っ!?」
「へへへっ、俺の最強能力『
驚愕する料助に向かって、夢人は勝ち誇った笑みを浮かべる。
それを見て、アンジェは呆れ果ててしまった。
(この方、正気ですの?)
彼がどれほど強力な異能を持っており、料助より強かったとしても、同じアース人同士で争うなんて百害あって一利なしだ。
それも、勝手に何やら勘違いして、アンジェに詰め寄っていた所を邪魔されたという、実に下らない理由でなんて。
(この方、馬鹿ですの?)
薄々感じてはいたが、ようやく確信する。この少年は簡単な損得勘定もできす、自身の感情だけで動く馬鹿だ。
全て計算尽くで動いているアンジェの、一番苦手で嫌いなタイプだった。
「料助様……」
アンジェはつい不安に顔を曇らせて、料助の背中にしがみついてしまう。
この手の馬鹿は自重という言葉を知らない。怒りが爆発すれば本当に料助を殺してしまうだろう。
そう怯えるアンジェに対して、料助は一瞬振り返って不器用な笑みを浮かべると、すぐに険しい顔をして夢人を睨み返した。
「お前がどんな異能を持っているのか知らないけれど、やれるものならやってみろよ」
「何っ!?」
「俺の異能は料理しかできないけど……人を解体するくらいなら、できるんだぞ?」
そう言って、包丁に見立てた手刀を、夢人の喉に向かって突きつける。
「――っ!?」
「…………」
思わず怯む夢人を見る、料助の瞳に怒りの色はない。
ただ、まな板の上で跳ねる魚を見下ろすように、どこまでも冷たく研ぎ澄まされていた。
実際、どんな料理も作れるという彼の異能には、あらゆる動物を解体するための技術が含まれており、それは人間とて例外ではない。
「…………」
料助は手刀を向けたまま、無言で一歩を踏み出す。
その瞬間、夢人は震えて後ずさり、慌てて背中を向けた。
「マ、マジにしやがって、馬鹿じゃねーのっ!」
そんな捨て台詞を吐くと、花壇に足を引っかけて転びそうになりながら、急いで屋敷へと逃げ帰って行ったのだった。
(助かりましたわ……)
静けさを取り戻した庭園に、アンジェの安堵の息が響いた瞬間、ずっと手刀を構えていた料助が、急に膝から崩れ落ちた。
「料助様、大丈夫ですかっ!?」
「あははっ、腰が抜けちゃった……」
毅然と構えていたが、本当は恐ろしかったのだろう。
座り込んでしまった料助は、心配するアンジェの顔を見上げながら、申し訳なさそうに苦笑した。
「すみません、情けない男で」
「そんな事ありませんわ! 私の窮地を救ってくださった料助様は、その……とても素敵でした」
相手の好意を稼ぐために、普段ならばスラスラと言えるはずの賛辞が、何故か恥ずかしくて小声になってしまう。
アンジェはそんな自分に戸惑いながらも、料助に手を貸して立ち上がらせる。
「ところで、料助様はどうしてここに?」
「お城の厨房で明日の仕込みをしていたら、ちょっと遅くなって」
それでようやく屋敷に帰ろうとした所で、アンジェに詰め寄る夢人の姿を見かけて、助けに駆け寄ってきたという事らしい。
「そうでしたか。窮地を救って頂いた事、改めてお礼申し上げます」
「いやいや、こっちこそクラスメートがご迷惑をかけて、本当にすみません」
深く礼をするアンジェに向かって、料助は畏まって頭を下げ返す。
そうして、次に言うべき言葉が見つからず、微妙な沈黙が下りたところで、料助が苦笑して背を向けた。
「じゃあ、俺はこれで」
「待っ――」
アンジェは咄嗟に引き止めようとして、何故自分がそんな事をしてしまったのか驚いてしまう。
そして、その理由を悟るよりも早く、クゥ~という可愛らしい音が、彼女のお腹の中から響いてきた。
「あっ……」
夕食から時間が経っていた事、緊張から解放された事、そして料助と会う時はいつも素晴らしい料理が一緒だった事。そんな諸々が重なって、つい胃が正直になってしまったらしい。
慌ててお腹を押さえ、真っ赤になって恥じらうアンジェを見て、料助は驚いて目を丸くした後で、口に手を当てて必死に笑いを噛み殺した。
「くくっ、アンジェ様もお腹が鳴ったりするんですね」
「私を何だと思っていましたの」
料助の目には、一分の隙も無い高貴なお姫様に見えていたのだろう。実際、彼女はそう見えるように振る舞っている。
そんな仮面が剥がれ落ちて、年頃の少女らしく頬を膨らませるアンジェに、料助はまた笑って城の方を指さした。
「自分の夜食用に隠しておいた、インスタントラーメンくらいなら出せるけど、食べますか?」
「……頂きますわ」
今さら見栄を張っても無駄だし、ラーメンという初めて聞く料理に惹かれた事もあって、アンジェは恥ずかしさを噛み殺して頷き返す。
「じゃあ、行きましょうか」
笑って前を歩く料助の後を、アンジェは静々と追いかける。
何故か胸の鼓動がうるさいほど鳴り響いている事に、自分でも激しく困惑しながら。
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