第17話・薬丸志保《やくまるしほ》【治癒】

「娼館で働く娼婦達の性病を治療して貰えないだろうか」


 皇帝アラケルからそう仕事を依頼された瞬間、保健委員の薬丸志保は思わず嫌悪の表情を浮かべてしまった。

 だがすぐに、自分の頬を叩いて愚かな己を叱りつける。


(私の馬鹿! 病気で苦しむ患者さんに貴賤なんてないのに)


 体を売って金を稼ぐ娼婦には、同じ女として嫌悪感を抱いてしまうが、仮にも医者を目指す者がそんな私情で治療を拒んではならない。


「志保よ、嫌ならば断ってくれても構わぬが?」

「大丈夫です、やります」


 急に自分を叩いた彼女に驚いたのか、怪訝そうに尋ねてきた皇帝に、志保は力強く答える。

 それを受けて、皇帝は嬉しそうに笑った。


「感謝する。報酬は金貨五枚、もしくは五十万円で構わぬだろうか?」


 五十万円といっても現金で支払われるわけではない。オタク少女・天園神楽の異能『ネット通販』で、その金額分の買い物をする権利が与えられるのだ。

 米や調味料などの食料品、ティッシュや生理用品といった日常品の代金は、帝国側が全て負担するが、漫画やお菓子などの嗜好品が欲しい場合は、各人のお金で買うという決まりが、話し合いによって出来たためである。


「労働に対して安すぎて申し訳ないのだが――」

「いや、待ってください。そんな大金は頂けませんっ!」


 謝ろうとする皇帝の言葉を遮り、志保は慌てて遠慮する。

 すると、皇帝は不思議そうに首を傾げた。


「何故だ? 神楽の銀行口座にはまだ一千万円以上の余裕がある。五十万円くらいならば遠慮する事はないのだぞ」


 天才モデラー・産形健造が作った美少女フィギュアだけでなく、帝国製の古めかしい椅子や机がアンティークとして人気を得て、オークションで驚くほど高値が付いたため、神楽が目を回すほどの金額が貯まっていたのだ。


「我らでは治療が難しい病を、其方の素晴らしい異能によって治して貰おうというのだ。金貨五枚相当の報酬では少なすぎて、本当に心苦しいほどなのだ」


 改めて申し訳ないと謝る皇帝の言葉に嘘はない。

 抗生物質など影も形もなく、梅毒が不治の病とされていた中世の地球とは異なり、この世界には一応だが治療手段が存在する。

 ただ、特効薬の原料は巨大な人食い花という、入手が危険なため高価な代物だった。

 また、治癒の魔術に関しても、そもそも魔術師が少なく貴重な存在であり、魔法陣などの準備に多大な時間と金が掛かってしまう。

 どちらの手段にせよ、普通なら皇帝が提示した金額の二~三倍、日本円にして百万円以上は必要だろう。

 そう金額について詳しい説明を受けても、志保は頑なに首を横に振る。


「いやでも、そんな大金を貰ったら、他の皆に申し訳ないので」


 皇帝から仕事を頼まれていないクラスメート達も、お小遣いとして毎月一万円分の買い物が認められてはいた。

 ただ、学校の授業がないため時間が余りきっており、テレビやスマホといった暇潰しの道具がないこの世界にいると、見代数馬のように金のかからない趣味でも持っていない限り、一万円などあっという間に使い切ってしまう。

 そんな金もなく退屈しきっているクラスメート達を余所に、志保が五十万円もの大金を得たら、いらぬ恨みを買ってしまうだろう。


(既にもう妬まれているのに……)


 常闇樹海と魔物の脅威を取り除いた件で、あの作戦に参加した志保達には、一人につき金貨一千枚の謝礼が皇帝から授けられていた。

 日本円に換算すると一億円であり、神楽の口座にも流石にそこまでの金額は貯まっていなかったので、ネット通販の買い物には使えないのだが、帝国で売っている物ならば何でも手に入るほどの大金である。

 火野竜司などは早速その金を使い、専属のメイドにイヤらしいドレスを着せたり、高級娼婦を何人も買ったりと豪遊しているらしい。

 志保は皆の軽い怪我を治したくらいで、魔物と直接戦ったわけではないという負い目もあって、貰った報酬を使う気にはなれず、預かっていて貰うという名目で帝国の金庫に返している。

 それでも、英雄という名声に加えて大金を得たという事で、自尊心の高い社長令嬢・金家成美などから睨まれていたのだ。


(羨ましいなら自分達も参加すれば良かったのに)


 勝手に召喚された事への反発心や、帝国への不信感から手助けを拒んだくせに、終わった後で妬んでくるなんて救いようがない。

 そんな事を考えて、重い溜息を吐いてしまった志保をどう思ったのか、皇帝は苦笑を浮かべながら報酬の額を訂正した。


「では金貨一枚、十万円だけでも貰ってはくれぬだろうか。信賞必罰を守らねば皇帝の名が地に落ちてしまう故に」

「まぁ、そのくらいでしたら」


 これ以上拒むのも失礼かと、志保はようやく依頼を引き受ける。

 皇帝はそれに笑顔を浮かべてから、思い出した様子で付け加えた。


「ついでと言っては何なのだが、性病の感染源が判明する発端となった、門番の青年も治してやって欲しい」

「……はい」


 梅毒に感染した、つまり娼婦とそういう事をしたという門番に、やはり嫌悪感を抱いてしまいながらも、志保は再び頷き返すのだった。





 翌日、志保は馬車に乗り、護衛の騎士三名に守られながら、娼館に向かって出発する。

 ただ、馬車の中には予定と違って、彼女の他にもう一人の姿があった。


「何であんたが付いて来るのよ」

「邪魔しないから別にいいじゃん?」


 睨みつけた志保に対して、どこ吹く風と首を傾げてみせたのはサッカー部員の風越翔太。

 話しやすい爽やかイケメンという事もあり、志保は地球にいた頃から密かに好意を抱いていたのだが、今日は行く先が娼館であるため視線がどうしても冷たくなってしまう。


「病気の治療に行くのであって、遊びに行くんじゃないんだけど?」

「なら俺の童貞という病気も――」

「死ねっ!」


 志保は最後まで言わせず、翔太の頬に向かって全力の拳を見舞う。

 しかし、返ってきたのは肉の感触ではなく、分厚いクッションを叩いたような感覚だった。


「危ねぇ~。だから医者の卵が死ねとか言うなよ」


 翔太が異能『風使い』によって、咄嗟に空気の壁で防御したのだ。

 魔物との戦いによって得た経験から、反射的に身を守れるようになったのだろう。


「変な小細工を覚えて、風越君のくせに生意気なのよ」

「ヒデぇ~」


 志保が頬を膨らませながら再びパンチを見舞うと、翔太は苦笑しながら掌で受け止めた。

 そんなイチャコラしている二人に向かって、馬車の御者をしていた騎士が微笑みながら声をかけてくる。


「志保殿が娼館へ治療に向かうと聞いて、翔太殿が心配して護衛を申し出てくれたのですよ」

「えっ!?」

「私達も命懸けでお守りする所存でしたが、英雄殿がいてくれれば百人力ですからね」


 助かりましたと礼を告げる騎士の声も、志保の耳にはもう届いていなかった。


「風越君、貴方……」

「いや、その、何て言うかさ」


 志保が顔を真っ赤にしながら見詰めると、翔太は照れて目を逸らしてしまう。

 けれども、すぐに真剣な表情を浮かべて呟いた。


「薬丸の処女を娼館で捨てるなんて、勿体ないじゃん?」

「やっぱり死ねっ!」


 照れ隠しの冗談だとは分かっていても、乙女の怒りは爆発してしまう。

 志保が三度目に放った拳は風すらも超える速度で、翔太の顎を打ち抜いたのであった。

 そんな事をしているうちに、彼女達を乗せた馬車は目的地へと辿り着く。


「こちらです」

「えっ、ここですか?」


 騎士の一人に手を引かれて馬車を降りた志保は、目の前に建つ娼館を見上げて思わず首を傾げてしまう。

 それは彼女達が暮らす屋敷ほどではないが、しっかりとした造りの建物で、壁や玄関も綺麗に掃除されており、高級な宿屋と言われても違和感がなかった。


「へー、綺麗な店じゃん。もっとラブホ街みたいな所かと思ってた」

「ラブホって、あんたねえ」


 感心する翔太に白い目を向けるが、志保も実は似たような事を考えていた。


(娼館なんて言うから、もっと薄暗くて汚い所かと思ってたのに……)


 落ち着いて辺りを見回してみれば、建物だけでなく娼館のある通り自体が、道が広く綺麗に清掃されており、昼前の明るい時間帯だという事を差し引いても、歓楽街特有のいかがわしい雰囲気が感じられない。

 そんな志保の疑問を察して、騎士の一人が答えてくれた。


「他国の貧民街にあるような違法店と違って、ここは帝国が許可した娼館ですからね。国の恥とならぬように中も外も綺麗にしていますよ」

「帝国が許可したっ!?」

「はい。衛兵が定期的に見回りをし、犯罪が行われていないか調べている、帝国公認の娼館ですよ」

「…………」


 平然と言い放つ騎士に対して、志保は唖然として言葉を失ってしまう。


(国が売春を許可しているだなんて、帝国の倫理観はどうなっているのっ!?)


 そんな非難と戸惑いを浮かべる志保をどう思ったのか、騎士達は苦笑を浮かべながらも彼女の背中を押して、娼館の中へと入って行った。


「ようこそ、お待ちしておりました」


 扉を開けて足を踏み入れた瞬間、玄関ホールで待ち構えていた三十代中盤くらいに見える妖艶な美女が、鮮やかな笑みで彼女達を出迎えた。


「うわ、エロッ!」

「馬鹿っ!」


 思わず素直な感想を漏らす翔太の脇腹を、志保は思い切り抓る。

 騎士達はそんな二人の様子に微笑んでから、美女に向かって話しかけた。


「女将、こちらの志保殿がお前達の病を治してくださる」

「はい。本日は私達のような下々のためにご足労頂き、誠にありがとうございます」


 女将と呼ばれた美女に深々と頭を下げられてしまい、志保は慌ててしまう。


「よしてください。私はそんな大した者じゃないですからっ!」

「ふふっ、志保様は可愛らしいだけでなく、お若いのに謙虚なお方ですのね」


 おそらくお世辞なのだろうが、妖艶な美女に笑顔で褒められてしまい、志保はつい頬が熱くなってしまう。


「いやー、お姉さんのエロさに比べたら、薬丸なんか寸胴のお子様体型――ぐふっ!?」

「それで、病気の方はどちらでしょうか?」


 余計な事を抜かした翔太の鳩尾に肘鉄を入れて黙らせると、志保はさっそく仕事の話に入る。

 すると、女将は玄関ホールの奥にある控え室に向かって呼びかけた。


「フェルミカ、いらっしゃい」

「は、はい」


 控え室の扉が開いて、志保達と同じくらいの歳に見える、童顔で胸の大きな少女が怖ず怖ずと歩み寄ってくる。


「こちらのフェルミカに梅毒の疑いがあると聞いております」

「あの、本当に私が病気なのでしょうか?」


 女将の背に隠れるようにしながら、フェルミカと呼ばれた少女が不安そうに疑問を告げる。

 見たところ顔や手足が腫れている様子もなく、体調も悪くないため、病気に感染しているというのが信じられないのだろう。

 だが、見代数馬が異能『状態把握』で性病と見抜いた番兵からの話によると、彼女が感染源に違いないのだ。


「失礼します。少し調べさせてください」


 志保はそう断ってから、怯えるフェルミカの腕に触れた。

 彼女には数馬と違って、目視だけで能力や病気を見抜くような力はない。

 ただ、異能『治癒』の副産物なのか、直接触れれば体内の悪い箇所を感じ取る事ができた。


「陰部に小さなしこりがあります。自覚症状がないくらいの初期状態ですが、梅毒とみて間違いないでしょう」

「まさか、本当に……っ!?」


 志保の冷静な診断を聞いて、疑いよりも不安の方が勝ってしまったのだろう。

 顔を真っ青にするフェルミカに、志保は医者である両親を真似て優しく笑いかけた。


「大丈夫ですよ、すぐに治しますからね」


 そう言うと、フェルミカの腹に手をかざして異能を発動する。

 志保の掌から温かな光が放たれて、少女の体に吸い込まれていき、患部だけでなく全身の悪い箇所を一つ残らず治していった。


「うわぁ」


 怪我と違って目に見えず、まだ症状が出ていなかったため自覚が薄いのだが、それでも体の隅々まで洗い流されたような爽快感が走って、フェルミカは病気が消えた事を実感する。


「はい、これでもう心配ありませんよ」

「ありがとうございます!」


 笑顔で太鼓判を押す志保に、フェルミカは感激して抱きつく。

 そんな二人を見て、女将が驚いた顔で呟いた。


「魔術と違って魔法陣も必要ないなんて、アース人の異能とは本当に凄い力なのですね」

「えぇ、まぁ」


 褒められた志保は曖昧な笑みを返す。異世界の魔術についてはよく知らないが、現代日本の医術と比べても『治癒』が異常な事は分かっていた。


「それで、患者さんはこちらの方だけでしょうか? でしたら――」

「お待ち下さい」


 治療を終えて別れを切り出そうとした志保を、女将が強い口調で呼び止める。


「志保様、どうか貴方のお力で、もう一人だけ救っては頂けないでしょうか」

「は、はい、私は構いませんが……」


 何やら深刻な表情で頼み込まれて、志保は戸惑いながら騎士達の顔を窺う。


「志保殿がお疲れでなければ」

「なら大丈夫です」


 騎士達の許可が出て頷き返すと、女将は感極まった様子で志保の手を握り締めてきた。


「ありがとうございます。では、こちらに来て頂けますでしょうか」


 そう告げる女将に先導されて、志保達は階段を上って二階に向かう。


「こちらは私達が普段暮らしている部屋になります」


 客をもてなすための一階とは違い、華美な装飾もない生活感の漂う廊下を通って、一番奥にある部屋の前で立ち止まった。


「ストラ、入りますよ」


 女将がノックをしてから扉を開き、志保はその後ろから部屋を覗き込む。

 すると、六畳間ほどの狭い部屋の中で、革のマスクを被って顔を隠した少女が、ドレスの解れを直していた。


「その子は……ひっ!」


 マスクの少女は志保を見て怪訝そうに首を傾げた後で、彼女の背後にいる翔太や騎士達に気がついて、急に悲鳴を上げて震えだした。


「どうしたんですかっ!?」

「申し訳ありません。この子は男性が苦手なのです」


 女将は驚く志保にそう説明してから、男性陣は廊下で待っていて欲しいと、騎士達の顔をチラリと窺う。

 しかし、志保の身を守るためについてきた騎士達は渋い表情を浮かべた。


「女将、貴方達を疑うわけではないのだが、志保殿から目を離すわけにはいかない」


 これが英雄を殺すための罠という可能性がゼロではない以上、当然の対応である。

 だが、医者となって人を救う事を信条とする志保は、自分の安全よりも怯える少女の方を優先した。


「お願いします、皆さんは廊下で待っていてください」

「しかし……」

「扉を開けたままにしとけば大丈夫じゃね?」


 渋る騎士達を見て、今まで黙っていた翔太が急に口を開く。


「風の流れからして誰かが隠れている感じもないし、武器の匂いもないし大丈夫っしょ」

「風越君、いつの間にそんな真似を……」


 娼館で浮かれているように見せかけて、実はしっかりと護衛をしていたと知り、志保はつい胸が高鳴ってしまう。

 そんな彼女と翔太を見て、騎士達はようやく頷いた。


「少しでも異変を感じたら、すぐに私達を呼んでください」

「はい、分かりました」


 志保は騎士達に頷き返し、翔太に目線でお礼を告げると、女将と共に部屋の中に足を踏み入れる。

 そして、ストラと呼ばれたマスク姿の少女と向き合った。


「あの、貴方は……」

「薬丸志保です。貴方の治療に来ました」


 怯えるストラに笑顔で自己紹介をしてから、志保は彼女のマスクをそっと窺う。

 それを見ればどこを治して欲しいのかなど、言わずとも察せられた。


「ストラ、貴方も新たな英雄の話は耳にしているでしょう? 志保様はそのお一人で、傷を癒やす力をお持ちなのです」


 だから傷を見せなさいと女将が促すと、ストラは短くない葛藤の末に、ゆっくりと革のマスクを外す。

 そして現れた、赤黒く無残に焼けただれた少女の顔面を、志保は何とか動揺せずに受け止める事ができた。


「…………」


 樹海の魔物討伐に同行し、もっと凄惨な光景を見慣れていなければ、思わず目を逸らしたり、嫌悪感を顔に出してしまっていたかもしれない。

 そんな事を思う志保の横で、女将が怒りを噛み殺した声で淡々と説明する。


「この子に入れ込んだ客の一人が、どうせ自分だけのモノにならないのならばと、買い物帰りに襲いかかり油をかけて……」


 娼婦と客の間ではよくある話の一つに過ぎないのかもしれないが、あまりにも身勝手で残酷な仕打ちであった。


「私達でお金を出し合い、治癒の魔術をかけて頂いたお陰で一命は取り留めましたが、逆に惨い真似をしてしまったのかもしれません」


 女将はそう後悔の念を漏らし、ストラの手を握って一粒の涙を零した。

 女として、特に娼婦としては死よりも辛い目に遭いながらも、彼女が自害せず生き続けてきたのは、必死に自分を助けてくれた女将や仲間達への恩があるからなのだろう。


(善い人達なんだ。この子も、女将さん達も)


 娼婦という職業に対する偏見はまだ拭い切れていないが、それでも志保は彼女を救いたいと強く願う。


「大丈夫です、私に任せてください!」


 志保は胸を張って断言し、ストラの焼けただれた顔に両手をかざす。

 そして、全力で異能を解放した。


(必ず治してみせる)


『治癒』の詳しい原理はいまだに不明である。

 時間を巻き戻しているのか、それとも遺伝子の情報を元に復元しているのか、どちらにせよ失われた手足すら治せるのだから、物理法則もへったくれもない奇跡の力なのだろう。

 ならばこそ、死んでさえいなければ、どんな怪我や病気も治す事ができる。


(お願いっ!)


 志保がより強く願い、掌から目も眩むほど強い光が迸る。

 それがゆっくりと収まり、閉じていた目蓋を開けると、目の前にはシミ一つない綺麗な少女の顔があった。


「やった!」

「あぁ、ストラ……」


 志保が歓声を上げながら安堵のあまりへたり込み、女将が感動の涙を浮かべる。

 ストラはそんな二人の前で、戸惑い気味に自分の顔をまさぐった。


「まさか本当に、私の顔、治ったの?」

「えぇ、元の貴方に戻ったのよ!」


 女将は慌てて他の部屋から手鏡を持ってきて、ストラの前にかざす。

 顔が焼けただれてしまってから、ずっと避け続けていた鏡に映っていたのは、もう二度と見られないと諦めていた、彼女の綺麗な顔だった。


「あっ、あはは……私だ、私の顔だっ!」

「よかった、本当によかった……」


 笑いながら滝のように涙を流すストラを、女将が優しく抱きしめる。

 そんな二人の姿に笑みを浮かべて、志保は静かに部屋を後にした。





「この度はフェルミカだけでなくストラまで救って頂き、感謝の言葉もございません。志保様のご命令とあれば身命を賭して駆けつけますので、お困りのさいにはどうか私達をお呼び下さい」

「大げさですよ」


 女将やストラ達だけでなく、店にいた娼婦全員に揃って見送られて、志保は恐縮しながら馬車に乗り込み、娼館の前から去っていく。

 そうして、馬車が角を曲がり、こちらに向かってずっと頭を下げ続けていた娼婦達が見えなくなった所で、志保は肩を落として重い溜息を吐いた。


「はぁ~……」

「大丈夫? 流石に疲れたか?」

「いや、そうだけど、そうじゃなくて」


 体調を心配してくれた翔太に、志保は何とも曖昧な返事をする。

 ストラの火傷を治すのに本気を出したとはいえ、あと十数人は治療できるほどの余力が残っている。

 ただ、肉体的には何の問題もなくとも、心には重い荷物がのし掛かっていた。


「私、またこの力に頼っちゃった」


 志保は『治癒』の異能が嫌いだ。医者である両親の苦労を、医者を目指して勉強してきた自分の頑張りを、全て嘲笑うように人を癒やしてしまうこの力に、嫉妬じみた怒りを覚えている。


「けど、ストラさん達を救えた事は本当に嬉しいの」


 病気や怪我が治り、健康と笑顔を取り戻した患者がお礼を言ってくれる。医者としてこれほど嬉しい事はない。

 だから、異能を使った事に後悔はない。むしろ深い満足感を得ている。

 故にこそ、志保の胸には今までになかった迷いが生じていた。


「私、地球に戻らない方がいいのかな……」

「急にどうしたんだよっ!?」


 志保が弱々しく吐いた言葉に、翔太は驚いて腰を浮かしてしまう。


「薬丸は地球に戻って医者になるんだろ?」

「うん、最初からずっとそのつもりだった」


 夢のためもあるし、両親を心配させたくもないし、志保は一年後に日本へ帰ると決めていた。こちらの世界に残るなんて、選択肢として浮かんですらいなかった。けれども――


「私、こっちの世界にいた方が、ずっと沢山の人を救えるよね?」


 それは気がついていながらも、今日まで懸命に目を逸らし続けていた問題であった。


「地球に帰ったら、きっとこの力は無くってしまう」


 仮に残ったとしても、超能力だ何だと大騒ぎになるため、気軽に治療を施す事は不可能になるだろう。


「私が医者になっても、ストラさんの火傷を治してあげる事はできなかった」


 この異世界よりは高い医療技術で、多少はマシにする事ができても、跡形もなく癒やした『治癒』には及ぶはずもない。


「もっと大きな怪我や難病さえ、異能を使えば治してあげられる」


 足を失った人に、また両足で走る喜びを与える事ができる。

 不治の病で苦しむ人も、その看護で疲れ果てた家族も、みんなまとめて救う事ができる。


「なら、こっちの世界に残って、より大勢の人を助ける方が、正しい行いなんじゃない?」


 そう疲れ切った顔で問いかけた瞬間、志保の頭に翔太のチョップが落とされた。


「痛っ!」

「へへっ、今までのお返し」


 大した衝撃ではなかったが、驚いて声を上げる志保を見て、翔太はヘラヘラと笑う。

 それから急に顔を引き締めて告げた。


「調子に乗りすぎるなんて、薬丸らしくねーぞ」

「私は調子になんて――」

「えーと、ほらあれだ、『人が生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わないか?』だっけ」

「それは……」


 翔太がうろ覚えながら告げた名作医者漫画の台詞は、志保も当然知っていた。


「俺もスゲー異能を得て調子に乗ってたからさ、あんまり偉そうな事は言えないけど、誰も彼も自分の力でどうにかしようっていうのは、良くないんじゃねーかな」


 上手く説明できず歯痒そうにしながらも、翔太が懸命に紡いだ言葉は、志保の胸に深く突き刺さった。


「確かに、私は思い上がっていたのかもしれない」


 死んでさえいなければいくらでも治せる、まるで神のような力を手に入れたからといって、志保が全ての人類を救えるわけではない。

 彼女が人間である以上、どうしたって両手からこぼれ落ちる人々は出てくるのだ。

 それさえも無理に救おうとすれば、志保はいつか必ず壊れてしまっただろう。


「嫌な話だけど、諦めないといけないんだよね」


 救える命には限りがある。それは医者であっても同じ事。

 そんな初歩を忘れていたなんてと、自己嫌悪の溜息を吐く志保を、翔太は肩を叩いて励ました。


「こっちに残るにせよ帰るにせよさ、何が正しいかとかじゃなく、薬丸が何をしたいかで決めた方が後悔しないんじゃねえかな?」

「ふふっ、風越君に説教されるなんて、私もどうかしてたわ」

「ヒデぇー」


 元気になって吹き出す志保を見て、翔太も満面の笑みを浮かべた。




 馬車の御者をしていた騎士は、二人の元気な話し声を耳にして微笑んでから、不意に表情を引き締める。


(皇帝陛下も酷な真似をなさる)


 帝都の人々に触れさせ、彼らから求められる事で、こちらの世界に残りたいとアース人達に思わせる。それが皇帝の計画だったに違いない。

 ストラの事まで計算していたのかは不明だが、いずれにせよ何度か治療を繰り返していれば、志保は今日と同じ迷いを抱いただろう。


(翔太殿の助言で吹っ切れたご様子だが……いや、私などが下手に手を出すべきではあるまい)


 騎士は首を振って余計な考えを振り払う。

 余計な真似をしてアース人を怒らせては意味がない。あくまで自然に残りたいと仕向けるのが皇帝の狙いなのだろう。


(志保殿が残ってくだされば、翔太殿も残ってくれて一石二鳥なのだが、欲を掻いてはし損じるというもの)


 他にもアース人は沢山おり、皇帝にぞっこんな天園神楽を始め、既に残留の気配が濃厚な者達もいる。

 下手に残りすぎても三百年前の再来となりかねないし、そこら辺の選別も皇帝に任せておけば心配はなかった。


(それにしても、何ともむず痒いお二人だ)


 自分達の存在など忘れた様子でイチャつきながらも、あくまで友人の一線を越えようとしない翔太と志保を見て、騎士はこっちの方が照れ臭くなって頭を掻くのだった。

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