第9話・頭師智教《ずしとものり》【偉大な教師】
頭師智教の夢は教師になる事だった。
切っ掛けは単純で、小学生の時に担任だった女性教師に強く憧れたからである。
その初恋は担任の寿退職という形であっけなく終わったのだが、教師になりたいという夢は続いていた。過去形になりかけていたが。
高校生となって真面目に進路を考え始め、ネット等で情報を集めれば集めるほど、教職というものがどれだけ薄給で激務か、生徒とその保護者に悩まされるかという、悪い部分が見えてきたからだ。
そもそも身近に問題のある生徒という、嫌な例が実在している。
不良の火野竜司や遊び人の鳥羽遊子、ワガママお嬢様の金家成美など、あんな連中を受け持つのかと考えただけで冷や汗が浮かんでくる。
(やっぱり、教師はやめておこうかな……)
そう悩み始めていたというのに、異世界に召喚されて得たのが『偉大な教師』――人にものを教えるのがとても上手くなるという異能だった。
(何だよこれ。ゴミ能力じゃないか)
智教は酷く落胆した。この異能は相手の物覚えが良くなるだけで、自分には全く効果がなかったのだ。
例えば、智教が教えた生徒は容易く東大に合格できるが、彼自身は必死に勉強しないと合格できないのである。
(神様か何か知らないが、こんなゴミを押しつけるなよ!)
委員長の光武英輝みたいに格好良い戦闘能力が欲しかったと思うが、同時にそれが無理だろうとも悟っていた。
(この異能って、本人の性格や才能で決まっているみたいだしな)
医者志望の薬丸志保は『治癒』、剣道少女の剣崎武美は『剣豪』と、資質にあったモノが与えられたというか、資質が異能という形で開化しただけなのかもしれない。
そう考えると、智教には『教師』の異能しかあり得なかった。
(教師になるため勉強してきた事以外、特徴なんて何もないからな……)
地味な自分にはお似合いの異能かと思うと、情けなくて涙が浮かんでくる。
そう落ち込んでいた智教だが、異世界に召喚されてから四日も経つと、考えが百八十度変わっていた。
「智教先生、『よるが あける』とはどういう意味でしょうか?」
天園神楽の『ネット通販』で取り寄せた、小学校低学年向けの国語の教科書を差し出してくる、若く可愛らしいメイドの問いに、智教は優しく答える。
「『よる』は夜、太陽が落ちた後の時刻だね。『あける』は色々な意味があるけれど、この場合は夜の闇が晴れる、つまり朝になるって意味だよ」
異世界語が自動で翻訳されている智教には、当たり前の事を繰り返しているだけのようで、少し変な感じがしてしまう。
だが、日本語を知らないメイドにしてみれば、意味不明な言語をよく知る帝国語に訳して貰った事になっていた。
「なるほど。ありがとうございます、先生」
言葉の意味が水のようにスーと流れ込んできて、若いメイドは満面の笑みを浮かべた。
それに見惚れる智教の肩を、年上の色っぽいメイドが突いてくる。
「先生、カメーロばかり構ってないで、私にも教えてくださいな」
「ずる~い、私も私も!」
まだ十二歳の見習いメイドも嫉妬して、異世界人先生の腕に抱きついてきた。
幼い少女の微かな膨らみが当たり、内心鼻の下を伸ばしながらも、智教は余裕の笑みを浮かべる。
「はははっ、ちゃんと順番に教えるからみんな仲良くね」
年下から年上まで様々な美少女メイドに囲まれて、「教師最高ぉぉぉ―――っ!」と心の中で叫びながら、智教は満面の笑みで日本語の授業を続けていった。
◇
智教を中心にして談話室で行われている授業風景を、皇帝アラケルは窓の外からそっと窺っていた。
「上手くいっているようだな」
「はい、順調でございます」
皇帝専属のメイド長・イリスも頷いて同意を示す。
「教えを受けたメイド達は全員、既に『ひらがな』の読み書きを修め、今は単語を一つずつ覚えていく段階に入っています」
「流石は『偉大なる教師』か」
皇帝は深々と感心する。智教に授業を頼んでからまだ二日と経っていないのに『ひらがな』――全部で四十六もある文字の読み書きを完全に覚えるなど、尋常な速さではない。
これは無論、メイド達の記憶力が異常なのではなく、智教の異能によるものだった。
彼に教えられた事は一瞬で覚えて二度と忘れない。教師としてこれほど偉大すぎる能力はないだろう。
「日本語を覚えれば、神楽の本から様々な知識を蓄える事ができる。余も機を見て学ばねばなるまい」
「もう少し頃合いを見計らってからがよろしいでしょう」
好奇心に目を輝かせる皇帝を、イリスは微笑を浮かべながらも思いとどまらせる。
それは『教育』という行為の重要さと恐ろしさを、十分に理解しているからであった。
「分かっている。メイド達の様子を見てからにするとしよう」
皇帝も理解しているため、大人しくイリスの意見に従う。
「それにしても、神楽の『ネット通販』といい、何とも頼もしく恐ろしい力よ」
窓ガラスの向こうで美少女メイド達に囲まれて、だらしない顔をしている智教は気がついてもいないが、彼の異能もまた『炎使い』等とは比べ物にもならないほど、世界を変革する大いなる力に満ちていた。
国を発展させるために最も大切な事、それが国民への教育である。
そもそも、人口が増える事によって、政治体制や階級制度などの複雑な仕組みが生まれたところで、国とは結局のところ人間の集まりでしかなく、国の質=国民の質に他ならなかった。
優れた国民が増えれば国は豊かに発展し、愚かな国民が増えれば国は衰え滅亡する。その逆は決してない。
知恵を付けると自分達に反逆するから、国民は愚かなままでいいと、教育を放棄するどころか弾圧する王ほど、愚かな支配者はいないだろう。
「市中に学び舎を建てて、平民達にも教育を施してくれたなら、どれほど優秀な人材を生んでくれるか」
皇帝はその時を想像しただけでも笑みが止まらなかった。
教育の重要さを理解しながらも、それが十分に施されていない原因の一つに、時間的なコストの重さが上げられる。
教わる側は膨大な時間を必要とし、その間は仕事や家の手伝いができなくなってしまう。
貴族のように裕福な家庭ならともかく、猫の手すら借りたい平民にとって、これは看過できない問題であった。
だから、比較的教育に力を入れてきた帝国ですら、識字率は二割もあるか怪しい。
智教達の故郷・日本では識字率がほぼ100%と聞いた時、皇帝は目を剥いて驚いた。それだけ優れた国力を備えている事の証明だからである。
残念ながら帝国には、平民の子供達を毎日五時間以上も拘束できる余裕はない。
だが、智教のたった一度で教え込んでしまう異能があれば、必要な授業時間を十分の一以下にできるだろう。
簡単に覚えられる事で、生徒達も勉強を嫌いにならず、むしろ積極的に授業を受けてくれる効果も考えれば、彼は本当に『偉大な教師』としか言えなかった。
「問題があるとすれば、教育が上手すぎるところか」
智教に教わるメイド達の姿を窺いながら、皇帝は僅かに顔を曇らせる。
教育とは何が正しく間違っているかを教える事であり、一歩間違えればそれは思想の植え付け、つまりは洗脳に繋がる。
智教がその異能を遺憾なく発揮すれば、国民全員の思想を『帝政に反対する暴徒』や『帝国の敵を皆殺しにする狂戦士』に塗り替える事すら可能だろう。
「彼は俗人故に、そのような危険はないと思うが」
侮蔑のようにも聞こえるが、皇帝は智教の俗さを高く評価していた。
彼は教師を夢見ていたが、薄給や重労働を嫌い、美少女に囲まれれば喜ぶ、人としても男としても極普通の感性を持っている。
だから、生徒達に帝政批判を押しつけて革命を起こすなんて、面倒で疲れる事は絶対にやらない。いわば『有能な怠け者』なのだ。
「問題は彼女の方であろうな」
「今は大人しくされていますが、今後どのような動きを見せるかは分かりませんね」
イリスも曇り顔で皇帝に同意する。
想定していた事だが、異世界人の全員が協力的なわけではない。火野竜司のように分かりやすい者から、内側に不満を溜め込んでいそうな者まで、要注意人物は何人かいる。
その中には、善意から帝国を破滅させかねない『無能な働き者』も交じっていた。
「他のアース人達に不信感を抱かせてしまうため、下手に手を出す事もできぬ。できるだけこちらの者達と接触せぬよう、自然な範囲で隔離する他にあるまい」
「畏まりました。専属のメイドを付けて、そのように取りはからいます」
イリスは深く頷くと、皇帝の命令を部下達に伝えるため、素早く走り去っていく。
皇帝も楽しそうに教える智教をもう一度だけ窺うと、静かにその場を後にするのだった。
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