第百二十二話 一日千秋(5)
日差しがまた一段と強くなった、タマガキの郷。湯治を終え、郷に戻ってきた俺と秋月は、例の病棟に移動し、施術の準備を始めた。
病室の中。改めて俺の体調、状態を調べた医師が、施術を行うことに同意した。俺を診察してくれた彼が施術の際の心構えを指導し始める。
「いいですか。他者の霊力というのは、非常に危険なものです。それは毒物に近い」
「しかし本来、この施術はここまで危険なものではありません。何故ならば、反発しあうはずの霊力が微弱なもののため、侵入する霊力はそれとぶつかり合うことなく、残滓を除去した後供給を失い、消えゆくためです。しかしながら、本来霊障を患う可能性の低い、防人である新免さんが罹ってしまったため、その前提が崩壊しました」
弱っているとはいえ、防人の霊力は十分に強力だ、と彼が話す。
「今回の施術を行うにあたって、施術中、玄一さんが少しの痛みでも感じてしまえば、無意識下で施術者である秋月様の霊力に抵抗を行ってしまう。そこで、こちらの薬を投与します」
彼が手にしているのは、液体の入った小さな瓶。それは針金で強く固定されており、簡単に開けることはできないだろう。
「ある霊技能者が管理し採取した花を主成分に、魔獣の素材などを混合させできた、全身麻酔薬です。投与後、新免さんを深い昏睡状態へと誘います。加えて、他にも薬を投与しますが……」
「これがどれほど、霊力の拒否反応を緩和してくれるか分かりません。そこで新免さん自身が、秋月様を……彼女のことを信頼し、身を委ねて欲しいのです。霊力には、心理状態が強く影響する。しかし、これは生殺与奪の権を与えるに等しい。難しいのは分かっているのですが……」
彼が傍から取り出したのは、クリップボードに載せられた、一枚の同意書。それはまず最初に、これから行われる施術の危険性について記していた。投与薬の副作用から、鮮明な悪夢か何かを見るとか、そんなことも書いてある。
恭しく、少し恐るように、差し出してきた彼からそれを受け取った。ペンを手にし、名前を書く。
「いえ、問題ありません。俺は、彼女を信じる。俺のことを見てくれる、彼女を」
「……了解しました。では、明日。早朝より、施術を開始します」
施術までの間。運動を控え、休息に努めていて欲しいと言われた俺は、医師の許可を得て、家に帰ってきた。思えばずっと、タマガキの家に帰っていなかったような気がする。瓦屋根の立派な家なのに、住んでやれなくてごめんな、と柱に手をかけた。
家。刀掛けの前。久しく手にすることが出来ていない二刀を、ゆっくりと撫でる。
久々に、タマガキの本部に顔を出す。俺の『幾望の月』作戦での奮戦。そしてその結果を皆が知っているのだろうか。多くの兵員や係員が話しかけてくれた。話を聞けば、タマガキにいたアイリーンはどうやらすでに前線へ帰還したらしい。俺も彼女のように、早く戦場に戻らねばならない。
本部ロビーへ、足を踏み入れる。
何度も訪れたそこは最近何かあったのか、改装されたらしい。工事の跡が、よく目に付く。まだ施工は完了しておらず、真新しい壁と、古くから残っているであろう壁のコントラストが、嫌に目立っていた。
そこには、隻腕の、否。銀の右腕を持つ、郷長の姿がある。
「久しいな。玄一。調子はどうだ」
「……今それを聞くのか?」
「……前線にいる皆も心配している。医者の話は、オレも聞いた」
彼が、罪悪感を感じさせるような表情で、俺の元へ歩み寄る。彼には、今の俺の霊力の弱々しさが分かるのだろう。少し、郷長として責任を感じているようだ。
「難儀だな。人の身体というのは。俺もお前も、思いではいくらでもやれように、言うことを聞かない」
彼が自嘲の笑みを浮かべながら、左手で何も映していない右目と、銀の右腕を撫でる。
「オレは取り返しがつかなくなったが……お前はまだ、戻れる可能性があるらしい」
「いいか。玄一。オレはしくじって、こうなった。今回の出来事を糧としろ。お前は、こうはなるな」
彼の鋭い瞳は、彼にしか分からない、峻烈さを背負っていた。
家にもう一度帰り、適当に時間を潰した後、病棟へと戻る。自身に与えられた個室に戻り、病床の上に寝っ転がった。両手で頭を支えて、何となしに、窓の向こうに見える、窓枠に囲われた月を見る。
御月は、元気にしているのだろうか。戦いの終盤。額を撃ち抜いた氷柱の一撃の後の、記憶がない。彼女も怪我を負っていたはずだが、元気にしているかな。
瞼を、ゆっくりと閉じる。
施術の時間。緩い病衣を着たまま、病床の上に、仰向けに寝転がる。高さを調節できるそれが、ゆっくりと下に下がっていって、ちょうど、彼女の胸元ぐらいの高さになった。
動きやすく、消毒され、霊力や魔力に対する抵抗が可能な術衣を着た秋月と医者が、こちらを見ている。真剣そうな表情でこちらを見つめる秋月と、目が合った。
大丈夫。
「玄一。私に任せて。だから、ゆっくり眠っててちょうだい?」
「秋月様。そろそろ投与薬の効果が出ます。準備を」
手術室の中。紅葉の便りが、広がっていく。涼やかで、以前俺を強く守ってくれたそれを、俺の体は無意識のうちに認識していた。圧倒的強者を前に、立ち向かい俺を守ろうとした紅葉の霊力。身体がゆっくりと、弛緩する。なんて、安心できるんだろう。彼女は俺をまた守ってくれるさ。
「残滓が確認できたのは、鎖骨より上の部位です。頸動脈の辺りに滞っているそれを除去しましょう。あとは、新免さん次第ですが」
「分かってるわ。じゃあ、私の霊力を鎖骨の辺りから展開するわよ」
「私も逐一確認しますが、施術者である秋月様の感覚が第一です。自身の判断で、動かしていただきたい」
「分かったわ」
耳に響く彼女たちの声が、やけに遠くなっていく。何回も反響するようにして頭蓋を駆け巡ったそれが、消えた後。泥濘の中に沈んでいくように、意識がなくなった。
ここは、どこだろうか。
真っ暗な道を進んでいく。月明かりの助けのない、道しるべのない闇夜を行った。
何も考えずに、何も見えずに、前へ進んでいく。
暗闇の中。何故か目の前に、この前戦った千手雪女の姿が現れ出た。驚きもないし、何故か拒絶感もなく、目の前にいる人型の魔獣を見つめている。見つめあっている。こいつは━━奉考を殺したやつなのに。
どうでもいい。互いに対する興味などない。心の底から、今はそう思っていた。
右足を一歩前に出して、歩く。こちらに道を譲るようにした彼女は、射殺すような視線を向けながら、一定の距離を保っていた。
すると今度は、青白い肌を持つ、やけに背が高くてほっそこい人型の━━なんだったか。そうだ。骨喰という魔獣が、こちらを横から見ていた。その姿を見て、無関心な心だけが残る。
ああ。ここはどこなんだろう。考えることすらも、出来ない。
歩いていてもどうしようも無いので、とりあえず暗闇の中に座り込んだ。雪女はずっとこちらを見ているし、気づけば同じ人型の魔獣が、どんどん現れていっている。あいつは━━確か彼が討ち取った、白澤とかいう空想級上位。
他にも、狐の尻尾が生えたやつ。羽衣を身に纏ったやつ。白い、六枚の羽を生やしたやつ。蛇の尾と蝙蝠の羽を持ち、角を生やして局部を晒した、全裸のやつ。数を増やしていった。見たこともない。彼らは話せないけど、何かを訴えるようにしている。
立ち並ぶ彼らの向こう側に、大きな体躯を持つ、全く別の何かが見えた気がする。ダンジョン、敵の橋頭堡の中。初めて『五輪』を発現したときと同じ、何かが駆け抜けるような感覚がした。正常な思考が、帰ってくる。全ての恨みが、義務が、胸に乗った。
「一刻も早く殺さねば! 奴らを!」
腰元の二刀に手をかけようとして、それがないことに気づく。代わりに五輪を召喚しようとして、霊力が使えないことを再確認させられた。
「クソッ! 目の前にいるのに!」
しかし、この五体は健在。跳躍して、回し蹴りを放つ。それは敵の横顔に直撃したが、奴らは反撃してこないし、動く素振りすら見せない。
何時間経ったのか分からない。最初の間、何とかして奴らを排除しようと、躍起になって格闘を行なったが、何も起きないし、奴らはこちらに何もしてこなかった。だんだんと諦観が湧いて出てきて、足を止めた。奴らはこちらを囲い込んで、ただ眺めている。その強い圧に、一滴の汗が顎を伝った。何故、何もしない。
しばらく呆然と立ち尽くしていると、自身の鎖骨のあたりが、何故かむずむずと痛んだ。そこから現れたのは、一枚の
爆発するように、そこを中心に紅葉の霊力が解き放たれた。暗闇の世界に、紅葉の便りが広がっていく。塗り変えるように広がるそれ。暗闇の世界に、秋の日差しが差し込んだ。木々が現れ、草木は広がり、世界を構築していく。
木の実が落ちる並木道。黄色、橙色、紅色、鮮やかなグラデーションを持つ木の葉たちが、風に揺れる。暗闇の世界を埋め尽くし、侵略していく世界が、魔獣を形作っていた何かを霧散させた。
向こう側。紅葉の並木道の果てに、誰かがいる。話しかけることなどできないし、声は届かない。
背は子供のように低い。五つ紋。紅葉の色留袖を身にまとい、凛とした表情をしている。
その佇まいからは、冷徹なる知性を感じさせる。しかしそれと同時に、他者を受け入れる優しさを持っている。かの麗姫は、色とりどりの、紅葉の葉に似ていた。
彼女が、彼女こそが、この世界の支配者。
彼女の世界は暗闇の世界を押し込んで、破壊しようとしている。対する暗闇の世界は、沈黙を貫いていたものの、途中から、その様相を変えた。
溢れ出る魔物の群れ。強く染み込み遺った魔力の気配。相対する彼女が、反発するように気配を強める。
ゆっくりと、飜るように右腕を振るった彼女に応え、落葉する紅葉たちが奴らに降り注いだ。それは敵を打ち破り、敵の死骸を取り込んで、腐葉土と化させていく。蹂躙という言葉が、まさしくふさわしい。彼女の紅葉の雨は、一軍に匹敵する。落葉する紅葉は全て、必殺の霊力を孕んでいた。
暗闇の世界が、押し込まれていく。彼女が紅葉を放ちながらどんどんと進んでいって、それはとうとう、一握りの、一個の球体と化した。
「これで、大丈夫。私の一日千秋の思い。受け取って?」
彼女が色留袖のどこからか、扇子を取り出して、暗闇の世界を真っ二つに叩き斬った。
背を向け、こちらを見つめる彼女。彼女が、この世界を去る。
紅葉の並木道に祝福された先。その果て。わけも分からず何故か、そこ目掛けて駆け出した。
その先の世界。否、己の世界に再び足を踏み入れた。透き通るような水面に足をつけ、ぱちゃ、という水音が鳴る。
一面に広がるのは、空。
白雲が自由に泳いでいる。その風景が地を満たす水面に反射して、四方八方、空に囲まれているような気分になった。
歩くことしばらく。その世界の中心に、俺の背よりも低い、石の塔がある。
四角形。球体。四角錐。半球。宝珠の順に重ねられたそれの前に、立ち尽くした。
するとそれぞれの石から━━地輪、水輪、火輪、風輪が現れ出て、俺の体を囲む。頂点に位置する石からは、何も出てこない。高さは全く足りないはずなのに、それは何故か、空に辿り着きそうなほどに、高く感じた。
体中に張り巡らされた霊脈が、胎動する。蘇る。
世界が足元から、真っ白に染まっていった。その眩さに、瞳を閉じる。
電灯の明かりを、瞼越しに知覚した。瞼を開けて、その眩さから一度目を細めさせる。その後、光に慣れてから、ゆっくりと目を開けた。
体を満たしているのは、懐かしき霊力の感覚。今身体強化をしようと思えばできるだろうし、『五輪』だって、使うことができるだろう。
「秋月様。彼の意識が戻りました。施術は、成功です」
「ほんと!?」
病床の上。体を起こし、座るような格好になる。話を聞けば、施術を開始してからすでに、八時間近く経っているらしい。目覚めた後のチェックなのか、再び診察を開始した医師を横目に、秋月の方を見た。彼女に、また返せない恩ができてしまった。
「本当に大変だったんだから……まさかあんな風になってるなんて。でも、一体どういうことなんだろう……」
嘆息した彼女は小さな声で、何かを他言無用と、医師に念押しした。何故か蒼い顔をしている彼が、深く頷く。
俺、絶好調。霊力の感覚は戻り、力は漲っている。右手を顔の元に持ってきて、手のひらを何となく眺めた。
その動きで、ぶかぶかの病衣がはだける。何かに気づいた医師が、秋月に声をかけた。彼女もまた、何かに視線を移して、驚きの声を上げる。
「玄一。左の鎖骨のあたり……」
「ん?」
首を傾け、自身の鎖骨のあたりを見てみると、そこに少し大きめの痣ができている。話を聞けば、そこあたりを切開して、霊力を流し込んだらしい。それだけなら手術痕があるだけってことで理解できるんだけど、彼女たちが驚いたのは、それじゃない。
その痣は何故か、紅葉の葉っぱの形をしていた。赤黒くなっているそれは本当に、紅葉のようにすら見える。
「ご、ごめんね。何故かは分からないけど、痕がついちゃったみたいだわ」
何故この形なのかと、本気で困惑した様子の彼女が、あちゃーと天を仰ぐ。
「いや、この程度の傷跡、気にならないからいい。それよりも秋月。本当にありがとう」
感謝の言葉を述べながらも、紅葉の痕がついた理由を考える。いや、単に手術痕が紅葉の形に見える、というだけなのかもしれないけど、あの夢の中で見た、紅葉の世界を思えば、偶然とも言いづらかった。
思考に没頭する。続く医師の言葉は、右耳から左耳へ。何も聞いていない。この出来事、見たことは忘れない方が良いし、何故か、とても大事なことな気がする。どこか、霊力の、霊技能の本質に迫るような━━
ただただ考え続ける。視界の中。鎖骨の痕に視線を落とした彼女の動きが映った。喜びの笑みを、抑えようとするけど抑えきれないような、そんな表情をしている。
「━━あは♡」
声は、聞こえていない。
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