第百二十一話 一日千秋(4)

 



 毎朝。毎夜。運動をして温泉に浸かり、食事をして、タマガキで激務に追われていた山名が見れば、血涙を流して悔しがりそうな生活を、秋月とただ、続けている。


 タマガキの東に位置するこの温泉街には複数の温泉施設があるのだが、この一週間で、全ての湯を楽しむことができた。それぞれ風景が違ったり、お湯の熱さが違かったりして、飽きがこない。


 俺は怪我人だが、他の者たちが怪我人じゃないからといって、湯治が必要ではないわけじゃないだろう。秋月は防人としてここ暫く俺と同じように戦い続きだったから、疲れも溜まっていたようだし、ゆっくりしてる間も何か仕事をしていたようだが、満喫していた。


 夕暮れ。囲炉裏の前。おたまを手にした秋月が、自在鉤に鍋をかけて、豚汁を作っている。それと同時に、イワナを刺した串を用意して、塩焼きにしていた。うねるようになったそれが、炭火に焼かれる。


 イワナを捌いたり、洗ったりするのを手伝ったりはしたが、秋月が自然な手さばきで、サクサクと用意していったので、あまり手伝うことがなかった。


「ふふふ。これは間違いなく美味しいわよ」


 おたまで味見をする秋月が、誇らしげに鼻をうごめかす。


「いやしかし、本当にすごいな秋月。どれも美味しそうだ」


 少し焦げ目のついたイワナが、食欲を刺激する匂いを放っている。窓から差し込む陽光に照らされて、無意識のうちによだれが出てきてしまいそうだ。


「ん、ふっふふふふ。一通りの花嫁修行は済ませてあるわ。当然よ」


 お椀に豚汁を掬って、こちらに渡してきた彼女のそれを受け取る。いただきますと口にして、箸でごぼうに大根、人参にしめじと、具を掻き込んだ。口の中いっぱいに、旨味が広がる。


「はふ、美味いな! 本当に!」


「口に合うようでよかったわ」


 にこりと微笑む彼女が、こちらを見ている。その後、ちょうど良い焼き加減になったのだろう。串に刺したイワナを手にして、がぶり、と彼女が口にしていた。イワナの腹に、小さな歯形が付く。


「そうだ、玄一」


「ん、なんだ? 秋月」


 俺がおかわりの豚汁をよそい始めたあたりで、彼女が口元をハンカチで拭きながら、喋り始めた。


「もう私たち、ここにあるだいたいの温泉行き終えたじゃない。玄一もなんだか元気になってきたみたいだし、そろそろタマガキの方に戻ろうと思うの」


 彼女が真剣な表情で、こちらを見据える。


「……ついに、やるのか?」


「ええ。資料も全て確認して、練習もしてきたわ。準備万端よ」


 ハンカチを丁寧に畳んで、彼女がそれを仕舞う。確かに彼女の言う通り、俺の体の調子、というか霊力が、勿論使えないままなんだけど、なんとなく強くなっていっているような、そんな気がしていた。


「やっぱり、霊脈の近くにある温泉だから良いのかもしれないわね。眉唾ものだけど」


 良かった、と口にした秋月に問いを投げかける。


「なあ秋月。前から聞こうと思ってたんだが……霊脈ってなんだ?」


「ん? ああ。霊脈ってのは、大地に染められた無力……えねるぎーが流れてるところよ。そこ辺りの資源に関しては最近分かったことが多いのだけど……ごめん今時点で私が玄一に話せることが少ないわ」


 機密事項の方が多くて、と秋月がこちらに謝る。俺は防人だから、軍関係であれば知る権利があると思うのだが……もしかして民間か? 


「あー、でも、神社とか霊地とされる場所は、防人たちの拠点として優秀だって聞いたことがある気がする。無力の濃度が高いとか、単純に調子が良くなるとか」


「そうそう。だからここの霊脈から漏れ出てるものが、私たちに好影響を与えてるんじゃないかって」


 秋月がこちらの方を向く。その動きで、紅葉の髪の毛が揺れた。


「……西の土地と内地には特に、多くの霊脈があるとされてるわ。第一踏破群と帝がいる帝居なんかは、霊地としてはヒノモトの中で最高峰の場所よ。あそこ、ヒノモト中の霊脈に繋がる場所なんじゃないかって言われてて、多分、空想級が飛んできても瞬殺できるぐらいだわ。帝を守るためのがちのまじの防備よ」


 まあ、ともかく、と秋月が話を切り替える。タマガキに帰還するにあたって、と彼女が語り始めた。



「それで最後にね、実は東の山の頂上付近に、もう一個、行ってない温泉があるみたいなの。今夜、二人でそこに行かないかしら」


「なんだ、もう一つあったのか。賛成だ。そこに行こう」


 次来るときがいつになるかも分からないし、できれば全部行っておきたい。そうこなくっちゃね、と口にした秋月が、食事の後片付けをして、準備を始めた。







 夏の山。二人でタオル、着替えを持って、山の頂上に向かう。虫が集ってきたが、霊力を発露させた秋月がそれを追い払っていた。目的地。小さな山小屋が前の方にあって、その先から湯けむりが漂っている。


 岩でできた階段に設置された手すりに手をかけ、彼女と上っていく。そこは、露天風呂。申し訳程度の荷物置き場、屋根とボロい壁しかない着替え場所があって、男湯と女湯の区切りがない。


「あー……」


 横にいる彼女と、顔を見合わせる。今までの施設は全部きちんとしてたんだけど、あまり人の訪れないここは、別だったようだ。


「俺は帰るから、秋月は入っていっていいぞ」


 着替えとタオルを手に持ち、踵を返す。


「いや、元々玄一の怪我を治す為にここにきたんだから、そうなったら本末転倒じゃない。それに、私一人でこんなところ入るわけにもいかないし……」


 ムスッとした彼女が、俺の方を見る。秋月が、温泉の方へトトトーっと歩いて行って、何かを確認していた。


 ……何となくだが、何処からか視線を感じる気がする。霊感のない今、探知による把握はできないが、鍛え上げられた五感が何かの存在を感じ取っていた。



「んー、まあ人払いはさせてるし……」


 くるりと、彼女がこちらの方を向く。


「玄一。一緒に入っちゃいましょ?」


「え゛っ……」



 へんなこえでた。








 温泉。その中心にある大岩を背に、互いの姿が見えないようにして、浸かっている。乳白色に濁った湯は、ものすごく熱いわけではないのに、酷く汗をかいていた。先に入ってて、と彼女に言われ、待つこと、少し。



 ちゃぷ、と後から入ってきた、向こう側にいる彼女が動く音がする。何故か聴覚が、異常なほどに敏感になっていて、その音に吃驚した。魔獣のうめき声を聞いた時は、ここまで驚かなかったのに、何故だろう。



 夕食の後に訪れたからだろうか、だんだんと日が落ちてきた。山の中。どんどん暗くなっていって、今からここに訪れる人は、もういない。



 夏空の星々が、宵闇の空に浮かぶ。

 暗闇の中。立ち昇る湯気。響く水音。



 ぱちゃ、ぱちゃ、と、音がする。歩いてくるような、そんな音がする。


「ちょっ!? 秋月!?」


 彼女がぐるりと大岩を回って来て、俺の元にくる。強く目を閉じた。


「……何変なこと想像してんの。流石に湯浴み着着てるわよ。私。そんな安い女じゃないわ」


「え゛っ……ああ、はい、御免なさい」


 ゆっくりと目を開けた先にいたのは、赤いワンピースのような湯浴み着を着た彼女。温泉の中で、スカートがふわふわと揺れている。彼女は普段二房に分けている髪の毛をすべて下ろしていて、その見慣れない姿と、温泉に火照る肌に、心臓の鼓動が恐ろしいくらいに早くなっていた。着ていればいい、という問題でもない。



「ねぇ……玄一。玄一は、最近楽しい?」



 腕をうーんと伸ばした彼女が口にして、ビクッとする。



「ああ。楽しいよ」



 ごくごく普通の問いだったはずなのに、早口で答えた。



「玄一。私と作戦の前、二人でいた時にさ、した話、覚えてる?」


「……」


「私さ、御月の報告を読んだ時に、びっくりしたの。玄一が一人で、御月の静止する声も無視して、戦い続けたって。御月のいつもは綺麗な文字が、少し荒れてたわ。大怪我を負わせたのは、私に責任がある、と」


 私はてっきり、仕方なくこの傷を負ったのだと思ったのだけど、と秋月が言葉を残す。その後、何かを決意した。厳かな雰囲気を感じる。彼女はあえて、この状況を作ったのかもしれない。



「貴方は託されてしまった」



 人の本質を見抜く、彼女の瞳が、こちらを見据えている。


「だから玄一がね、頑張るのを私は止めない。だけど」


「そのために、自分のことを無視しすぎないで。私、頭きたわ。この前医者の前で、最強になれないんだったら、死ぬなんて言った時」


「……」


「玄一。ここで私ははっきりと言っておくけど」


 彼女が下ろした髪の毛を、耳にかける。その動きで、乳白色のお湯からさらけ出された肩が見えた。頬は、紅潮している。彼女は視線を、逸らしていた。


「私はただの良い人なんかじゃないわ。玄一だから贔屓して、玄一だから助けてあげてるのよ。尊敬の念を向けられるのは嬉しいし、私は最初それが欲しかったけど」


「……今は、違うわ」


 小さな、小さな声。かすかなそれは、本当にそう言ったのかを疑うことになりそうな、そんなもの。


 何かを隠すように、ぼちゃんとお湯に顔をつけて、ぶくぶくとしている。しばらく、そうした後。


「だからね。玄一。私は玄一が死んじゃったら、悲しいんだからね? もっともっと、泣いちゃうんだからね? きっとみんなだって、玄一のことが好きだから、悲しむわ」


「それは、どう思う?」


 少しだけ、想像する。自分がしくじって死んだとして、お墓ができたとする。その前で、彼女たちが落ち込んでいる姿を想像したら、胸が、痛くなった。それは嫌だ。そんなふうに、固執しないでいい。


「……その時は、忘れてくれ」


「そういうことじゃないわ……!」


 彼女が眉間に皺を寄せて、怒りの表情を見せる。次ぐ言葉を一瞬紡ごうとして、けれど何かに気づいた彼女は、それをすぐに霧散させて、俺の顔をじっと見た。彼女が優しい、どこかで見たことがあるような、もっと見ていたかったような、もう見られないもののような、誰かに似た、そんな表情かおをした。


「玄一。私は玄一が死んじゃったら、絶対に忘れられない。毎日夜になったら、玄一のことを思い出して泣いちゃうわ。悲しくて、寂しくて、私も死んじゃいそう……」



 彼女が願うように、両手を組む。



「だからお願い。玄一。自分の命を……粗末に扱わないで。貴方が自分のことを無視するのは、周りを無視するのと同じよ」


「……貴方だけの命じゃないんだから」



 仕方ない、どうしようもないな、というみたいに、言い聞かせる彼女の声色に、不思議と、反抗するような気にはなれなかった。


 空を見上げる。俺はこの場所に、一人の人間として、いて良いのだろうか。郷愁に駆られる。彼らとの居場所が、忘れられない。忘れたくない。



「貴方はもう、立派にタマガキの一員よ?」



 彼女が、最後に言葉を残して、俯いた。


 俺も、絶対に忘れないと思っていた。しかしいつか、だんだんと空にたなびく雲のように、朧げになっていく。忘れては、ならないのに。忘れちゃ、いけないのに。胸の中で、心の中で一生生きているだなんて、戯言なんだろう。



「……玄一にはきっと、時間が必要なんだと思う。でもそれまでの間に、こんな怪我を何回もしたり、死んじゃったりしたら、私は絶対に嫌。頑張るのはいいけど、自分を勘定に入れない特攻のことを、頑張るとは言わないわよ」



 彼女がじっと俺の瞳を見つめる。彼女は、俺の答えを待っていた。


 ずっと抑えつけていた心に、一抹の不安。欲望。彼女に、彼女たちに、忘れられたく、ない。


「……うん。秋月。努力は、するよ」


 彼女がぐっと、俺の方へ近づく。彼女の端正な顔が、目の前にある。だけど今は、何故か全く緊張しなかった。


「玄一。もう、お説教はおしまいよ」


「貴方のその怪我は、私が絶対に何とかしてみせる」


「だから私を、信じて?」





 楽しく、和やかに歩いた行き道とは正反対な、帰り道。一言も言葉を交わさず、俺たちはタマガキへ向かう。霊力を十分に使えないのを除いて、体の調子は良い。俺は、彼女を信じた。


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