第百二十話 一日千秋(3)
まずは怪我を完全に癒やし適度な運動をして、健康な状態に戻ってから。それがお医者様の考える、施術に必要な計画だった。危険なそれに耐えれるように、するために。
毎朝の走り込み。少しずつ量を増やす。二人で横並びにぺーすを作りながら、木漏れ日の中を進んでいく。
「いちに、いっちに、いちに、いっちに」
防人のものとも、兵員のものとも思えないその速度。
目の前にいる彼女の、二房の髪が上下に揺れていた。
演習場の中を走り回って、最初は兵員たちに奇異の目で見られていた。けれど次第に光景の一部と化したのか、スルーされている。
その後は柔軟体操を行なって、筋肉を伸ばし、血流を改善させる。
「んッんんん! 伸ばして、はい体倒すわよー」
「ん! お疲れ!」
全てを終えた後は、少し遅れ気味の朝ごはん。食堂のものを持ってくるのが基本だったけど、たまに彼女が手作りのご飯を持ってきてくれて、ご馳走になった。
もくもくと咀嚼するおにぎりを、彼女が水筒の水で流し込む。
「んー! 相変わらず美味しいわね。本当に、元気が出るってもんよ」
「もっといっぱい食べなさい玄一。そうしなきゃ元気になれないわよ?」
ご飯を食べた後は、木陰に寄っかかって、ポカポカの陽気に晒されながら、そのままお昼寝。
夏も真っ最中。春のように過ごすことはできないけれど、静謐な森林の中では、涼やかな空気が漂っている。草や土が服について汚れてしまうような気がしたけど、洗えば良いかな。
「ん……すぅ……すぅ……」
「ん……ふぁあ……」
目覚めた後は、眠気覚しの軽い体操。その後解散して、家路に着く。
「じゃあ、またね! 玄一!」
こんな穏やかな日々を、毎日送り続けていた。魔獣と戦ったり魔物を蹴散らしたりしていたのが続いていたので、何だが、その時は感じられなかった、暖かな気持ちになる。
「あ、そうだ玄一。そういえば提案があるのだけど」
「ん? なんだ? 秋月」
トトトーっと駆け寄るように戻ってきた彼女が、俺の顔を見上げて言う。
「ほら、玄一。ここのタマガキの本部に、お風呂あるのは知ってるわよね」
「ああ。管理が大変だけど、わざわざ引っ張ってきてるっていうあれか」
「ん、そうよ。実はタマガキの東の方にね、温泉があるのよ。霊脈に近い」
秋月が首をこてんと傾けて、こちらに問う。
「医者に聞いてみたんだけど、体に良いって言うし、しばらく時間とって、湯治と行かないかしら?」
彼女が説明を続ける。どうやら、東の方はちょっとした温泉街になっているようで、そこで今行っている運動を続けながら、温泉に浸かって疲れを癒せたらいいんじゃないか、ということらしい。霊脈に近い、というのもあぴーるぽいんとなんだそうだ。よく分からないけど。
一刻も早く、この体を治せるのなら。そう思って、快諾する。
「んじゃ、私の方で準備させとくから、れっつごーよ!」
飛び跳ね腕を真っ直ぐに伸ばした彼女の姿を見て、和かな気持ちになる。そんな俺の様子を見た彼女が、にこりと、微笑みかけた。
翌日。早朝。
旅行鞄を両手で持つ彼女と、背嚢を背負う俺。女性に荷物を持たせるわけにはいかないと、彼女の荷物を手に取ろうとしたが、病人でしょ、貴方、と拒絶された。
「んまま、ゆっくりいきましょ。そんな遠くないし」
タマガキを出て、東へ。一面に広がる、夏の匂いがする田園。風に揺れる青い穂の音が、耳に届く。
そこから一度鬱蒼とした森の中に入って、木道を行った。
トコトコと木の音を立てながら、二人で木道を歩いていく。葉の間からは陽光が差し込み、鳥と虫の声がした。自然の中を歩くのが嫌いなわけじゃないけど、こんな道、前までだったら彼女を抱えてひとっ飛びだったんだけどな。
そんな俺の考えを見透かしたのか、木道の出口。彼女が立ち止まって、こちらへ振り向く。
「ん、玄一。適当に結んだ約束だけど……覚えてる? 元気になったら、また私を空に連れてってね?」
夏風。彼女の紅葉の髪を揺らし、向こう側には、夏の淡い空が広がっている。
「ああ。もちろん」
たなびく雲が、それを覆っていた。
タマガキの東の方、というだけあって、彼女の言う通りそこまで遠くはなかった。緩やかな傾斜を持つ山を登り、その先で、立ち並ぶ山小屋が目に入る。湯治場として、そこそこ人気なのだろう。整備され、飲食店などといった店もある周辺を見て、温泉に浸かりに、定期的に多くの人が訪れているのだろうな、と納得した。
「負傷した兵員とか、農閑期に疲れを癒しに来た農民とかで、ここに訪れる人が多いのよ。需要に合わせて、発展していった感じね」
旅行鞄をぐいっと動かした彼女が、道の先を指差す。
「あっちに私が所有してる別荘がいくつかあるから、そっちに泊まりましょう」
所有してる……?
「……お金とか払わなくて大丈夫か? 俺だって防人だし、ちゃんと料金は払えるぞ? 別の場所だっていい」
「ん、いいのいいの。こっちの方が温泉から近いし」
小さな温泉街の入り口。てくてくと歩いていく彼女を見た管理人の人と思われる男性が、深々と礼をした後、彼女に話しかけた。数分の間やり取りを続けた後、秋月が手招きしてくる。
「ん、じゃあとりあえず荷物置きにいきましょ」
擬洋風の木造建築。見上げ立ち止まる俺を横目に、秋月が鍵を開け扉を開く。山の方に歩いて行ったあたりから、てっきり小さな山小屋を想像していたのだけれど、全然違った。いやというか、タマガキにある俺が借りてる家よりも全然大きいし立派な気がする……
中に入り込むと、二階部分が露出して見える、広々とした吹き抜けがあった。ここは居間なのだろうか、ソファと机が置いてあって、奥の方には台所と囲炉裏が見えた。和風と洋風がぶつかり合って、統一感がないように見える。
適当な場所へ旅行鞄を放り投げた彼女が、ソファに飛び込む。きゃっきゃと楽しそうにしている彼女が、セットされた毛布を剥ぎ取って、クッションを枕に寝っ転がっている。
「なあ……秋月。何も考えずに来たけど……二人で同じとこ泊まるのか? 一応俺も男だし……別の場所移るけど」
広々とした家の中。俺の声が響く。
いつも通り彼女と楽しく過ごしていたけど、きちんと一線は引いておかなければ問題だろう。彼女は未婚の淑女だし。
うつ伏せに寝っ転がっていた彼女が、毛布を掴んでくるりと仰向けの姿勢になり、こちらを見た。
「ん、いいのよいいのよ。私は二階の部屋で寝泊まりするから、玄一は一階の方を使ってちょうだい」
「それとも玄一が、夜にこそーっと階段を上って……手出そうとしてくるわけ?」
声をあげて少し笑って、こちらを横目に見る彼女の冗談に、ビクッと驚く。ちょっとだけ、自分の頬が赤くなったような気がした。対する彼女の顔色も、間を置いて時間が経てば経つほど、りんごのように、赤くなっていっている気がする。
「ん、あば、ばご、ご、ごめん忘れて。冗談言ったつもりだったけど、変な空気になっちゃったわね。こんなこと言うもんじゃないわ」
手をパタパタと動かして、暑そうにする秋月が、ふうと額の汗を拭った。
…………
彼女は俺が最も尊敬し、何度も俺を助けてくれた、大恩人だ。彼女といるのは楽しいし、実際に長い時間を過ごしている。しかし、彼女に関わらず。
今の自分が、誰かと結ばれる姿が想像できない。してはならない。
何となくなぜか脳裏に、リンの姿がポンっと浮かび上がった。自戒する己を吹き飛ばし、そうじゃないと、頭の中ですごく大騒ぎしている。あ、刀振り回し始めた。あと
……もし仮に、本当にそんなことがあったとして。
……彼女は本当に良くしてくれているが、俺では釣り合わないだろう。彼女がどんなに言って聞かせてくれたって、自分は復讐の徒だ。彼女にはもっと、良い人がいる。
紅潮し、緩みそうになった頬を引き締め、真剣な表情で彼女の方を見る。
「安心してくれ。秋月。そんなことは絶対にしない」
「……ん」
枕を除けて、びょんと、彼女が勢いよく起き上がった。
「じゃあ、しばらくゆっくりしてから、温泉行きましょ」
荷物の整理を始めた彼女の後ろ姿を、じっと見つめる。ここから数日間。俺たちは、ここで時を過ごす。少しでも霊力が戻る可能性上がってほしいと、一人願った。
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