間章 鳥飛兎走の二年間

第百十八話 一日千秋(1)



 じりじりと熱気を発する日差しが、窓から差し込む。迷い込む風がカーテンを揺らしていた。部屋を満たす蒸し暑さに、一滴の汗が顎を伝う。大暑を迎え、とにかく暑い真っ昼間に、吹き込む風がどうにもありがたかった。


 カゼフキ砦で裂傷を処置し、骨折した部位を固定し、静養すること二週間。防人の回復力を加味しても、かなり速い速度で治ったそれを確認してから、更なる治療を受けるため、タマガキへ移動した。カゼフキに駐留することになった他の防人たちに別れを告げ、同じく帰還となった秋月とアイリーンとともに、ゆっくりとタマガキへ向かった。



(『玄一。怪我の具合は大丈夫? ゆっくり、治していきましょ。タマガキで準備させてるし、安心して?』)



 折れた骨を正しい位置に癒着させるため、基本的に、負傷した部位を動かすのは厳禁だ。しかし、空想級魔獣との交戦で、体のあちこちを怪我したため、動かせる場所の方が少ない。前に、犬神の一撃を貰ってできた怪我のような、重いものはないが、その数がずっと多い。やはり、空想級魔獣との単独での戦闘は、俺にはまだ早いのだろう。悔しいが。



 タマガキに到着した後、前に世話になった寄棟造りの病院棟で、再び療養の日々を送ることになった。しかし驚くことに、病棟の内部が、あちこち改装されていた。怪我をした人が少しずつ運動するための部屋であったり、明らかに最新器具のように見える医療機器が配されていた。結構な期間病棟にいたので、看護師の人や医師の顔は覚えていたのだが、知らない人がなぜか多い。



(『玄一。もう固定具は外していいそうよ。これからはリハビリね。出来る限り手伝うわ!」)



 今現在、西部戦線に対する魔物の軍勢は、非常に不規則かつ不安定な動きをしているそうだ。空想級魔獣という一軍の柱を失い、統制がうまくいかず、トチ狂って攻めてくる可能性もあるらしい。そのため、帰還となったのは怪我をした俺とアイリーン、そして秋月だけだった。


 アイリーンはあの雪兎の魔獣の攻撃を腕に受け、右腕に青黒い内出血の痕ができ、そして骨にヒビが入ったらしい。しかし、比較的回復速度が速いとされている俺よりも、はるかに速い速度で復帰し、今日退院を迎えようとしている。


 まだまだ時間のかかりそうな俺は、手すりに掴まりながら━━ゆっくりと歩いている。一ヶ月以上の時を病床の上で過ごしたため、筋肉が弱っている。他にも患部をゆっくりと動かしたり、色々な、怪我を治すための軽い運動をしていた。まあ、そこまでひどいものでもない。


 広々としたこの部屋に、金髪碧眼の彼女が入ってくる。彼女はもう普段通りの格好をしていて、ここで彼女の傷はもう癒えたんだな、と実感した。


「おっす。玄一。調子はどうっすか?」


「いや……全然だめだ。人生でここまで体が動かなかったことがないから、すごく気持ち悪い」


「そうっすねー。いやでも骨さえくっつけちゃえば、あとはすぐ戻せると思うんですけど……」


 手すりに掴まり歩き続ける俺を眺め続けながら、アイリーンがこちらを眺めている。その時続けて、部屋に別人の、俺の恩人の足音が響いた。彼女はタオルに、水筒を持っている。


「ごめん玄一。今日は遅れちゃって」


 トトト、とこちらに駆け寄った紅葉の彼女が、両腕を伸ばして、汗を拭き取ろうとする。ぐいぐいと押し付けられるそれに、頬がぐにゅと変形した。


「ああ。全然大丈夫だぞ。秋月。毎日顔を出してくれるだけ本当に嬉しくて……ありがとう。でも、忙しいなら来なくても大丈夫だからな?」


「えへへ。そんなに大したことないわ。大丈夫よ?」


「おぅ…………」


 何故か変な顔をしてこちらを見ているアイリーンに、秋月は気づいてない。アイリーンがおずおずと、何か様子を伺いながら声を発した。


「あの……秋月ちゃん」


「ん。アイリーン。何かしら」


「秋月ちゃん……ここの設備……」


アイリーンが固唾を飲む。碧眼を大きくさせて、わななきながら口を開いた。


「どう考えても山名とかタマガキ側じゃ用意できないものなんすが……しかもなんか外に移転用で真新しい病棟建ててるし……ぶっちゃけいくら投じたんすか?」


 高名なお医者様とかもいらっしゃってるっすし、と、アイリーンが呟く。彼女がちらり、と見た窓の向こう側では、忙しなく大工や作業員の人たちが行き来していた。明らかに人数が多いし、突貫かつ正確な工事を求められている。


「ん? ああ。兵員や民間の助けにもなるし、どうせいつか必要になるとも思ってたから大丈夫よ」


 続けて、秋月が口をすぼめて小さな声で言う。


「それに、何よりも玄一が怪我したんだもの。また怪我しそうだし、ちょうどいい機会だわ」


「あッ……えぇ、そうっすね……」


 どうやらこの設備は、秋月の尽力によって設置されたようだ。具体的に何をしたのかは分からないが、彼女はお金持ちらしいし、おそらく必要な人脈を辿るとか、そんな程度のものだろう。


 しかし、秋月の行動には感謝してもしきれない。この病棟は怪我を負い帰投した兵員たちの治療だけでなく、分院として、下町の方に診療所も建設するそうだ。こういった投資は、兵員に対する福祉だけでなく、魅力的な町づくりに繋がる。西への移住者が増えれば、もっと活気が出来て、それが回り回って魔物を滅ぼす力となるだろう。


 なんかよく聞こえないが、アイリーンが囁くような声で、えげつない貢ぎ方してる……普通病院建てる? とか言ってる。なんで語尾がまた消えてるの。


 貢ぐというのはよく分からないが、素人目にも、この病院がヒノモトでかなり高水準な施設になっていることが分かる。そんなの、政府主導でもないと作れないし、どう考えても個人でなんて無理に決まってるだろう。しかし秋月は、やっぱりすごいな。本当に尊敬するし━━


 本当に、感謝してもしきれない。重傷を負った自分を、目覚めるまで看病してくれて、その後は励ましてくれて、不安を解消してくれた。前も、今も、いつもそうだ。本当に、感謝している。俺がタマガキに来てから、一番世話になったのは、彼女かもしれない。


 故に、もし彼女に何かがあったら。


 彼女が為に。


 絶対に、俺は助けなければならない。戦わなければならない。


 そう、心に誓った。








 しばらくの時が経つ。細くなっていた筋肉はだんだんと膨らんできて、激しい運動や戦闘は無理だろうが、いつもの感じが少しずつ戻ってきていた。俺は今タマガキの演習場を、秋月と二人で、練り歩いている。


「じゃ、玄一。ちょっとだけ霊力を込めてみて」


「ああ。分かった」


 手を軽く握って、霊力で体を満たす。こうして霊力の操作を行うのは、本当に久しぶりだ。こうして前の俺に、否、更に最強に近い俺になるために、鍛錬を行う。


「……玄一?」


 俺の体を満たす霊力の流れを見た彼女が、怪訝そうな顔をする。外から見てもわかるのだろう。彼女がそんな表情をしたのを、霊力を流し込んだ瞬間に理解した。


「なんだ……?」


「霊力の流れが、なんかおかしい」


 淀み、塞き止められたようなそれ。言うなれば、川流れの中に大きな岩があって、その隙間からしか水が行かないような感覚。それは、俺の体が異常をきたしていることを示していた。


 どくんと、心臓が跳ねたような気がした。



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