第百五話 玉垣の防人(1)
雲ひとつない晴天。緩い風が吹く。
朝鍛夕練の刀身が、魔物特有の青黒い、薄汚い血に塗れる。今この戦いの中で、一体何体の魔物を屠ったのかは、途中から数えていなかった。
俺の横を走る御月は展開する特務隊の動きを把握しながら、月華の刀身をゆらゆらと動かし、霊力で霊信号の短点と長点のリズムを刻み発露させて、指示を飛ばしていた。
霊信号。タマガキにあった霊信室は各地へ媒介する地中に埋められた鉄線と繋がっているが、ここは戦場。信号を送受信し音感での把握を可能とする機器や、安定した通信路はない。
その代わりに今彼女は、散開する特務隊全員が確認できるほどの霊力を、符号に合わせ強弱をつけながら大気に放出していた。発信地のすぐそこにいるからか、まるで揺れを感じたかのように、霊力を絞り出す五臓六腑が震える。
霊力の伝播、感じる微細な振動を利用し、『ホウコクセヨ』━━それを意味する符号を御月が放った。それに対し、全方向から特務隊隊員の霊力が飛んでくる。
イジョウナシイジョウナシイジョウナシ━━。同時にありとあらゆる角度から意味を持つ霊力の符号文がやって来るため、その全てをどこから来たのか把握し、識別するのは至難の技だ。今特務隊隊員から返信されたものの中に、一つだけ別の報告をしている符号文もあったように思えるが、それを掴み損ねてしまった。
今という時ほど、座学をやっていなかったことを後悔したことはない。これは学ぶのに期間を要する、習熟する必要があるものだ。経験の乏しい俺は、教科書通りの安定した霊信号を送ってくれる特務隊のものでさえ逃してしまっている。
師匠、これはめちゃめちゃ大事だと思うんだけど、なんで教えようと思わなかったのかな......
いや結局は、勉強しようとしなかった自分が悪いのだけれど。
防人というのは、軍において替えの効かない超重要戦力である。魔獣と相対できる個人の戦闘力もさることながら、生存力の高い指揮官としての側面が強いのだ。防人の強い霊力とその感覚は、隊全体に対する指示の通知と、報告の受信を可能としている。まあ、何が言いたいのかと言うと、霊信号を巧みに扱えない俺は、防人として欠落しているのだ。
こうして考えてみれば、タマガキで魔獣を迎え撃った時もそうだし、血盟の時も、そして今でさえも、直接的な戦闘でしか貢献できない俺が自由に戦えるよう、みんなが手助けしてくれている。
前方。残存する魔物の首を切り飛ばした御月が、一度停止する。そして再び月色の霊力を、大気に向けて放った。
彼女は刀を振るい戦いながらも、俺の出来ない指揮を簡単にやってみせている。
彼女は個人の戦闘力だけでなく、間違えなく指揮官としての防人の技量も兼ね備えていた。それも、卓越していると言えるレベルで。もし仮に俺が彼女のように霊信号を完璧に取り扱えたとしても、これほどの規模の隊を指揮し戦況を有利に動かせる気がしない。
特務隊隊員からの敵の存在を知らせる霊信号を受けて、進行方向を変えた彼女が速度を上げた。
「魔物の大混成群体が展開してきているらしい......規模からして、それを率いる魔獣が出てくるかもしれない。玄一。警戒を強めろ」
「了解」
そんな複雑な報告を、簡単に受け取っているのかと、感心した。
空飛ぶ鷲型の魔物。見慣れたゴブリンやオークの群れ。その全てを、焼き尽くす。
「烈火ァアア!!!!」
白兵戦、広範囲の攻撃を可能とする烈火を用いて、一気に敵を打ち破る。舞い散る火の粉が、翠色の風に乗った。
援護に訪れた特務隊隊員たちが、魔物の首を切り飛ばし、心臓を刃で突き刺す。
御月は魔獣が出てくる可能性があると言っていたが、それらしき敵の姿は確認できない。魔物の魔力と兵員の霊力で場の無力はぐちゃぐちゃになっているが、それでも魔獣の強力な魔力であれば気づけるはずだ。
乱戦。特務隊隊員のカバーをしていた御月が、突如として空を見上げた。
大空。雲ひとつない晴天だったそこに、たったひとつの積乱雲。
何かに気づいた彼女が、素早くこちらへ振り向いた。
「玄一! 避けろ!」
何かを警告する、鋭い彼女の叫び声。俺に対するその警告は、御月が実力をつけた今の俺でもまずいと思うほどの敵だということを暗に示していた。
彼女が見上げた積乱雲。その中に、ピカッと黄色い輝きが見える。
来る━━━━!!
俺の近くにいる、膝をつき刀を上段に構えていた、女性の特務隊隊員の姿が横目に入った。
彼女が避けれる速度ではない!
今俺が展開している能力は、『火輪』と『風輪』。攻撃と移動に特化したこの二つの能力では、味方を守りながらこの敵を抑えきれない!
『地輪』に切り替えた朝鍛を地に突き刺し、霊峰の風を纏わせた夕練を、鋭く天に向かって突き出す━━!
「
雷鳴。真っ直ぐにこちらへ向かってくる、青雷の軌跡。それと春疾風がぶつかって、轟く雷鳴に敗北を喫し風が霧散した。
しかし、多少勢いは削げたはず。
「揺れ動け......『地輪』!」
「
空からくる攻撃に備えた、大地の笠。近くにいた味方も覆って、それと青雷がぶつかった。
凄まじい衝撃。魔力の爆発。それが黄土色の霊力に妨げられて、威力を落とした。
半円のように湾曲型にできた天蓋にそって、青雷が地に滑り落ちていく。
大地に浸透し分裂した青雷が空を飛び、宙の一点に集まって、形作った。
狼の見た目をした、雷の魔獣。
二本の前脚。四本の後脚。それぞれの足に生えた、一本の鋭い剣のような爪。
紫電を撒き散らしながらゆらゆらと揺れ、枝分かれした膨らんだ尻尾。
足をぶら下げ宙に浮かぶそいつに、跳躍した御月が斬りかかる。刀を受ける直前で幾千もの雷電に四散したその魔獣は、別の一点で再び集中し獣の形を作った。
「幻想級魔獣上位......”雷鳴なる獣”」
はっきりと敵の姿を確認した御月が、敵を鋭く睨む。
幻想級魔獣上位。前の俺では絶対に歯が立たなかったであろう等級。今の俺なら、どこまで戦えるのか。試させてもらう。
体を包む緋色の霊力が、ぼんやりと強くなった気がした。
「玄一!?」
『地輪』から『風輪』に素早く換装し、風を纏って空を飛ぶ。
二刀を握り回転しながら、山なりの軌道を描いて、奴に斬りかかった。
奴の真芯を切り裂こうとするその一撃は、二つに分裂した奴に簡単に回避される。上方。分裂した奴が即座に形を戻して、その鋭い後脚の四本の爪を、こちらに向けた。
先ほどの動きから避けられるのはわかっていた。その四閃を打刀で全て受け流し、炎を纏わせた脇差で、奴を突き刺そうとする。
「......一度後ろに引いたか」
脇差が空を切る。宙で爆発するように分裂した奴が、後方に退いていた。雷鳴のみが響いて、奴の断末魔は聞こえない。
形のない敵を相手にするのが、どれだけ面倒なのか。突きを入れようとした時に、細い雷に触れた。それは今、俺の霊力の上を駆けるように迸り、腕の感覚を鈍らせたような気がする。幻想級上位なだけあって、やはり強い。
「なら次は......」
幻想級魔獣上位。”雷鳴なる獣”と睨み合う。その時、突如として視線を切った奴が、別の方向を見た。
真っ直ぐに飛翔する深藍と白色の羽が、奴を突き刺す━━!
大きな大きな、叫び声のような雷鳴がなる。攻撃を受けた地点を中心に爆発した雷が、また引いて獣の形を作った。
両翼をはためかせる防人が、前に出る。
「御月。全員でやるぞ」
白と藍色の二色の翼。それを肩甲骨の辺りから生やし、深藍色の霊力を持つタマガキの防人。
ノウル。
彼の姿を確認した魔獣が、尻尾から彼に向けて雷を迸らせようと、宙で一回転し構えをとった。しかし再び、奴にとっての邪魔が入る。
今度は曲がりくねる深紅の霊弾が、奴を囲んだ。それを避けようと”雷鳴なる獣”が空を駆け巡り、霊弾がそれに並走する。
しびれを切らした奴が雷を放ち、深紅の霊弾を破壊した。
その霊弾の持ち主と、裏柳色の髪の毛を持つ、鉄でできた謎の機械と大きな筒を身につけた女性が、ノウルと同じように前に出る。
「ん、やるわよ。準備はいい? リューリン」
「ふふ、久々だね」
秋月と、俺が戦う姿を見たことのない、リン。
特務隊の面々は、気づけば魔獣を取り囲むように展開している。正面で睨み合う御月が、右手で月華を振るって、左手で帽子の鍔を掴んだ。
「よし。御月。五人で一気に━━」
「ん、玄一。貴方は下がってなさい」
後ろからトコトコやってきた秋月が、少し背伸びをしながら、俺の右肩を掴む。
「秋月? どうしてだ」
「ん、とんでもない大物が釣れたし、本当だったら戦ってもらうんだけど......ちょっと何が起きるか分からないし怖いわ。ここは、年上の私たちに任せなさい」
いつも通りに両手を腰につけて胸を張る彼女に、反論する。
「でも、秋月。相手は幻想級上位だぞ。手を抜ける相手じゃない」
それに、俺は出来ることなら魔獣を相手にして、今の自分の実力を測ってみたい。血盟と戦い、過去と向き合って、鍛えた己の腕を、奴を血祭りに上げるのと同時に、試してみたいのだ。
戦いたい。絶対に殺す。
バサバサと翼を強く叩いたノウルが、俺を見ながら言い放つ。
「阿呆。タマガキの防人を舐めるな。私たちは西の最精鋭だぞ。お前がいなくても、十二分に勝機はある」
「ん、そういうこと。これは自惚れでもなんでもなく、事実よ。玄一。そういえば貴方は私たちの戦いを見たことがないでしょう。見学してなさい!」
秋月が俺の方へ近づいてきて、両手を組みこちらの顔を覗き込む。
「ね? だからお願い。玄一。いい子にしてて待ってて?」
懇願するようなその言葉は、俺と彼女にしか分からないものを含んでいた。
......確かによく考えてみるとこの作戦は、俺に対して異常な執着を示す空想級魔獣を利用して、敵を誘い込めればと始めたものだ。結果として幻想級上位という敵の主力を引きずり出すことができ、計画通り複数の防人での交戦を行おうとしている。
その段階を経た以上、後に残るのは、不確定要素しかない自分。
目を瞑る。御月と共に戦える興奮を隠れ蓑にした、憎悪を晴らさんとする渇望。己のそれを、ただただ冷静に、心に残した。
両手に握っていた二刀を納刀し、秋月の方を見る。こちらをじっと見つめるくりくりとした瞳は、きっと俺を信じていた。
「分かった。秋月。だけど危なくなったら、すぐに俺も加勢するぞ」
彼女がパッと明るい顔見せる。彼女が背伸びをして、なでなでしようと俺の頭に触れた。相対する魔獣と御月から、なんか微妙な雰囲気が醸し出された気がする。後の二人は、あえて無視していた。
「ん! 玄一はいい子ね。でももし他に戦略級とかが突っ込んできたら任せるから、よろしく頼むわ」
そう言ってニコニコと優しい笑顔をこちらに向けていた秋月が、俺の元から離れて、奴の方を向く。彼女がすっと、防人の顔つきになった。右人差し指と中指を立てて、銃口を模した彼女の指先に、霊力が集中する。
彼女の小さな背中を見つめる。夏に似合わぬ紅葉の霊力を開花させ、彼女の二房の髪が揺れた。
不安だ。戦いでは、何が起きるかわからない。もし彼女に前みたいに何かがあったらと思うだけで、心が浮き足立って、ひどく不安になった。どうして、だろう。もし奴が彼女を狙うようなことがあれば、彼女の約束を無視してでも、奴を排除する。殺す。
会話が終わったと悟ったのか、ノウルが自身の霊力をさらに強め、周りに何片もの羽根を浮かばせた。羽先を幻想級魔獣に向けたそれは、絶対的な殺意とそれを可能とする殺傷能力を孕んでいる。
御月は口を開かぬまま、月色の霊力を高めて、一番前に出た。この中で直接的に奴の相手をするのは、やはり彼女だろう。
そして、最後の一人。先ほどまでの会話を聞いていたリューリンが、背中に吊るしていた鉄刀をだるそうに片手で掴んだ。後ろから俺の方へ近寄ってきて、耳元で囁く。
「ふふふ。玄一くん、秋月ちゃんじゃなかったら多分言うこと聞いてないでしょ」
「......うるさい」
「じゃ、私も新人にカッコつけられるよう、頑張っちゃおっかな」
うーんと彼女が細腕を伸ばした。肩を出し、袖のないその服の構造のため、彼女の華奢な腕全体が陽光に当たる。
右手を口元に持ってきたリンが、欠伸をした。こいつ、戦う直前で脱力しすぎじゃないか?
「じゃ、みんあ行くよー」
朧げな秋に輝く月。それを眺める深藍の鳥と、彼らを包む音なき音色。
幻想級上位魔獣。”雷鳴なる獣”に、四人のタマガキの防人が、対峙した。
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