第百三話 辿り着く空。月の裏側。(3)
室内遊技場を後にし、御月の案内の元進んでいく。娯楽施設の集まった区画の中でも、例の劇場というのは奥の方にあるようで、いくつかの通りを抜けた。
その場所へ向かうにつれて、人通りが多くなっていく。一人で向かうものもいれば、集団で楽しそうに話をしながら進んでいくものまで、十人十色だった。鬱陶しいぐらいこの夏は暑いのに、皆それを気にせぬほどに、楽しそうだ。
実際に、御月の姿に気づくものが少ない。他の店や道にいた時は、敬礼をする兵員も多かったのだが。
前を進む御月が、歩みを止めた。どうだと見せびらかすように、振り返ってこちらの方を見ている。
行列のできた、劇場を前にする。
真っ白な壁に、縦に長い上げ下げ窓。屋根には黒色の瓦が、敷き詰められている。陽に照らされ、艶やかにそれが輝いた。
洋風建築で出来たその建物は、今まで見た娯楽施設の中で最もきらびやかなものだった。他のものと比べて、段違いというほどである。
こんなものを俺がタマガキにいた間の短期間に、そして工兵に、建築することが可能なのだろうか。なんにせよ、かなりの尽力が必要だったに違いない。
そんな建築物の入り口の上部に掲げられた看板には、『劇団秋暮れ』と記されていた。めっちゃ夏なんだけどな。今。
大々的に飾られた立て看板を見て察するに、どうやら帝都から招聘されて慰安に訪れたものたちらしい。周りにいる皆がお祭り騒ぎのようになっているので、なんだか俺もワクワクしてきた。
「すごいな。これ」
「ああ。凄いだろう。まあこれも、
あまりにも長い行列は、遅々として進んでいく。
どうやら入場券を購入しようとしているものたちが並んでいるようで、すでに入場券を手にした兵員はそのまま劇場の中へ入っているようだ。
俺の反応を確かめた御月が、再び歩き始める。彼女が列に並ぶ気配がないので、そのまま続いた。
しかし、彼女は入場券を持っているようには見えない。このままだと、入り口で係員に止められてしまいそうな気がする。
今、入口をくぐり抜けて、係員の前を通り抜けようとした。
その時、御月の顔を見た係員がチケットを持っていないことを咎める代わりに、深々と礼をした。そして、少々お待ちくださいと口にした係員が、バックヤードの方に大きな声をかける。しばらく待っていると、紅葉柄の半纏を着た、気の良さそうなおじさんがやってきた。
「本日ご案内させて頂きます、座長の山下です」
「ああ。わざわざありがとう」
「後ろにいらっしゃるのは、お連れ様でしょうか?」
「私の連れだ。彼も防人だよ」
「これは失礼致しました。ではでは、こちらへ」
まさかの、顔パス。からの責任者。他の兵員たちが進んでいく方とは真逆の、別の方へ案内されちゃったよ……
妖艶な雰囲気を醸し出す照明が、橙色に廊下を照らす。座長を先頭に、俺と御月が続いた。
シラアシゲの時は子供だったからあまり覚えてないし、帝都にいた頃は師匠の家にしかいなかったから、他のことは分からない。その上、御月はこの西でも屈指の防人であるから、特別扱いされているのかもしれない。しかしながら。
今、特権階級としての防人の姿を、この目で見た。
廊下を進んだ後階段を登り、座長の山下さんに案内されたのは、劇場の舞台を上から見下ろすことのできる、上階の観覧席だった。
観客席が列状に並び、少し狭そうな下階とは違い、広々としていて、バラバラに席がいくつもある。飲食も可能なようで、ラウンジと、座長さんは言っていた。
ここも民間が運営する施設とはいえ、軍属の定めなのか、この場所はどうやら階級の低いものはいくら金を払おうが利用できないらしい。
俺たちの他にもちらほらと、指揮階級にある兵員が訪れているようで、御月の姿を見た彼らが、彼女の向かって挨拶をしにきていた。休暇中だから気にしないでくれ、という御月の言葉を受けて、彼らも姿勢を楽なものに崩したようだが。
「私たちはここに観劇に来たのだから、こっちの見やすい席に座ろう。それと、もしお腹が減っていたら飲み物や軽食を頼めるから、気軽にな」
御月が舞台の方を大きく囲う、二階部分の柵の近くにある椅子に座った。丸机を中心に、座面の高い二個の椅子が備え付けられている。そこに座る彼女は足が微妙に地面に着かないみたいで、ぷらぷらと、足を動かしていた。なんか可愛い。
「ん? 何かあったか?」
「い、いや、じゃあ何か、軽食を頂こうかな。ついでに飲み物を取ってくるよ。何がいい?」
「じゃあ、紅茶を。砂糖入りで」
「分かった」
カウンターの方へ行って、店員さんに飲み物と、お腹が減ったので軽食を頼みに行く。飲み物を注いで貰って、それを受け取り机の方に戻った。飲み物に氷が入っていて、よく冷えている。こんな夏に、それも最前線で用意できるなんて、ビックリだ。
「まだ始まるまで少し時間があるが……どうだ、劇を見たりするのは初めてか?」
戻ってきた俺に礼を述べた彼女が、俺に声をかける。その後、コップを手にして、こくこくと紅茶を飲んだ。
「ああ、一度もないかな。どういう感じなのか、すごくワクワクする」
聞いておいて私も初めてなんだけど、と口にしながら、御月が手を絡ませる。
「演目は、始まりの防人の伝承らしい。こういうところは、軍らしいな」
こちらの方を向いていた彼女が、舞台の方を見下ろす。ざわざわと騒いでいた下階の方も、劇の始まりを知らせる音を受けて、消えゆく細波のように、静かになっていった。
魔物の登場により衰退する人類と、霊力の登場により全てが変わったヒノモトの動乱期。後世の歴史では、大変革と呼ばれたこの時代。揺れ動く時代と迫る魔獣の荒波に揉まれ、百年以上前、当時の出来事が記録されることは、稀だった。
断片的にのみ存在する、最初に特霊技能を獲得したとされる始まりの防人の伝承。その中で最も有名で、それに纏わる出来事は、今なお深い爪痕をこのヒノモトに残している。
それは、海外より亡命しヒノモトに訪れた者たちの叛乱。少数の過激派が企てた、帝暗殺の計画。計画を実行に移す直前に軍の手によって鎮圧されたものの、当時既に魔物との戦いで破棄されていた銃を使った彼らの手によって、多くの死者が出た。
劇は今、クライマックスを迎えようとしていた。下階の方にはすすり泣くものもおり、兵員同士の交流を重視していた上階の者たちでさえ、舞台から目が離せない。外からのルーツを多く持つ西部の人間にとって、他人事には思えないのだろう。
揺れ落ちる桜の花びらに、横縞の幕。その中央で膝を着き、両拳を地につける男が、大きく声を上げる。
「彼らをどうか、赦しては頂けませぬか。実際に関わったものが罰される謂れはあろうとも、罪なきものが政府の煽動により強く弾圧されるのは、見るに耐えませぬ」
「この昏き時代を乗り越えるには、彼らの力が必要なのです」
すると今度は、黙って話を聞いていた、一人の男が立ち上がった。
「貴君は帝の御為尽力し、迫り来る魔を討ち滅ぼす義勇の士ではないのか。それが
地に両拳を着けたまま、揺るぎない覚悟をもって、彼が応える。
「私は防人です。それは、民が為命を賭し駆け抜ける」
「故に」
「無辜の民を救わんとするは、我らが役目」
机を強く叩く音が劇場に響く。間接的にあることを否定したその宣言は、許されざれるもの。
「貴様ァ……!」
「もうよい」
続いて声を上げたのは、若い、黒の軍服に大量の勲章を着けた、背の低い男だった。
「侍従武官長!?」
驚きの声を無視して、コツコツと、舞台の上を歩いていく。観客からの視線を一身に浴びたその男が、体を屈ませて、始まりの防人の前へ。
「陛下を御守りするのは、我らの役目よ。故に彼奴等を撃滅した」
「おい。前線で魔獣をも滅ぼせるという、防人とやら。奏上に訪れた貴君は、サキモリとは、何なのかね?」
俺の右拳に、無意識のうちに力が入った。これは言ってしまえば、ただの演劇だ。だけど、どうしてここまで心惹かれるのだろう━━
「人を救わんと足掻く、弱き、智勇の士であります」
「……」
沈黙が、辺りを支配する。舞台の終わりを意味するであろう、侍従武官長の一言が放たれる前に。
その静寂は、全く予想していなかった隣に座る彼女によって打ち破られた。
「なあ、玄一。この話の続きを、知っているか」
舞台の方から意識を逸らす。普段は高めの女性らしい声色をしているのに、今の一言は随分と暗いような気がした。折角いいところなのに、という思いで御月の方を見ると━━
彼女はどこか、別の何かを見ているような顔をしていた。その落ち込む、自らを責めるような横顔を見て、どう声をかけたらいいか分からない。舞台を見ている、場合じゃないかもしれない。
「……確か、この後始まりの防人とこの侍従武官長が協力して、特霊技能養成機関を設立するんだろう。それが、ルーツだって聞いた」
「そうだ。だから防人という存在には、彼ら二人の思想が色濃く残っている。高潔であれ。誠実であれ。人を救わんと最後まで足掻く、忠義の士であれと」
彼女がコップを手にして、残り少なくなった紅茶を飲む。その後、溶けて消えゆく氷を眺めていた。
「玄一。君は、復讐をしたいんだろう。仇のために魔物を殺して回って……故郷に帰りたいんだって」
「……ああ。そうだ」
「聞きたいんだ。君は、苦しんだことはないか。理想と、自らが抱く現実に」
彼女の言葉を聞いて、考え込む。
俺は、最強になりたい。
伊織との約束。剣聖の後ろ姿。始まりの防人が唱えた、高潔なる信念。
そしてそれに似合わぬ、胸に渦巻く怨念。
理想と現実。俺はここ最近、皆に話して考え込んで、また意見を貰って、ずっとそれを行き来していた。
「いや……聞き方を間違えたかもしれない。君は、迫り来る現実を見て……理想を疑ってしまったことはあるか」
彼女のその言葉に、すぐに答えることは出来なかった。俺の理想は確かに、あの夜夜中振り返ったよう、復讐で汚れでしまったように見えるかもしれない。けれど。
「いいや、無い」
俺が貰ったこの理想は、決して疑われるようなものじゃない。彼らの奇跡は否定されないし、形を変えようとも、俺の胸に残り続けている。それだけは、確かだ。
「……」
「ねえ。私は、気になるんだ。どうして君が、そうもやっていけるのかを」
「筆舌に尽くし難い、地獄だったはずだ。どうして、その理想を信じられる」
彼女が、大きく息を吸った。
「……私は、知りたいんだ。何故なのか」
意を決したように、こちらを見る。凛々しいその顔つきは、今までで最も美しい。
「君の過去を、聞かせてくれないか。玄一」
「……悪い。御月。それは、話せない。山名からそう、命令を受けているんだ」
「そうか……すまないな。唐突に」
「いや。ただ、俺が話したくなくてそう言っているわけじゃないとは、分かってほしい」
「ああ」
出来ることなら、彼女に話したい。しかし、あの日秋月に伝えられたことを思い出して、ぐっと我慢する。俺だって、軍人だ。
「すまないな、忘れてくれ。折角の楽しい席なのに、申し訳ないことをした。すまない」
彼女が俯きがちに呟いた。自信に満ち溢れた、いつもの彼女には見えない。この場で、彼女に話すことはできない。裁可を仰がなければならない。しかしながら絶対に俺は、何かを違えている━━
(御月は……確かに強いわ。けれど、彼女は本当に、可哀想な子)
(玄一は変じゃない)
白亜の理想。捨て鉢の現実。
自分の理想は何なのか、もうぐちゃぐちゃだった。
最強を目指さなければならない自分。復讐を果たさなければならない自分。それに伴う、自身の実力不足。穢れた憎悪。代わりに彼が生きていれば、果たしていただろうという劣等感。
過去の輝きを偲び、停滞する感情。心の中で一線を引こうとした、受け身の孤独。何をしようがどのような地獄であろうが、楽しくて仕方なかったあの感覚は、失われて久しい。
そんな自分に無理矢理にでも向き合って、見てくれて、それをぶち壊して、己には肯定してくれる人がいた。
理想と現実の狭間に生きる、中途半端な自分が良いんだって、言ってくれる人がいた。
生唾を飲み込む。彼女には?
俺が彼女の過去を知らないように、俺も彼女の過去を知らない。されど。
「御月。実を言うと俺は……理想と現実に差があって、それに、無意識の内に苦しんでいた。自分にはまだ足りない、自分はもっとやらなくちゃって」
「けれどさ。そこまではっきりと、白黒つける必要はないと思うんだ。俺たちはどこまでも求めてしまうからそう納得するのはすごく難しいけど……いいと思うんだ。中途半端でも」
彼女の瞳を見据える。これが俺の、彼女に救われた俺の、今出せる結論だった。
「……玄一」
「私はそうは、思えないな」
静かに返されたその言葉には、決して否定できぬ怨嗟の情が籠もっていた。
彼女が空になったコップにできた、結露を撫でる。無表情だった彼女の顔に、唐突に動きができた。
「すまないな。急に変な話をして。まったく……」
彼女が見据える下方、舞台の方ではすでに劇が終わり、演者が観客へ挨拶をしている。大盛り上がりの下階は、拍手喝采だった。
「そうだ。授業じゃないが……役に立つ話をしよう」
懐から先ほど購入した花札を取り出した彼女が、それを開封して、五枚の札を取り出した。
「始まりの防人のあの問答が、正式に防人が誕生した時とされている」
「この問答。そして始まりの防人が花札を好んだという逸話から、実際に問答の場に使用されていた桜に横縞の幕を初めとして、花札の光札が防人に送られる勲章のモチーフとなっているんだ」
御月がせっせと、五枚の札を机に並べる。
「防人瑞雲勲章。通称、五光勲章」
机に並べられた五枚の、花札において最も点数の高い、光札。
松に鶴。
桜に幕。
芒に月。
柳に蛙。
桐に鳳凰。
「防人の認定時に貰える桜に幕を除けば、授与の条件はどれも非常に厳しい。故に防人にとって、これらは名誉溢れるものだ」
「それこそこの勲章を持っている数で、待遇が大きく変わったりもする。まあ西では、勲章など気にしない人間の方が多いが」
唐突に話を変えた御月に困惑しながらも、抱いた疑問を何となく呟いた。
「……そんなものがあるなんて、全く知らなかった。そんな勲章、貰ったこともない」
「え」
御月が戸惑う。曰く、防人瑞雲勲章、桜に幕は、防人であれば皆が持っているものらしい。何でも、特霊技能養成機関での卒業式および任官式の際に、授与されるのは有名なことだとか。
「そういえば……卒業式とか出たことないな。師匠にそのままタマガキへ送り出されたし。後からでも、貰えるものなのか?」
「多分、山名が代理で授与したりすることもできると思うが……帝都から取り寄せないといけないかもしれない」
「じゃあ、いいや。いつか貰える時に貰えればいい」
御月が、クスクスと笑う。
「なんだか、君らしいな。帝都のものであれば、血眼になって欲するだろうに」
「あ、ああ……」
先ほどまで彼女の様子はおかしかったというのに、今彼女は俺の知っている、普段通りの彼女と全く同じだった。博識で、生真面目な彼女。いつものように俺の知らないことを教えてくれる。
「よし、劇も終わったし、後案内するような施設はないかな。昼食も軽く食べたし、そろそろお開きにするか」
「明日は早いぞ。玄一。準備をしっかりな」
そう言った御月が腕を伸ばした後立ち上がって、こちらに背を向けた。声を掛けようと手を伸ばして、躊躇い、それを下す。
西部最強と名を轟かせた、大太刀姫。
十八という齢にして到達した彼女に皆が敬意を表し、智勇兼備と称賛した。それとは真逆な、秋月の言う可哀想な子という言葉。そして、その理由を知らない自分がいることが救いになるという意味。
俺はシラアシゲを抱えている。
同じように魔獣の侵攻を受けた、このタマガキにいた彼女たちは。
一体、何を抱えているのだろう━━?
「じゃあ、行こう」
「……ああ。御月」
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