第九十四話 駆け出す空
深い、藍色の空。日の出を迎えんとするも未だ雲は見えず、陽を隠す地平線の輪郭だけがはっきりとしてきている。
昨夜のうちにカゼフキ砦へ向かう準備を済ませた俺と秋月は、日の出前に出立すると約束をした。待ち合わせの場所へ向かおうと本部より石段を降りて、俺が初陣の時御月と通った、タマガキの外へ出る門に到着する。
先の戦いの後、徹底的に残存する魔物の掃討が行われたため、道中はかなり安全なそうだ。故に、敵の存在を警戒しゆっくりと進む必要もなく、今日中にはカゼフキの方へ到着することが出来るだろう。防人の移動速度が前提となっている話だが。
血浣熊の装備は破棄したため、今俺は黒を基調としたタマガキの装備を身に纏っている。朝鍛夕練の二刀を腰に差し、
兄さんに貰った黒い鉢金は、出る直前に着けようと思って、今右手に持っている。彼の霊技能で作られたそれは見た目からは想像できぬほどに軽いのに、頼りにできる重さが、何故かあった。
日の出が近い。地平線から迫る橙色の輝きが、濃紺の空を染めていく。天に据わるまだその輝きを失っていない月を見て、微笑した。それと、後方。石段の方から、誰かが降りてくる音がする。
「ふぁ......玄一。ごめん遅れちゃったわ。楽しみで昨日あまり眠れなかったのよ」
振り返った先にいるのは、右手であくびを抑えようとする紅葉の防人の姿。眠そうに目を擦る彼女は普段見慣れた、黒に金の意匠が入った装備を身に纏っている。秋月の装備も俺のものと同じように使い物にならなくなったはずだが、彼女は予備を持っていたようだ。
黒い上着の光沢が目立つ。簡単に新品を用意しているけど、実はかなりの業物かもしれない。パッと見た感じ、霊力が上手く通りそうな気がした。
彼女の言葉に返答する。
「ん? 秋月もそうなのか? 実は俺もあまり眠れなかったんだよ」
あら、と一言漏らした彼女がくすくすと笑った。
「ん、お揃いね」
彼女が、門の方へ俺を追い越し進んでいく。両手を腰元で交差させた彼女は、動かぬ俺を怪訝に思ったのか、振り返ってこちらを見ている。
彼女が首を傾げ、玄一? と口にした。視界に映るこちらの様子を伺う秋月の姿は、この濃紺の空によく似合っている。
あの初陣の日、御月とともに門をくぐって全てが動き出したみたいに。
秋月とともにタマガキを出れば、また何かが始まりそうな気がした。
「征こう。カゼフキへ」
右手に持っていた鉢金を頭に着けて、固定しようと強く縛った。
タマガキの平原を秋月と駆ける。背嚢を背負う俺とは違い、秋月は戦闘用の装備を身に纏っているだけで、手ぶらだった。予備の装備や生活用品を持たないままで大丈夫なのかと心配したが、曰く、昨夜の時点で搬入の手配をしたため問題ないらしい。
回し続ける脚。混じり合う緋色と紅の霊力が大気に消えた。
「このままの速度なら夕方前には着きそうね。これ以上速度を上げるのは万が一何か合った時危険だし、やめといた方がいいかしら」
後方を走る秋月がこちらに話しかける。彼女はつい先日才能がどうのと語っていたけど、息も切らさずに駿馬以上の速度を出してしまうのだから、やはり防人というのは化け物じみている。
「いや、秋月。もっと速く移動する方法がある」
「え? 何それ。気になるわ!」
速度を少し上げ俺に並走した秋月が目を輝かせ、こちらに顔を合わせる。ふふふ。間違いなく彼女は喜ぶだろうし、絶対良いリアクションを見せてくれるだろう。
「どうしようかな。でもこのまま走った方が良いような気もする」
「ん! ここまで言っといて隠すのはないわよ玄一! 教えて!」
右脚を大きく前に出して、地を削りながら減速していく。俺が急停止したのを見て、彼女もまた両足を止め減速した。
こっそりと右手首に『風輪』を発現させた。地を駆けるのに使っていた緋色の霊力を打ち消して、翠色の霊力が体を纏う。
「空を飛ぼう」
「んわぁ......!」
子供っぽく口と目を大きく開けた秋月が、聞いたことのない歓喜の声を漏らした。
日はすでに昇り、本日は晴天なり。移りゆく景色。視界から消えゆく入道雲。鉢金を固定する黒帯の余りが、風に強く揺れる。
「あははは! 玄一! 見て! こんなにも雲が近いわ! タマガキの山登ったってここまで近寄れないわよ!」
俺の腕の中にいる秋月が右手で大きな雲を指差しながら、左手を忙しなくパタパタと動かしている。暴れられるとちょっと姿勢を崩しそうで怖い。
「ほっっんとうにすごいわ! こんな経験、したくてもできるもんじゃないもの! 大丈夫? 私を腕に抱えたままで疲れない?」
喜んだり心配したり、ちょっと忙しそう。
「平気だよ。秋月、子供みたいに軽いし」
「あはは! 今日はその発言許してあげるもんねー! あははははは!」
なんだか秋月が、壊れてしまったぐらいに興奮している。空から大地を見下ろす彼女が、今度は大きな木が小さく見えるだの、体を包む翠色の霊力が綺麗だとか、事細やかに報告をしてくる。彼女には世話になりっぱなしだし、少しでも喜んだりしてくれたら良いなと思って提案したけど、楽しそうで良かった。
最初は彼女を背負っていこうかと考えていたのだけど、背嚢があったし、秋月がハイ持ち上げてと言わんばかりに何故か俺の前に来たので、抱える形でここまで飛んだ。防人の筋力をもってすれば人一人など問題ないし。
「あ、玄一! 前! 下!」
彼女が腕をまっすぐ伸ばして、前方の方を指差す。
「ちょ、秋月! 前に身を乗り出すな! 落ちるって危ない!」
「ん、ちょ、おちあばばばば」
ぐらりと落ちそうになった彼女を、かろうじてのところで受け止めて事なきを得る。出撃をした防人が着任前に空から落ちて落下死とか笑えない。
「だって見て! ほら! 鳥の群れよ! 追いつくのよ!」
言葉足らずになっているが、前方、下方にいる鳥の群れにどうやら近づきたいらしい。彼女の要求通り、翠色の霊力を強めて急加速、急降下をする。
ぶつかってしまわないように気を着けて、群れの後ろに滞空する。
編隊を組み空を飛ぶ鳥に、速度を上げ並走飛行をした。空飛ぶ鳥の姿をまじまじと見つめる。黒い首に、茶色っぽい翼。雁だろうか。
「わぁあああ! こんにちは鳥さん! あははははは!」
秋月の声にビビったのかは分からないけど、鳥の編隊が崩れて、俺たちを中心に三百六十度、全方向を取り囲むような形になる。翼を忙しなく動かす彼らに紛れ、空を飛んだ。強く翼を叩く音が聞こえる。
先ほどまで大騒ぎしていた秋月が、その光景に感動して黙り込んだ。秋月が大騒ぎをしていたので自分は冷静に振舞っていたけど、今まで自分も体験したことのないこの状況に、胸がいっぱいになるような気持ちになる。
彼らが進路を変えるまで、共に空を駆け続けた。
雁の群れと別れてから、かなりの時間が経っている。
しばらくして落ち着いたのか、秋月は静かに流れ行く景色を眺めていた。
しかし一度静かになった秋月が今度は、ニコニコとしながら俺の腕の上でるんるんと楽しそうに頭を揺らしている。その揺れが直接腕に伝わって、少しくすぐったい。
「玄一。本当にありがとう。楽しいわ。これ。また今度連れてってちょうだい」
「勿論」
興奮し終えたのか、彼女がリラックスして全体重を腕に掛ける。両腕を交差させ肩を摩った彼女が、こぼすように口にした。
「ちょっと風も強いしさぶくなってきたわね。そろそろ降りようかしら」
「寒いなら秋月、ちょっと難しいかもしれないが背嚢を開けたすぐそこに、防寒具が入ってるぞ」
「あら、頂こうかしら」
落とさないように気を付けて、とだけ伝える。それに頷きを返した彼女が、身を乗り出して背嚢の方に手を伸ばした。
彼女の身長が小さいせいで、手があまり届いてない。それに苛立った彼女が俺の右肩に密着して、大きく手を伸ばす。感じてはいけない柔らかな感触がしたが、雲の数を数えて無視した。
彼女がやっとそれを手にして、背嚢を閉める。危ない危ない。良かった。
「あら。これ、私があげたやつじゃない」
彼女が手にしているのは、リンドウの花の刺繍が入った、藍色の襟巻き。これは、彼女が俺の見舞いに訪れた時に持ってきてくれたものだ。
「ああ。首元にぐるぐるーって巻けば、多分暖かいぞ」
彼女が首をこてんと傾げて、こちらを見る。
「ん、夏って言ったのは玄一なのに、なんで今持ってきてるの?」
「......いや、持ってきた方がいいかなって思って」
「あなたほんといい子ね。よしよし」
襟巻きを自分の首に巻きつける秋月が、それを終えた。俺の腕の中とはいえ、彼女の方にも向かい風が強く吹いている。
余った襟巻きが風に煽られて、俺の顔にバタバタと当たる。ちょ、普通に痛い。
「ごめん玄一。じゃあ、玄一の首にも巻きつけとくわ。それと、多分そろそろカゼフキ砦よ。地形上から見た感じ」
「よし。じゃあ、高度を下げるぞ」
下方、見えるのは、カゼフキ砦。防備を固め、部隊が行き来し、俺がいた時とは比べ物にならないほどに拠点として完成されている。
「よし。じゃあ砦の近くで降りて入ろうか」
「いや、面倒臭いしこのまま着地していいんじゃないかしら。たぶん」
確かに、ずっと空を飛んでいたのに今からわざわざ歩くのも締まらない気がしなくもない。降りよう。
九十度。真っ逆さまに落ちるぐらいに、急降下をする。正午。太陽から落ちてきているようにすら見える俺たちを見て、兵士たちが騒いでいるようだ。一際大きい陣幕の中から、数名の防人が飛び出して、こちらの着地地点へ向かってきている
翠色の霊力を体から強く放出し、減速。勢いを殺しふわりと着地するように、人だかりの中心に降り立った。
「よし。カゼフキに着いたな。秋月」
「ええ。本当に早かったわね。楽しかったし、良かったわ」
着地して、辺りを見回す。空から突然降り立ってきた人間を見て、兵員たちは唖然としているようだ。いやそれよりも、何故か俺と秋月の間にあるものを凝視している彼らは、別の何かに驚愕しているようにも見えた。
「あ、秋月。襟巻き外してないぞ」
「あら本当ね。外しましょう」
わっせ、わっせ、と秋月が、首に巻いた襟巻きを外していく。何故か強い視線を感じたので、そちらの方を見てみると、俺と同じタイプの黒い装備を見た、若い防人の姿があった。
久々に見る彼女は変わらず、夜空にある月のように美しい。けれど、彼女の表情は何か見たことのないものを見たような顔をしている。
「ん、御月じゃない。久しぶりね」
「御月。元気してたか?」
秋月共々、声をかける。しかしまだ彼女はフリーズしたままで、返事を返さない。隣から来た全身に鉄でできた管のようなものを付けた女性が、御月を小突いた。そこで、初めて御月が目覚める。
「えっと......どういう状況だ?」
久々に聞いた彼女の声は、当惑に満ちていた。
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