第九十話 初夏。秋の調べ。(2)

 


 初夏。微風が頬を撫でて、滝水で濡れた体に寒気を感じた。通り抜けた風が草木を揺らして、心地よい音を鳴らす。


 秋月と一緒に岩を椅子代わりにして座った俺は、彼女が語り始めるのを、静かに待っていた。


 彼女は俺に対する誠意として、俺に過去を語るといった。それが何を意味するのかは、明白。


 彼女もまた、西の防人。西の兵員は皆、大侵攻以降、心に傷を負っている。あの日、揺れぬ水面のような表情をして語った山名の言葉を、思い出した。


 隣に座っている秋月が、大きく息を吸う。そうして深呼吸をした後、何もない、遠くを見て口を開いた。


「私はね......生まれたお家が、自分で言うのもなんだけど、裕福なところだったの。末っ子だった私は......まあ言っちゃえば、甘やかされて育ったわ」


 自嘲するように笑みを浮かべながら、秋月がそう言った。そのまま、続ける。


「大好きなお兄様にお姉様、お母様がいて......私もお兄様たちみたいになりたいって、そう思うのに、さほど時間はかからなかった」


「でもある日ね、気付いちゃったの」


 彼女がもう一つ、遠くの方を見る。彼女の表情は、こちらから見えない。


「私には、才能がないって」


 彼女が腕を、膝の上に乗せる。握られた小さな拳には、力が籠もっていた。


「私は......お兄様やお姉様みたいにはなれないって気付いたの。戦う技術を磨こうとすれば、お兄様との差が浮き彫りになって......勉学に励もうとすれば、お姉さまにかなわなかった」


 彼女からは、自分の無力さを恐れているような、そんな感じがした。しかし、彼女の言うことは間違っている。


「でも......秋月はタマガキの防人じゃないか。前の戦いでも......多くの人が救われたし、何より俺が救われた。秋月はすごいよ」


 俺の言葉を聞いて彼女はニコッと笑った。けれど彼女は、俺の言葉を真に受け取ってはいない。


「もう。私のことも私のお兄様のことも知ってるでしょ。それでそんなこと、言えるわけないじゃない」


 彼女が小さな声で、そう呟いた。その言葉は返答を求めておらず、彼女はそのまま話を続けてしまう。俺は彼女のお兄様とやらのことを、全く知らないのに。それを、言い損ねてしまった。しかし仮に俺がそのお兄様のことを知っていたとしても、俺は同じことを言うだろう。絶対に。


「それでね、才能もなく足掻いた私は最後......防人になるって言って、半ば家族と喧嘩別れする形で家を出たの。その後山名の部下になって、戦いを重ねた......お兄様に勝てない私じゃなくて、防人の一人として尊重されるのは嬉しかったし楽しかったわ」


 色々なことを学んだわ、と彼女は言う。世間知らずだった彼女を、特務隊の面々は暖かく迎えてくれたらしい。


「それで......特務隊の防人として生活していた時に、あれが起きたの」


 空白。彼らの記憶が、蘇る。


「......西部魔獣大侵攻」


「うん。あの地獄で私たちは......山名を欠いた状態で、戦線に張り付き戦ってたわ。防人として自立したつもりだったけど......私は弱いままだった」


「生きろって言いながら、目の前で仲間が食われたわ。わた、しは、いっつも弱いの」


 彼女の声が、だんだん震えていく。その声色に思わず、彼女の肩に手をかけた。


「━━━━秋月」


 振り返った彼女の顔は、何かを堪えるようにして、険しかった。顰められた眉。一文字を結ぶ口。激情に耐えんとするその表情を見て、絞り出すように声を出した。そんな顔を、してほしくない。


「秋月は、俺を守ってくれたじゃないか」


「ううん。私は、力になれなくて、助けられてばっかりなの。実を言うとその時もね。みんなが私の代わりに、しんじゃった」



 (『秋月様をお守りしろ、白露家から受けた恩を忘れるのか』)



「なんて言って、みんなしんじゃった。私は、何もしてないのに」


 彼女が一度、両手を使って顔を拭う。それと同時に彼女が浮かべていた感情も、消えてなくなったかのように表情から失せた。先ほどまであんなにも追い詰められた表情を見せていたというのに、彼女は今心を、あまりにもうまくコントロールしている。


「少し話がずれたけど、それが私の昔話。まあ何が言いたいのかって言うとね、とにかく私は、平凡なのよ。光り輝く才能はなかった。それでいて、みんなに助けられてばかりなの」


「......俺はそうは思わないが、ああ。秋月の言いたいことはわかった」


「うん。それでね、私は玄一みたいに、剣聖のようなすごい人に助けてもらって、何か、特別な瞬間を貰ったわけじゃない。けれど、私も同じように、いろんな人に助けられた。命すらも」


 遠くを見ていた彼女が一転。こちらの方を見る。その表情は、一人苦悩する秋月という女性のものではない。俺よりも多くの経験を持つ、年上の大人としての、見透かしたようなものだった。




「だからね、貴方の気持ちが少しはわかるわ。きっと貴方は......同じように助けてくれた人に報えるようになるまで、自分を肯定できないんだって」


「玄一は、その......伊織くん。ひいては剣聖に、なろうとしている。だから貴方はいくら努力をしようとも、強くなろうとも、最強になるまで満足できない。それでいて、彼らの代わりに自分が生き残ったことを、強く、悔やんでいる」




 声が出なかった。その言葉を聞いて、世界が、頭が真っ白になった。


 言葉にしなかった。漠然として、形のないあやふやだったものを、彼女が今、形作らせる。伊織との約束という、美しいものだけを理由に目指しているわけではない。復讐に加えて俺は、自分が生きてしまう理由を、求めている。


 先ほどまで俺があちらを慮るような表情をしていたというのに、一瞬で立場が逆転した。俺の反応を見て確信に至った秋月が、真剣そうな顔つきで、多分、気付いたのは私だけよ、と囁いた。



「誰かになろうとするのはあまりにも危険だから......私個人としてはやめてほしいけど。やめられないものね」


「だから私はそれを咎めない。だけど私にはね、貴方に否定しなきゃいけないことがたっくさん! あるわ! それが言ってた、伝えたいこと!」



 彼女が右手を伸ばして、俺の頭を撫でた。その後、俺の頬を柔らかい手のひらが包む。冷えた頬に、暖かな何かが、伝っていく。



「それはね、貴方が自分のことを、変なやつだって思ってること。失った人の代わりにならなければ、愛されないと思っていること。自分のことを、弱いと思ってることよ!」


 唸り声をあげながら秋月が右手に力を込めて、頬を掴み頭を揺らし始めた。抵抗できない状態で、物申す。


「でも......最後に関しては秋月もじゃないか! 人のこと言えないぞ!」


 彼女が唐突に揺らす手を止める。ぐらぐら揺らされていた体が急に止まったせいで、座っていた岩から転げ落ちた。


「んめっ! 話してるのは私! それはそれ、これはこれよ!」


 んな理不尽な。そう思いながらも、彼女は聞く耳を持たないと判断して、口を閉じる。


「まず変なやつってとこだけどね、貴方はすっごく立派でかっこいい男の子の防人だわ! 変じゃないわよ! 確かにね、魔物との戦いで精神を悪くして、動物の鳴き声を聞いただけで錯乱しちゃうような、そういう人もいるわ。それが大多数なのもそう。だけど、それに耐えたからって、別に玄一が変ってわけじゃないのよ!」


 途中、説教されていると勘違いしたのか、体が無意識に正座していた。そんな俺の前には、人差し指を突きつけながら、怒る秋月の姿がある。自分を導こうと怒るその姿を見て、なんだかすごく、懐かしい気持ちになった。こんなことが、子供の時、母さんとの間であったような。


 ぷんぷん怒っていた彼女が、あ、と声を出して、急停止する。その時、しゅーんと落ち込んでいって、彼女が指をいじりながら、喋り出した。


「あの......一緒に夜見廻りをしていた時があったじゃない。それで玄一と、第拾壱血盟の犯行現場を発見した時が、あったじゃない」


 同じ言葉を繰り返し、躊躇いがちに彼女が口にする。


「その時......貴方にひどいことをしたわ。何か奇異なものを見るような目つきをして......ああもう。気持ちがわかる、なんて言っておいて、玄一が苦しむようなことをしていたなんて、本当にごめんなさい」


 顎に手をつけて、彼女が続けて独り言を言う。


「私みたいなことをする人がいるから玄一がそう思っちゃうんだわ。どうすればいいんだろう......」


 月明かりに照らされた、あの死体。凄惨なそれに対する、自身の反応。あの時のことを頭に浮かべながら、返事を返す。確かにあの日、あの言葉と視線に恐れを感じたのを、覚えている。


「......いや。大丈夫だよ。秋月」


 その言葉を聞き、うーと唸り声をあげた彼女が地に座る俺の方へ。一歩歩み寄った彼女が俺の両肩を掴んで、顔を目の前に持ってきた。泣き笑いを浮かべながら、こちらを見据えている。


 ぱっちりと開かれたルビーのようなお目目。慈しむようにこちらを気遣う彼女は、美しくて、なんだか可愛らしい。



「玄一は変じゃない。すっっっっごくいい子! いい子なのよ! それで、私はそんな玄一のことがすっごく大好き! でもそれは、玄一が他の人の代わりになるからじゃないわ。玄一だから、大好きなのよ!」




 俺の両肩から手を外し、腕を組んでえっへんと、自慢げに背筋を伸ばす。胸がドクンと高鳴る。初めて、借り物の要素を含めた自分じゃない、自分だけに、触れられた気がした。


「ん、わかった!?」


「......ああ。秋月」


 弛緩する心身。それを見て、大きく笑う秋月。


 初夏に踊る秋の調べ。その音色に、救われたような気がした。


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