第四章 月白の宿意

第八十九話 初夏。秋の調べ。(1)

 


 初夏。草木を揺らし緑を運んで。薫風が吹く。


 タマガキ郊外の原っぱ。過去に玄一と秋月、そして関永が模擬戦を行ったそこは環境が最適だとして、さらにタマガキから外れた場所に位置する演習場の一部として拡充されていた。山林という特殊な地形で戦うことの多い兵員たちは練度を維持するため、実戦を想定し設立した演習場を使い、そこで訓練に励んでいる。


 原っぱを抜けてある程度整備されたあぜ道を、手さげを持った一人の防人が行く。


 初夏の日差しに紅葉の髪。両脇にまとめられ二房になったそれが、歩くのに合わせて可愛らしく揺れた。軽やかな足取りでどこかに向かうその防人が、鼻歌を歌い始める。


 その声に釣られたのか、彼女を慈しむように、ふわりふわりと周りを飛ぶ黄色い蝶々が彼女の肩に止まった。それに彼女がだめよ、と声をかけて優しく別れを告げる。


 彼女の進むあぜ道の横手には、雑木林がある。そこは演習場の敷地内。汗水流し声を上げ、索敵行動の訓練を行なっていた兵員たちが彼女に気付いた。その中にいた教官らしき男が部隊置き去りにして、彼女の元へ駆け寄ろうとする。


「秋月様!」


 掛けられた声を聞いて、彼女が右手をあげた。


「ん! よくやってるかしら」


「ええ。二次作戦の発動に備え、練度を維持できています」


 彼女の眼前には彼女の登場に一度手を止めたものの、即座に訓練を続行した兵員の姿がある。彼らの動きは、最前線の要となるタマガキに相応しいものだった。


「秋月様は、一体如何なようで? 今日お越しになるという話は聞いていませんが......」


 教官が不思議そうな顔をする。


 防人が演習場に訓練のため訪れるのは本来珍しくない。しかし特殊霊技能を使用する防人の訓練は意図せず友軍に被害を与えかねないため、事前に連絡が行くのが通例である。だがこの場の責任者である彼に、その連絡は来ていないようだった。


 その疑問を氷解させるように、秋月が親指を立てあぜ道の先を示しながら、呟く。


「彼に会いに来たわ」


 その言葉に頷きを返し納得した様子の教官が、返答する。


「ああ......彼ですか。ここのところずっと入り浸ってますよ。今の時間だと、滝の方にいるはずです」


「ん、ありがとう! じゃあ、失礼するわね」


「いえいえ。またお越しください」


 雑木林に背を向け、歩き出した秋月を教官が見送る。途中、向かっている方向が目的地と違うことに気付いた彼が、秋月を追いかけた。






 川流れに添い、彼女が歩く。先程のことを思い、人差し指を顎につけた彼女が、一人呟く。


「また道間違えちゃったわ。こう、気が緩むといつも間違えるのよねぇ......」


 自省しため息をついた彼女が、打ちつけるような水の音を聞く。そこにいるものの気配に気づいて、彼女が一歩駆け出した。


「玄一いいい!! 来たわよぉおおおー!!!」








 鍛錬に火照り夏の暑さに蝕まれた体に、冷水が天から打ち付けるようにして降り注ぐ。その冷たさに心地良さを感じながらも、緋色の霊力に集中していた。後ろから掛けられた叫ぶような声を聞いて、振り向こうとする。


「うっわ、なにあれ。滝の中で燃えてる......?」


 体の周りに揺らめいていたそれを消して、彼女の方を見た。


 手を口元で広げ驚きを見せるその姿。それを急いで直した彼女が、なぜか自慢げに背筋を伸ばす。


 両腕を腰につけて胸を張っている。純真そうな彼女の双眸がこちらを見ていた。黒を基調に金の模様が入った装備を身に纏う彼女は、防人。


「秋月。こんにちは。今日はどうしたんだ?」


 その返答に彼女が喜んで、無垢に笑った。






 滝に打たれた後、水場から上がってすぐに服を着ようとした俺を見て、秋月が呆れるような顔をしていた。彼女が左手に握ったままの手さげから、手ぬぐいを俺に渡す。


「はい。タオル。上半身だけでもちゃんと拭かないと風邪引くわよ。玄一」


 水場から上がって、ズボンから水がぽたぽたと落ちる。答えを返せぬ俺を置いて、その音だけが響き渡っていた。


 俺が訓練している時彼女がここに訪れたことは一度もなかったというのに、随分と準備が良い。しかし借りるのも、なんだか申し訳ない。見るからにふかふかのタオルは、なんか高そうだった。


「ん、変なとこで遠慮しない。もう」


 断ろうという仕草を見せた俺が声を上げる前に、彼女が無理やりタオルを持って、俺の体を拭き始める。


「秋月、ごめんわかった。自分で拭くから、ありがとう」


 もう俺にタオルを渡すという選択肢は彼女の中になくなったのか、その言葉を無視して彼女が一生懸命俺の体に滴り落ちる水を拭いていく。今は夏だし、自然乾燥でもいいのだが。


 誰かに体をふきふきされるなんて、いつ以来だろう。申し訳なさと恥ずかしさが同居して、言葉にならない声が出た。恥ずかしい。しかし彼女はそんな俺の様子にも気付かず、んしょ、んしょ、と声を上げながら、ただただ拭くことに集中している。


 あらかた体を拭き終えた彼女が、ぺちっと背中を軽く叩いた。ちょっといたい。


「ん! 傷も治ってきたわね。なんか体むきむきになってない? 貴方」


「あ、ああ。退院してから、二週間くらいずっとここに通って鍛錬してたし、タマガキに来てからここまで集中して出来たのは、初めてかもしれない」


 それは良かったわ、と呟きながらタオルを綺麗に畳んだ彼女が、笑いかける。


「あの赤いもやもやもそのおかげ?」


「赤いもやもや......そうだ」 


 赤いもやもやって、もう少しかっこよく言ってくれればいいのに。秋月らしい例えの仕方に、苦笑する。


 赤いもやもやこと、緋色の霊力。俺の特霊技能から生まれる、『火輪』のもの。兄さんたちに過去を話してから、あの決死行で獅子奮迅の働きを見せてくれた火輪のことを思い返して、それの鍛錬をすることにしていた。


 受けた傷を鍛錬ができるまで癒すのに、二週間。そして再び戦いに備えようと演習場を借り訓練をして、また二週間が経った。血脈同盟の襲撃から一ヶ月近くが経ったことになる。


 それと、仇桜作戦は俺が入院している最中に正式に破棄となったそうで、その二次作戦に当たる別の作戦が発動されるようだ。その前に、単純な火力に繋がる別の手札が欲しかったから、『火輪』を使い続けている。きっとこの力は、あの日のように俺を助けてくれる。そう思ってひたすら二週間。この能力を鍛えた。


 岩の上に置いていた上着を手にして、羽織る。その側に置いていた二刀を手にかけ、腰につけた。


「玄一はいっつも頑張ってるわね。すごいわ」


 彼女が俺の勤勉さを褒めて、言葉を掛ける。それは嬉しい。だけど実は、これから来る戦いのためだけじゃない。


 あの日々を思い返してからこの能力を使ってみたら、なんだか懐かしい気持ちになれたから。あの日々が蘇ってくるようなこの体感。情けないようだが、それにずっと浸っていた。


 でも、また俺は駆けるんだ。先へ。心の内にしまいつつも、この感覚と決別せねばならない。進むために。


 腕を伸ばして、上着の裾を直した。


「それで、今日来るって話は聞いていたけど......どうしたんだ?」


 それを聞き、思い出してと言うみたいに彼女がこちらを見た。



「ん、話したいことがあるって言ったじゃない。できれば、そろそろしておきたいなって」



 なぜか震えるその声をひそめて、うつむきがちに彼女が言った。その後、口を一文字に結ぶ。


「......ああ。場所を変えた方がいいか?」


「ん、ここでいいわ。水の音もなんか風情があって良いしね」 


 一転。こちらを見上げて微笑む彼女が、岩を椅子代わりにして座った。その岩は人二人が座るには十分すぎるほどの広さを持っている。


 ぽんぽん、と彼女が横に座るよう岩を叩いた。笑みを浮かべているものの秋月は、今までに見たことないくらい━━いやあの時と同じ━━沈んだような、そんな表情かおを孕んでいる。


「あのね、一緒に玄一と過ごして、はや二ヶ月くらい? になるわけなんだけど......どうしても貴方にね、伝えたいことがいろいろあって」


 彼女が怯えるように両肘を抱える。話を続ける彼女の横に、物理的な距離はなくとも、寄り添うように座り込んだ。


「でもね、いっぱい考えてるうちに、どう言えばわかんなくなっちゃったの」


 追い込まれたような顔をしている。自分の何が一体彼女を突き動かしているのかは分からないが、俺が原因で、そんな顔をさせたくはないと、心の底から思った。


 彼女が首を動かして、こちらから視線を外す。


「玄一は、私たちに過去を話してくれた」


「でもそれで、聞くだけで終わるのはなんかフェアじゃないと私は思うの。だからね」


「私も、まず私の過去を、話そうと思うわ。聞いてくれる?」


 振り返った後、彼女の潤んだ紅い瞳がこちらを見上げた。懇願するように見るそれを、断るなんて選択肢は、俺の中に存在しない。


「ああ。秋月。わかった」


 水音に紛れて、夏風の匂いがした。




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