第四十話 春の雪(2)

 

 ありとあらゆる感情、感覚が喪失した。前方に立つ女は、寺に納められている観音像のように、その背から千にも及ぶであろう手を持っている。しかしながら金色の輝きを纏っている訳ではなく、それぞれの手が白銀の輝きを帯びていた。


 かの魔獣がその千手を揺らすたびに、煌めく雪の結晶が舞った。人の顔ほどの大きさを持つその結晶は世界の理を無視し、奴の周りを漂うように回っている。こちらに微笑みかけるようにする魔獣は、俺から目を離さない。俺の周りには奉考と特務隊がいるはずだが、この場において存在し相対しているのは俺と奴だけであるという幻覚すら感じている。



 相対するドス黒い純白に感覚が鈍る。



 もしかして、幻覚じゃない? 周りにいた味方はもう死んだのだろうか。彼らの存在を感じ取れないほど、奴を観る目を離せない。



 凄まじい殺気まりょく。皆、こんなものを受けて戦っていたのか。先ほどまで感じていなかった死への恐れが心に積もり始める。しかしながら、三年前目に焼き付けた彼らの存在が、俺の心を支えてくれていた。



 心は折れない。折れない。折れてたまるか。折れない。だけど、いかに意志が強かろうが奴との戦力差は変わらない。そもそも戦いにすらならないんじゃないだろうか━━?



 答えの出ない思案に陥りそうになったその時、世界が揺れた。いや違う。誰かの手が俺の肩を掴んでいる。


 視界の端から知っている顔が出てきた。奉考だ。


「聞け! 玄一!」


 返事が出来ない。そもそもそれを期待していなかったのだろうか、彼は続けた。


「ここで絶対に特務隊を失うわけにはいかない。もし失うようなことになれば、確実に詰む。西には単純に兵の数が少ないのだ。お前と天秤に掛けた時に、取るのは特務隊の方だ」


 随分と率直に言ったものだ。今から俺は、死にに行くのかもしれない。そう考えると、ひどく体が震えた。


「お前には時間をとにかく稼いでもらう。決して戦おうと思うな」


 奴と相対し身動きが出来なくなっていたというのに、一丁前に頭に血が上った。


 戦わずに死ねと言うのだろうか。この男は。最後の誉すら奪おうというのだろうか。体と同じように震えた声をひねり出す。


「......時間を稼ぐというのはいつまでだ? 特務隊と奉考、お前が逃げ切るまでか? そのために戦わずに......死ねと言うのか」


  俺の怒りを聞いた彼が、歯を食いしばる。焦燥とした表情で、漏らすように言った。


「そもそも本来であれば我々は死んでいる。奴の登場に気づく間も無くな。しかし、死んでいない。そこが付け入る隙だ」


「付け入る隙?」


「お前は魔獣に気を取られ気づいていなかったようだが、特務隊が既に緊急事態を知らせる霊弾を射出している。一部は既に撤退した。もうここにいるのは少数だけだ......あの魔獣は撤退する特務隊に目もくれず、お前を眺め続けている。おそらく奴の目的は我々の殲滅ではなく、お前なのだろう。理由は分からんがな」


 彼がこちらの目を見て続ける。こんなにも隙を晒しているというのに、あの魔獣には動く気配はなく、雪の結晶をくるくると回しながら呑気に遊んでいた。


「これからしてもらうことを端的に言えば、お前にとにかく時間を稼いでもらって御月を呼ぶ。彼女ならばこの状況すらも打破出来るはずだ」



「なっ......空想級と一対一で状況を打破出来る防人なんて、それこそ英雄の領域に達しているものだけだ」


「玄一。お前は真に彼女の強さを理解していない。あの郷長が、西部最強の防人であるのは御月だと断言したんだぞ。片腕を失ったとはいえ、サキモリ五英傑のさきがけが自分よりも強いと認めたのだ。彼女が強いと信じろ」


 こんな状況になって、今まで正しく理解していなかったであろう事実が輪郭を帯びてくる。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。あんなものに勝てるというのか? 彼女は。確かに彼女は強いが可憐な女性であるし、そんなこと、想像もつかない。


 しかしながら、彼女の掴みきれない不自然な実力とともに、もし彼女の強さが真にその領域に至っているのであれば、何か理由があるはずだ。そしてそれは間違いなく、防人の霊能力スキル。違和感を感じていた彼女の能力が何か、それで、確信を得たい。


「奉考。彼女の、霊武装。月華の能力は━━なんだ?」


 以前、何度か彼女の能力について皆に聞いて回ったことがあったが、はぐらかされた。おそらく、西部最高戦力である彼女の能力というのは、機密とされるべきものなのだろう。防人の戦いが魔獣相手だけだとは限らない。明らかになった途端、対策される可能性もある。しかし、今の俺ならば知る権利はあるはずだ。


「ああ。教えよう。彼女の能力は━━━━━━」







 奉考からの彼女の能力の全容を聞いた時に、今までずっと胸の内に秘めていた疑問が解消した。もしそれが本当なのならば、可能性はあるかもしれない。


「そうか。どうりで彼女はあの幻想級相手に決定打を持っていなかったのか......」


「そうだ。これならば可能性があるだろう?」


「ああ。その度合いにもよるが......否定は出来ない」


「時間を稼ぐ、と言ったが決して長い時間ではない。彼女が状況を察することができれば、全速力でこちらに向かってくるだろう。お前の役目は、それまで全力で奴から逃げることだ。生き残ることだけを考えるんだ」


 前方に立つ空想級魔獣。雪の結晶を回すのに飽きたのだろうか、その大量の手で自らの髪をひたすら梳いている。ニヤニヤと笑いながら。その裂けた口から黄ばんだ歯が見えて、不気味でしかたない。


「奴がいつまで待っているかも分からん。行けるか」


 一度冷静になり、周りを感知してみれば特務隊のほとんどは既にいなくなっている。残っているのは奉考と二名の老兵のみ。彼らで最後だ。


 彼が魔獣の方を眺めながら、語り始める。


「......お前はあの時、我々参謀と郷長の前で啖呵を切って誓いを果たし、魔獣の首を取ってきた。しかしながらまだもう一つの誓いは果たされていない」


「最強に至るというな」


 彼が魔獣から視線を外し、俺の方を見た。


「あの時とは状況も違うし、誰もお前が奴を殺せるなどとは思っていない」


「だが、もし本当に至るというのならば、相対して生き残るぐらいのことはしてもらわなくてはな」


 彼が不敵に笑う。その表情のまま、声を発した。



「その夢物語。ここで伝説の幕開けにしてみせろ」



 彼の言葉に耳を傾ける。間を置いた後、彼が再び口を開いた。



「震えは止まったか」


 彼の方を向いて、不敵に笑う。


「先程までの震えは武者震いだ。問題ない」


「ハハハ! よく言った! 防人、新免玄一。この奉考の隊長権限を以って命ずる。対象、空想級魔獣”千手雪女せんじゅゆきおんな”から大太刀姫が訪れるまで時を稼ぎ、生き残れ!」


 彼がその拳を掲げ、強く握った。



「魅せつけろ。お前の底力を」









 彼が俺の傍を離れた後、二刀を引き抜く。このような状況であろうとも、この二刀を握る感覚だけは変わらなかった。自らの肉体に霊力を循環させる。後先も考えず、今持てるだけの量を注ぎ込んだ。


 魔力で囲まれ真っ暗なように感じるこの空間に、小さな抗いの灯火を。



 前を向いた。

 覚悟を決めて、口にする。


「では、征く」


「ああ。英霊の加護があらんことを」


 彼らが後方へ駆け、俺の視界から消える。奴から目は離さない。こちらを見続ける奴に、手招きをする。


「来い。駆け落ちと行こうじゃないか」


 瞬間、霊力を発現させ、俺の背に翼が広がる。その霊力に反応して、奴の表情が一変した。


「『風輪』!」


 地面を本気で蹴り上げ、空を飛ぶ。

 奴が持つ千手が飛び立つこちらの方を向き、雪の結晶がそのまま壊れてしまいそうなスピードで回転し始めた。その紋様は既に見えず、氷の円盤にしか見えない。


「キョォキキキカカカカキキキキキキキキキキキキキキキキキキィイイイイい!!!!!!」


 奴の叫びとともに、奴の千手が急速に伸び始め、こちらを捉えようと飛んでくる。クソが。どいつもこいつも伸びやがって。


 突き進む千手と共に周辺で急速に雪が積もり始め、木々は凍り始めた。なんなら、大地を凍えさせていく速度は千手よりも早い。大気の体感温度が急激に下がり、指先が冷たくなり始めた。追いつかれるまでに御月は来るのか?


 空を飛ぶ俺を追い、奴の本体である人型の肉体も、当然のように空を飛んだ。空を歩き浮遊するようにして移動している。


 空中戦は確実に不利。その手数で負ける。


 奴が更に上空へ上がったのを見てほぼ直角で急降下をする。奴の移動を少しでも妨げるため、森へ突っ込んだ。


 御月と合流するには特務隊が逃げた方へ行くべきだが、彼らが逃げる時間を稼ぐのが目的であるというのに、彼らを巻き込んでは本末転倒だ。西へ向かうのは単純に彼女との距離が開くし、奥に他の魔獣がいる可能性が高い。ここは、南へ行く。


 木の間を縫うようにしながら方向転換をする。あれほど手の量があれば木に絡まったりするんじゃないかと期待したが、特に効果はない様だった。そんなに都合のいい話はないか。


 木々を避けながら速度を維持して飛び続ける。既に森を飛んだ経験はあるので、幸いにも苦ではない。


 気がつけば、皮肉なものだ。ついこの前、追いかけてくる敵から逃れるために森へ突っ込んで死んだ奴を知っている。そいつと、同じ道を辿るんじゃないんだろうか。草葉の陰から奴が俺の行く末を見守っているかもしれないと思って、乾いた笑いが漏れた。


 腐るな。生きててなんぼだ。


 奴の姿を横目で見据えながら、翼をはためかせる。







 後方を見やり、奴の位置を確認する。最初の急降下で一気に距離を稼いだ。しかし、余裕があるのは今だけだろう。今、奴への対策を考えれるうちに考えておくべきだ。


 まず、対策を講じる上で必要なのは状況の整理。俺は、御月が来るまで信じて逃げる必要がある。戦う必要はなく、とにかく逃げるだけ。よし、シンプルだ。


 御月が救援に訪れるまで逃げるということで、懸念事項が一つある。


 それは、奴の魔獣としての異能。御月とともに相対した幻想級魔獣、”槌転つちころび”が所持していた様な、それぞれの魔獣が持つ固有の能力だ。空想級ともなれば、それは人智を超越したものとなるだろう。


 現時点で明らかになっている奴の情報を整理する。人型の魔獣である、空想級魔獣”千手雪女せんじゅゆきおんな”。奉考が呼称したその名は、奴の特徴をよく捉えていると言えるだろう。


 奴が持つ千にも至るであろう女性の腕。それぞれが伸縮し、こちらを追跡してきている。伸びたその腕に紛れて、奴の姿は見えない。


 その千手に加えて、この春に雪を降らし、通った場所は凍土と化す干渉能力。順当に考えれば、千手ではなくこちらが奴の所有する異能だろう。奴の本体があると思われる場所には、回転し徐々に肥大化していく雪の結晶があった。


 回転の質が変わった━━来る!


 その数、四。こちら目掛けて飛んできている。あそこまで大きければ見切るのは簡単だ。馬鹿め。


 翼を閉じ、空中機動を行う。内臓が浮く感覚。それを戦いの興奮で上書きした。


 奴の結晶は明後日の方向へ飛んでいく。遠隔での攻撃は得意ではないのか?


 (奴の狙いがわからん。ここは距離を取って━━)


 その時、奴の結晶が大きく傾き、その軌道を曲げて、こちらまで飛んできた。


 (追尾だと!?)


 奴の結晶を回避しようと、再び奴が予測しづらいであろう直角的な機動を取る。しかしながら、奴の結晶は一つだけではない。


 ましてや、奴の結晶は通った道を凍らせてこちらまで来ている。追加で飛んできた三つのうち一つはこちらまで真っ直ぐに向かってきていて、他二つは、俺を追い込み凍土で囲おうと動いているのだろうか、遠回りに並走していた。


 なんだか、あの凍土に触れたらまずい気がする。とにかく避けなければ。


 それに、結晶だけに注視していたらまずい。 



 奴はどこで何を━━━━



 そのまま移動しながら、奴の方へ目を向ける。そこで見たのは、奴の手全てが砲のような形を取る姿。そしてその手には、氷柱の弾丸がある。その数は、数えきれない。


 一斉に、発射。


 思考が加速する。それと同時に、こちらまで迫ってくる氷柱が、ゆっくりに見えた。幸いにも、結晶と同じような追尾式ではない。しかしその全てがこちらの逃げ場を潰すように、あちこちへ放たれている。絶望的な量だ。



 避けろ。体を掠めるように八本ほどの氷柱が飛んで行った。再び避けようと不安定な姿勢を取ったところに雪の結晶の追撃。捌ききるための手札は殆どない。


 すまない。貴方がくれたこの刀を、折ることになる。


 打刀を、受け流すこともせず体と結晶の間に挟んだ。確実に折れるだろう。刀は剣士の命だが、躊躇っている場合ではない。



 死への断末魔。金切り声。その音に反して、刀には傷一つ付いていなかった。何故だ? しかし、考えている場合ではない。



 結晶を押し返し、一気に加速しようとしたものの、なんだか翼の動きが鈍い。よく見れば、羽先が少し凍っている。先ほど掠めた時凍らせられたのだろう。まずい。このままだとすぐに追いつかれる。


 ああ、どうにかしなければ。賭けになるが......溶けるまで燃やすしかない。確か、この翼の素材である”血浣熊”と戦った時、奴を燃やそうとしても燃えなかった。多分大丈夫だ。


「『火輪』」


 翼が炎を纏った。自らの霊力で構成された炎であるが故に、操作が可能なので誤って火傷を負ったりはしないが、背中が熱い。凍った翼を溶かそうと燃やし続けるが、溶けるのが遅い。普通、直接氷を火にぶち込んだらすぐ溶けるはずなのに。まあ、溶けてるだけましか。まだ飛べるだろう。


 後方を再び確認する。奴の結晶は見当たらない。だが、消えた訳ではないはずだ。注意しなければならない。奴自身の方に視線を移す。先ほどまでこちらから手しか見えなかったが、奴の本体が前に出てきて、姿を現しているようだった。



 奴がこちらを誘うように手招きをしている。なんだ?



 奴を睨む俺。それを見た奴の千手が蠢き始めた。もし可能ならば顔を背けたくなるほどの生理的嫌悪。何だろう。


 その手の隙間から出てきたのは、三つの歪な球体。


 奴の手の一つが、氷の串のようなものを生み出した。その串を、三つの球体に、突き刺す。


 串を伝って、真っ白な辺りに赤いアクセントが加えられた。


 ああ。三つとも、いや、。死んだんだ。


 上の一つは、新兵を叱っていた兵士。


 真ん中は、顔が潰れて誰かすらわからない。


 そして最後は、



 奉考。



 ああ。そりゃそうじゃん。だって、手伸びるんだもん。進行方向と真逆でも、追いかけられる。


 奴がニンマリと笑って、その串を、横に、そして全部......食べた。砕けちる音。それは骨か、心か。


 奴の白い口元が真っ赤に染まった。


「キクイキキキキキキキキカカかかカカカカカカカカカカかっ!!!」


「クソがぁあああああああああああぁぁあああああああああ!!!!!!」


 風に煽られ、燃え上がる烈火のごとく憤激した。奴の冒涜的行動を呼び水に、過去。今。未来への叫び怒り。そして、後悔。


 声が震える。


「俺がちんたらしていたから! 何を俺は自分の命にこだわっている......? また生き残りたいのか?」


 いや、自らを責めるのは絶対に違う。悪いのはどう考えてもこのクソ魔物どもだ。俺は、悪くない。殺す。殺す。殺す。


 暖かい涙が、頰を伝った。


 翼を燃やすために起動していた『火輪』を消して、霊力を込める。


「『太刀風ノたちかぜの......」


 彼の顔が頭に浮かぶ。それと同時に、彼の言っていたことを思い出した。決して戦うなと。理由はわからないけど、生きているのだからって。その言葉を思い出すのが、致命的なまでに遅かった。いや止める必要なんてない。俺は戦わなくちゃ。


「『おろし』ィィイイイイイッッ!!!!」


 奴の表情が一変する。奴の顔には、焦燥と絶望が。


 恐れを、抱いている。


「キキキキキギギギギギギギッッッ!!!!」


 奴の前に、大量の雪の結晶が展開された。何枚と重なって層状となり、奴を守る分厚い盾となる。層状になった盾はゆっくりと回転し、幾何学的な模様を見せて、美しさすら感じるものだった。


 雪の世界を烈風が走る。冷気を意志で切り裂いて。烈風と結晶の盾が激突した。



 簡単に弾くような音。


 嘘だ。


 風の刃が冷気に溶ける。



 渾身の力を込めた『太刀風ノ颪』は、奴の盾と衝突し、それを一枚も突破することなく、傷一つつけることなく、霧散した。



 涙をぬぐい、前を見て加速する。ちくしょう。自らができる最強の一撃を防がれたのを前にして絶望はなく、ただただ、諦観があった。


 対し奴は、何か理解できぬものを見たような、困惑した表情を見せている。


 逃げに徹しろと彼に言われていたのに、冷静さを失い、無駄に霊力を消費した。結果がこのざまだ。


 悔しい。この不甲斐なく力のない自分が、悔しかった。


 状況を飲み込んだであろう奴が、再び移動を開始する。盾に使用していた結晶が、全て攻撃に転じて、こちらへ向かって飛んできている。その数、十六。先ほどの四倍。奴の底が、見えない。


 死んでもいい。だが、彼が繋いでくれた命だ。せめて、奴の情報だけでも。


 十六の結晶。連続してこちらへ向かってくる。避けて避けて、一つ、右腰のあたりを削った。


ッッ!!!」


 バランスを崩し、落ちた。雪へ突っ込む。


 まだ、死ねない。起き上がろうとするが、動きが、鈍い。決して、起き上がる力がないとかそういう訳ではない。ただただ、鈍い。


 再び翼に霊力を込めて、飛んだ。それと同時に、右腰を止血しようと『火輪』で焼く。


「がァアああああああああ!!!」


 飛ぶスピードが遅い。何故だ。遅いとかもはやそういう次元じゃない。空を飛んでいるのに、翼をはためかせても前に進まない。ああ、また結晶だ。それも、四つ。


 飛んでくる。避けようとして、バランスを崩してまた落ちた。感覚が鈍っているのか、自分がゆっくりと地面に落ちていくように感じた。幸いにも避けきれたようで、先ほどまで俺がいた場所を結晶が通過した。その結晶が曲がりきれず、前方にある木を切り倒す。


 地に落ちていく木の落下速度が、異常に遅い。


 (まさか━━━━)


 力を振り絞り太刀風でその木の枝を切った。それがゆっくりと、地に落ちていく。空中にあるはずのそれは、水の中を沈んでいくように。


 先ほど墜落した時にゆっくりだと感じたのは、俺の感覚が鈍っていたからではない。これは、奴の異能。奴の異能は......おそらく凍土の範囲内における空間の停滞化。普段と同じように飛ぼうとしても、何もかもが遅く動くし、地に落ちる木でさえ、遅い。


 どんなに強い防人でも、思うように体が動かないならどうしようもない。それでいて、奴は遠くからネチネチと攻撃してきやがる。


 伝えなければ。逃げなければ。地を這い、奴から距離を取ろうとして、位置を確認しようとして振り向く。




 昨日の夜見た、光り輝く春月が見えた。




 その月が俺と”千手雪女”の間に立ち、追撃してきた結晶を両断する。


 もう二度と聞けないであろう、彼の遺した声が響いた。


 (知っているか。玄一。説によると、天にある月が光り輝くのは太陽の光に照らされて反射しているからだという。見える角度がどうとかあるがそれは置いておけ)


 彼女が月色の輝きを纏い始める。彼女が手にする月華は、宙を浮かび、彼女の周りを舞って大太刀というにふさわしいほどの威容へ。彼女の肩にかかる程度だった髪の毛が、腰の方まで伸びていく。


 (彼女の能力は、まさしくそれだ。相対する光が大きければ大きいほど、その輝きを増す)


 目の前にいる彼女は変化していく。まるで、月の満ち欠けを何十倍もの速度で見ているような。


 (その霊技能の名は、『朔望さくぼうの英雄』)


 (相対する敵が強ければ強いほど。味方が少なければ少ないほど。強くなる)


 彼女がこちらを見た。あまりにも神々しい。その黒目は、月色の輝きに染まっていた。


「すまない。君を待たせた」


 彼女の月華が宙を回転するのと同時に、御月を見た”千手雪女”の手が全方向に大きく広がる。氷柱と結晶があちこちに。月の霊圧と雪の白魔が衝突する。


 今ここで初めて、戦いの火蓋が切って落とされた。




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