疲れた様子の会社員
疲れた様子の会社員の隣に座った。
ヨレヨレの黒スーツを羽織り、猫背気味の背中をさらに丸めていた。だらりと垂れた右手で力なくスマホを握っている姿には「絶望」という文字が浮かんでいるように見える。
さほど珍しい光景でもない。日中は少ないが、夜の電車内には心の奥に抱えた絶望や虚無感を抑えきれず、溜息とともに吐き出している会社員を山のように発見できる。
だが隣の会社員に特別興味を惹かれたのは風貌のせいではない。スマホの画面が原因だ。
ほとんど顔を上げず、トークルームの会話に視線を一点集中させているため、横から覗き込むのは容易だった。
高木「どうした?」
安田「怖いんです」
高木「今更何を言っているんだ」
安田「電車って何キロ以上で走ってるんですか?」
高木「さあ。50キロくらいじゃないか?」
安田「きっとすごく痛い」
高木「大丈夫。痛いのなんて一瞬だよ」
安田「血もたくさん出る。車両にも、線路にも、ホームにも、最前列で待っている人も血だらけになる」
高木「そんなの君が気にすることじゃない」
安田「やっぱり辞めます!」
高木「散々死にたいと愚痴をこぼしていたのは君だろ?」
安田「でも」
高木「保険金も支払われるよう手配済みだ。今更変えられない。家族を救うためなんだから頑張れよ」
安田さんの携帯を持つ右手が震えていた。冷房のためではない。風が直接当たるような位置じゃないから。震えを見ているうち、痛いほどの緊張感がこちらにも伝わってきた。
痛い、血、死にたい、保険金。
断片的な単語だけでも、5分後の乗換駅で起こる顛末は大体予想できる。緊急停止する急行列車、騒然とするホーム、動画を撮影し出す大学生、愚痴をこぼしながら会社に遅刻の連絡をするサラリーマン。
電車が前触れもなく急停止し、隣で携帯が落下する音が聞こえた。緊張による心の乱れが最高潮に達しているのが原因か。安田さんは携帯を拾っては落とし、拾っては落としを繰り返している。目の前でつり革を掴む女子校生が冷たい視線を向けると、安田さんは焦燥と恥じらいの混じった苦笑いを浮かべた。
これから5分後に死ぬかもしれない人間の笑顔。
物悲しい気持ちで胸が押しつぶされそうだった。
だがどうすることもできない。事情を知らない部外者が介入できるほど、安田さんを取り巻く苦悩の膜は薄くないのだろう。
乗換駅。安田さんが降りたのを確認してから腰を上げる。
できるだけ列の後方に並び、前方を見ないように心がけた。改札を出てタクシーを使おうかと思ったが、階段を降りる直前で足が止まった。
好奇心。それが原因だった。先程まで笑みを浮かべていた人間がバラバラの肉塊に変わる。想像するだけでおぞましいのに、なぜか脳はその光景を求めていた。
ほどなくして急行列車の通過を告げるアナウンスが流れた。
緊張で心臓が早鐘を打つ。安田さんの姿は見えない。
ホームの前方が騒がしくなり始めた。列車の警笛が鳴り、駅員が大声を上げながら笛を響かせる。
ホーム前方で渦巻いていた喧噪はやがて悲鳴に変わった。耐えきれなくなって顔を伏せる。
何かと何かが勢いよくぶつかる音。鈍く、重く、心の良心を抉られるような感覚を覚えた。
辺り一帯が一層騒がしくなる。隣の列に並ぶ50代くらいの男性は持っていた缶コーヒーを落として革靴を汚しているし、後方にいる男子高校生の集団はクラスの仲間に連絡をして騒いでいる。
これで良かったのだろうか。
言い知れぬ罪悪感に包まれながら顔を上げる。
安田さんがスタスタと歩いていた。
ホーム前方から、野次馬の波に逆らうようにして私の方へ向かってくる。
何が起こったのか理解できず、一歩も足を動かすことができない。
安田さんは私のちょうど目の前に並ぶスーツ姿の男性の手を握り、やがて彼の胸に顔をうずめた。肩まで伸びた安田さんの黒髪を優しく撫でる男性は、優し気な声音で口を開いた。
「よくやった。偉いよ」
「怖かった。でも楽になったわ。あなたのお陰よ」
「保険金は近いうちに振り込まれるよ。それまでは僕の口座の金を使って」
「ありがとう。子供たちもきっと喜ぶわ。おもちゃも洋服も何も買ってあげられなかったから」
「二人とも元気かい?」
「ええ、あなたが来てくれたもっと元気になるわ。小うるさい父親の邪魔も入らなくなるもの」
電車の中の安田さんとはまるで別人。快活な笑顔で話すその瞳は、これから訪れる幸福な日々への期待感で宝石のように輝いていた。
私を尻目に後方の階段へ歩き出す二人。
未だ状況を完全に把握できていない。
あの時、顔を伏せずに前を見据えていたら、真実が見えたのだろうか。今となっては何も分からない。
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