パーカーを着た男

パーカーを着た男の隣に座った。ひどく陰湿な空気感を漂わせている男だった。隣に座るだけで、こちらの気分も底の方まで落ち込んでしまいそうだ。

私はおもむろに携帯を取り出した。ネットニュースの文章を目で追ううち、頭が痺れるような感覚を覚える。心臓もドキドキとして止まらない。山奥の廃ホテルで起きた殺人事件の記事。遺体は鈍器で頭を何度も殴られていた。軽トラで現場近くを通りがかった農夫は、灰色のパーカーを着た20~30代で筋肉質の男をホテルの入り口で目撃したと答えている。彼の右手は真っ赤に染まっていたらしい。



隣に座る灰色のパーカーを着た男。外勤や外回りが中心なのか、それとも休日に剣道や柔道といった武道をして自然に身についたのか。丸太のように逞しい腕は、人を一人殺めることくらい造作もなさそうだった。


だが心臓の怒張が収まらないのは、彼の外見が理由だった訳ではない。

チラリと見えた彼のメールでのやり取り。はっきり凝視出来ずとも視界に入り込んでくる特定の単語は、私の思考を取り乱して冷静な判断力を損なうのに十分過ぎた。


樺島:「お前、今どこにいるんだよ」

室井:「電車の中。XX山に行くんだよ」

樺島:「は?何でそんなところに?しかも一人だろ」

室井:「いい場所なんだ、すごくな」

樺島:「何言ってるのかよく分からねえけど、さすがに今から行くのは危なくねえか?夜の山奥なんて何が出るか分からねえし」

室井:「暗い方が都合が良いんだよ。誰にも見られないからな」


殺人鬼について大半の人間は誤解をしている。殺人鬼は社会生活から隔絶された異常思考を持った人間。そういうイメージを抱きがちだが、彼らの中には真っ当な生活を営んでいるものも多い。


この男もそうだ。普段は満員電車に揉まれながら会社に出向く。営業先では快活な口調でプレゼンをこなし、帰宅すれば取引先との打合せで疲弊した精神と肉体を浄化するため、愛する家族と食卓を囲んで笑い合っているかもしれない。


どこにでもいる平凡な男。

ただ少し。心のわだかまりを押さえていたネジが外れてしまっただけ。金曜の夕方に人気のない山奥へ向かうことで、そのネジを締め直そうとしているだけ。気持ちはよく分かる。


男が降車した駅で私も降りた。その際、男は網棚に乗せたボストンバッグもおろしていた。慎重に降ろす様から想像するに、かなり重いものが入っているに違いない。例えばハンマーやトンカチやスパナといった工具類。私は焦りと緊張で手足が吹き出してきた。男が降りたのは人気の塩バターロールが売り切れた後は客足がまばらになるパン屋とコンビニ程度しかない郊外の駅。緊張した面持ちもなく、日常のルーティンであるかのように男はタクシーに乗り込んだ。


男の車が走り出したのを確認してから、私もタクシーを呼び止めた。


「あ、あの車を、お、追ってください」


心の乱れのせいか、呂律が回らない。運転手に何度も訊き返された。


落ち着け。ゆっくり息を吸うんだ。何も心配は要らない。

目的地は分かっているのだから。


メーターの横に備え付けられたデジタル時計は18時を示していた。帰り路を急ぐサラリーマンたちの車がイナゴの大群のように集まり道は渋滞。私を乗せたタクシーも派手な看板の飲食店が立ち並ぶロードサイトの中でイナゴの一個体を担っていた。20分ほど走り続けたところで、メーターを止めさせた。タクシーを降りた目の前、6時間4,000円というポップな張り紙をしたレンタカーの店に飛び込む。タクシーを使い続けるより安いし、安全だ。


色は灰色か黒が良い。その方が目立たないから。ワゴンRが一台だけ余っていたので、早々と受付用紙を記入した。


「ただいまキャンペーン中でして。会員になっていただきますと年間利用料が10%お得に」

「い、い、いえ、結構です!あ、あのキーはどこに!?」


相変わらず口が回らない。勢いよく飛んだ数滴の唾が受付用紙を濡らした。

ワイシャツは汗でびっしょり、息も切らし、早口で鍵を要求する男。厚化粧をした受付嬢は不審な表情を見せた。後方のベンチに座るカップルも訝しげにこちらを見つめる。


落ち着け。ゆっくりでいいんだ。まだ時間はある。リラックスしろ。


口角を無理矢理引き上げて、受付嬢から鍵を受け取った。


窓を全開に開け、アクセルをふかす。突き抜ける夕方の空気を額に感じるうち、心の底で吹き出していた興奮の蒸気は少しずつ穏やかになっていった。


それから約1時間後。法定速度ギリギリで曲がりくねった山道を走った私は、廃ホテルのロビーでパーカー男の背中を見つめていた。あのずしりと重そうなボストンバッグも、きっちり肩から提げている。


私の緊張と興奮は最高潮に達していた。


あの男はここで何をしようというのか。

誰かと会うつもりなのか。あのバッグの中には何が入っているのか。

頭に浮かぶ疑問符と辺りを警戒しながらゆっくり歩く男の後ろ姿のせいか、抑えていた衝動が再び熱を帯びて湧き上がり、足元にガラス片に全く気が付かなかった。


瞬時に細長い懐中電灯の光が私のスーツを照らす。皺だらけになったワイシャツ、くたくたの紺ネクタイを照らし、順々に上へ。瞳が光線による直接攻撃を受ける前に、私もお返しをした。50m以上先まで照らせる強力なLEDライト式の懐中電灯。光をモロに受けた男は軽い悲鳴を上げ、その場に倒れ込んだ。


ボストンバッグも床に落下したらしく、アルミ製の工具類が反響し合う音が夜の廃ホテルに響いた。男は大声を上げることもなく、倒れ込んだまま顔だけを起こして私を見ている。


突如現れた筋肉質の男に脅えて足がすくんでいるのか。鬼をも殺しそうなパーカー男の筋肉はただの飾りだったのかもしれない。市街地から数十キロ離れた山奥の廃墟で誰の助けも呼べないという状況も恐怖を増幅させているのだろう。


もう一度ライトを照射して視界を奪うと、パーカー男へ馬乗りになった。腰に差してあったハンマーを引き抜く。


吹きあがった蒸気はすでに溢れすぎて自力では締められないところまで来ていた。抑える方法はもはや一つしかない。


男の頭を叩く度、鈍い音が響いた。男の顔を殴るたび、ネジが少しずつ締められていった。俗世間での苦しみも苛立ちも、ゆっくりと浄化されていく心地がした。


最初の数発は男の低い呻き声が聞こえていた。だが赤い鮮血がホコリだらけの床に水たまりをつくりだすころ、声はすっかり聞こえなくなっていた。


油断してはならない。前のように田舎者の目撃者が山道に現れないとも限らないから。

タオルで返り血を丁寧に拭き取るうち、男のボストンバッグが目に留まった。気になっていたその中身は、カメラや三脚だった。ビデオカメラのバッテリーもかなりの量が積まれている。これを担げば自然と筋トレになるし、動き回ることを考慮すればパーカーも妥当な選択肢だろう。


バッグにはクリアファイルも数冊収納されていた。手作りの名刺には心霊写真愛好会の文字。質の低い心霊写真の間には、心霊スポットの候補地が書かれた書類が見つかった。このホテルの画像には、赤い太文字で二重丸が付けられている。


なるほど。男にとっても私にとっても、ここはすごくいい場所らしい。


心の奥底にこびりついた錆を洗い流し、集約的な労働と単調な繰り返し作業から解放される場所。ただ私と彼で、少しだけ方法が違っただけ。


血管の隅々まで浸透していた興奮の蒸気はようやく抑えられた。これでまた日々の生活と戦える。

私は証拠隠滅の準備に取り掛かるため、すっかり静かになった男をゆっくりと運び出した。

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