第11話
電車を降りて改札を出たところ、壁にもたれかかって待っているユキノさんが行き過ぎる人々の隙間から見て取れた。
手持無沙汰に靴の先を眺めるその姿は湖畔にたたずむ妖精のようで近づくのも惜しいくらいだった。
イヤホンを耳から外してポケットに突っ込み彼女の方へと歩いていく。ユキノさんは俺に気づいて顔を上げた。壁から背を離して微笑んで、小さく手を振った。
「では、ついてきてください。案内、しますので……」
若干緊張した様子で歩き出したユキノさんの隣に並んで駅を出た。
案内された喫茶店は、駅から歩いて五分もかからないところにあった。
赤いレンガの壁に黒い格子の入った窓、オレンジ色の灯りの向こうにぽつぽつと黒い影が浮かんでいる。
この地域発祥の喫茶店で、今では全国展開されている。価格も手ごろでメニューの数も多い。高校生の頃に友人たちと何度か訪れたこともある、馴染み深い店だった。
ドアを押してはいるとドアベルが揺れて、レジの奥から店員さんが現れ二人掛けのテーブル席に案内した。店内はさほど混雑しておらず、まばらに会社帰りの女性や学生が席を埋めていた。
ワインレッドの小さなソファに向かい合って座る。
メニュー表をとり適当なページを開いて、ユキノさんの方へ向ける。
「イヤホン拾ってくれたお礼だから、気にしないで頼んでよ」
「は、はい……ありがとうございます」
なぜだか誘ってくれたユキノさんのほうが俺より緊張しているみたいだ。
ユキノさんはページを何度もめくり隅々まで眺め、最後の晩餐でも選ぶようにじっくりと吟味している。
眉間にしわを寄せたり顎に手を当てたりして百面相するユキノさん。
くるくると変化する繊細な表情を、万華鏡を覗いているような感覚でぼーっと眺めていると、
「あの……」
「ん?」
控えめな声に引き戻されて目の前に現実が展開する。
「これ、半分こしませんか? 私ひとりじゃきっと食べきれないから……」
ユキノさんが指さしていたのはエビカツサンドだった。この店のメニューは全体的にボリュームが多い。確かに彼女一人で食べきれるものはケーキくらいしかないだろう。
「うん、いいよ。ちょうどおなか減ってたし」
ベルを鳴らして店員さんを呼び、俺はアイスコーヒーを、ユキノさんはアイスココアとエビカツサンドを注文した。
コーヒーとココアはすぐに運ばれてきた。
ユキノさんはストローでカラカラとかき回してココアをとてもおいしそうに飲んだ。
「ココアそんなに好きなの?」
「はい、ココアがというより、甘いもの全般ですが……」
お菓子の国の住人のように、ユキノさんは手元のココアにも負けない糖度の笑顔を振りまいた。
運ばれてきたエビカツサンドを二人で食べて取り留めのない会話に花を咲かせていると、ユキノさんにもたせ掛けるように置かれた鞄の隙間から文庫本がのぞいているのに気が付いた。
「その本……」
「え、あ、これのことですか……?」
慌てた様子でわたわたとバッグから文庫本を取り出してテーブルの上に置いた。
濃紺の宇宙に無数の星が浮かんでいて、宝石のようなデザイン文字でタイトルが書かれている。どこかで見た表紙だ。
あいまいな記憶をたどりながら表紙を眺めていると、ようやくその正体にたどり着いた。
「うん、大学で教授がお勧めしてたんだよ。気にはなってたんだけどタイトル忘れちゃって……。どうかな、この物語はおもしろい?」
気軽な気持ちで、ほんの場つなぎ程度に質問してみる。
「は、はいっ! とてもおもしろいですっ!」
ぐっと前のめりになり、繊細なまつ毛に縁どられたキャラメル色の瞳が星のようにキラキラと輝いた。な、なんだっ?
彼女はその勢いのままその小説のあらすじであろう物語をつらつらと澱みなく語った。
『管理局』や『思想統制』などの単語から察するにディストピア的なSF小説なのだろう。
「……」
圧倒されて言葉が出ない。心から好きなものを語る人の圧を初めてじかに感じた。心臓がビリビリして体の奥がじわりと熱くなる。
呆気に取られている俺に気づいたのか、
「あっ、す、すみません……、私ばっかりしゃべっちゃって……」
ユキノさんは顔を赤くしてソファに座りなおす。熱く小説について語るユキノさんこそ『本物』で、おとなしく小さくなってはにかんでいる彼女は『猫』なのだろう。
「大丈夫だよ、おもしろさが伝わったしその本が好きなこともよく伝わったよ」
「ほ、ホントですか……? よかったです……」
ユキノさんはふにゃりと笑った。被った猫があまりに精巧で被り物であることを忘れてしまいそうだった。
「あの……古柴さんは趣味とかってあるんですか? これやってて気づいたら夕方、みたいな……」
「ああ、それだったら『惑星Q』ってゲームかな」
スマホを取り出してアプリを起動させる。
広がる宇宙の下の草原に一匹の白い毛玉のような生物がうずくまっている。画面の両サイドには操作用のアイコンが所狭しと並んでいる。
「へぇー、ちょっと難しそうですね……」
「そんなこともないよ、ほら」
適当に操作して毛玉を操る。毛玉は時々突然変異した亀のような生物を倒しながら草原の上を跳ねて移動する。
「ホントだ……ふふっ、なんだかちょっと可愛いです。これ、今から始めても追いつけますか?」
「うん。今からでも全然強くなれるよ。まあ、課金と化しているユーザーには追いつけないかもだけど」
それから他愛もない会話はしばらく続いた。
ふと脳裏をかすめた考えをユキノさんに聞いてみる。
「そういえばユキノさん、今メイド服じゃないけど俺とまあまあ喋れてるよね。大丈夫? 無理してない?」
ぽかんとした表情がグラデーションで驚きに変わり、ふわりと笑顔に落ち着いた。
「はい、どうしてなのかわからないのですが、古柴さんとならメイド服を脱いでいたって平気です」
その言葉は、俺を彼女にとって特別ななにかであると勘違いさせるのには十分だった。
それから連絡先を交換した。
取得したデータのアイコンには水色の紫陽花、ユーザーネームには『佐取雪景』と表示されていた。
「ええっと……サトリ……ユキ……」
「ユキカゲ……です。それが私の本名なんです」
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