第10話
結局三毛島は最後まで『古柴くん』を譲らなかった。
まあ、どうしても呼び捨てにしてもらいたいわけじゃないし、ただのじゃれあいのつもりだったからホントに呼ばれても困るんだけど、照れるんだけど。だから結果、都合よかったといえばその通りだった。
今日のところは特に急ぎの依頼がない、ということで早めにお開き。まだ日が沈み切らないうちに薄暗いビルを後にした。
サラリーマンや小学生がまばらに行きかう朱色に染まった大通りをだらだらと歩いて、通い慣れたコンビニに向かう。
ビルのはす向かいのコンビニではポイントが貯まらないし、がっつり系のお惣菜が食べたい気分だった。
正直にいって自炊は早々に再び挫折した。アパートに備え付けられた電気コンロは扱いにくいし、調理スキルが低すぎて調理可能なレシピが限られる。だからといって試行錯誤するような時間も気力もほぼ皆無。
ほんの二か月足らずであっても、まともに自炊にチャレンジしていた二年前の自分を褒めてあげたいよ。
だんだんと赤を強くする夕日に目を細めながら歩いていると、
「古柴さん」
控えめで甘い声が耳の中で前触れなく反響する。若干聞きなじみのある声に視線を移すと、
「……っ!」
いつの間にか、煙のように現れた私服姿のユキノさんが隣に並んでいた。
大きめのカーディガンの袖に半分ほど隠れた手を小さく振ってはにかむ。あまりに唐突な天使の襲来に目の前がくらくらしたが、それと同時に不安がよぎって声を潜める。
「ユ、ユキノさん、ここら辺で俺と会ったらまずいんじゃないの?」
「ん-、確かにまずいですけど、『偶然』だったら仕方ないですよね」
ユキノさんは無邪気にいたずらっぽく微笑んだ。『偶然』だったら仕方ないよなー。
速度を落とし、ユキノさんと並列して進む。
「あの……この後って何か予定ありますか?」
「いいや、ないよ」
「もしよかったら喫茶店でお話しませんか? そのお店、料理もおいしいので夕ご飯もかねて……」
消え入りそうな声の主は夕日のせいか赤く染まっている。唇をきゅっと結んで瞳を逸らす仕草は無垢な少女のようでなんともいじらしい。
「ああいいよ、もちろん」
ぱっと勢いよく顔を上げてユキノさんは目を大きく開く。うるんだ瞳に陽光が入り込んで琥珀のように輝く。
「じゃ、じゃあっ……私、K駅の西改札を出たところで待ってます!」
胸の前で握りこぶしを作り、熱のこもった様子で言い残すとユキノさんは小走りで群衆の中に紛れていった。
基本的に生活圏は徒歩で行動できる範囲なので、地下鉄に乗るのは一人暮らしの初日以来だった。
いつもなら曲がる角を曲がらずにまっすぐ進む。駅に近づくにつれて人の量が増えていく。
地下鉄出入り口の階段を降り、値段を調べて切符を買うのが面倒なので券売機でICカードに千円をチャージする。
籍を置いている大学の学生証はなぜか交通系のICカードと一体化している。使うことはないと思っていたが、まさかこんな日が来るとは。なにかの時のためにと学生証を携帯しておいて正解だった。
K駅の方面を確認し、改札にカードを通してごった返すホームで、並ぶ男子学生の後ろについて電車が来るのを待った。
電車がホームに滑り込み、扉のホーム柵が開いてぱらぱらと人が降車する。
前の人に続いて電車に乗り込む。混雑してはいないが空席はない。仕方なく俺は吊革に掴まった。
地上を走る電車なら高速で流れる景色を眺めることもできるのだが、地下鉄の車窓には反射した自分の顔しか写らない。
自分の顔なんて見ていても落ち込むだけだ。ポケットからスマホを取り出し、ユキノさんが届けてくれたワイヤレスイヤホンを右耳に突っ込む。
深夜ラジオのタイムフリー配信を小さく流してK駅に着くのを待った。
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