第9話 

「ついさっき言っただろう、私はここに住んでいる」

 これ以上に説明する事はないとばかりに三毛島さんはすんとして黙り込み、さらりと髪をはらう。

 頭の中にせきを切ったように疑問が溢れる。キリがないので抜粋して質問する。

「どうして家に帰らないんですか? 別に帰る家が存在しないってわけじゃないでしょう?」

 口に出してからデリカシーのなさに後悔したが、幸い三毛島さんは気にした様子を見せなかった。

「家はあるにはあるのだが、ただ帰るのが面倒でな。どうせ家に帰っても次の日にはここに来るのだから、いちいち帰る必要はないと思い至ったのだ。その方が効率的だろう」

「そうであるにしたって設備がいろいろ不十分でしょう。風呂とかトイレとかどうしてるんですか」

「風呂は少し行けばスーパー銭湯があるし、トイレならこのビルに入っているからな」

「…………」

 帰宅は非効率で自炊や銭湯通いは効率的なのか、とは言わない。銭湯に行くならそのついでに買い出しも行けばいいのでは、とも言わない。もうこの話題に関して俺は何も言うまい。

 ため息をつき、二の句を継ぐことをあきらめた俺とは不釣り合いに、『何を馬鹿みたいな質問を』とでも言いたげに平然と落ち着き払って三毛島さんはコーヒーを飲んでいる。

 凡庸な俺にはわからないが、もしかして天才や秀才ってのはある程度を過ぎると馬鹿に近づいていくのだろうか、それともこの三毛島日和という少女には人間らしい暮らしを送る能力が備わっていないのだろうか。あるいは、質の悪いことにそのどちらもなのだろうか。

「さあ、これで基本的な仕事の説明は以上だ。その他イレギュラーなものについてはその時々に説明させてもらう。古柴くん、何か聞きたいことはあるかな?」

 気を切り替え、今日扉を開けた時からちらついていた疑問を探り探り投げてみる。

「えっと、仕事には直接関係ないんだけど……」

「かまわないよ」

「ここには三毛島さんと俺以外に働いている人は?」

 何気ない質問のつもりだったのだが、ふっと三毛島さんは目を伏せ、顎に手を当てて考え込むようなそぶりを見せる。やがて、考えがまとまったのか顔を上げ、

「いるにはいるのだが、今は日本ではなくフランスにいる」

「え……フ、フランス……海外……?」

 想定外の返答に処理が追いつかない。なうろーでぃんぐ。

「まあ、心配せずとも私たちが海外に行くことはおそらくないだろう。行っているのは私の従兄でね、懐かしい友人からの依頼だと手紙を受け取った翌日には嬉しそうに飛んで行ったよ。まったく、頭は切れるが言動は子どもみたいな人だ」

「はあ……」

 思い出話に赤銅色の瞳が愁いを帯び、少し寂し気に微笑む三毛島さんは獲物を逃がさない優秀で冷酷な狩人のようななりを潜め、儚げな深窓の令嬢のようで目を奪われてしまう。

 ぼんやり見とれる俺の様子をどうとらえたのか三毛島さんは、

「実はこの事務所の持ち主は私の従兄なんだよ」

 簡潔に補足して、シンプルな木製の額に入れられて壁にかかっている賞状のようなものを指さした。

 『探偵業届出証明書』と書かれたその下に、目を凝らして辛うじて読める小さな文字で『佐久間倫』と三毛島さんの従兄であろう男性の名前が印刷されていた。

「今年中には帰国すると聞いているから、タイミングが合えば古柴くんも対面することになるだろう。しかし、彼が帰国するまでは私がこの事務所を守らなければならない。私を信頼して任せてくれた彼のためにも、ただのお飾り探偵でいるわけにはいかないんだ。古柴くん、君が来てくれなければ私は一人きりだった。私とともにこの事務所を守り抜いてくれるね?」

 窓ガラス越しに差し込む傾きはじめた日が彼女を照らす。彼女の瞳の奥に緋色のきらめきを見た。

「……っ、はい!」

「よし、いい返事だ」

 三毛島さんは力強く口角を上げた。

 ようやく俺は、あの夜に酔ってメールを送ったことが正解だったと確信した。

「それから古柴くん、せっかく敬語が抜けてきたのだからさん付けもやめてみないか?」

「いや、それはまた後日でも……」

「なあに、最初の一歩は誰でも重いものさ。だが、そこさえ超えてしまえばどうということはないだろう?」

 納得いくようないかないような理論を展開され、俺はついに根負けした。

「じゃあ……三毛島……」

 言い渋っていた分余計に照れくさい。

「三毛島もその古柴『くん』ってのをやめようよ」

「悪いがそれは拒否させてもらおう」

「なんでだよっ⁉︎」

「なぜなら、このままのほうが『探偵』らしいからな、そうは思わないか、古柴くん」

 ……この人ホントはお飾り探偵じゃないのか?

 そんな疑問を抱かずにはいられなかった。

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