第7話 

 梅雨時期の晴れ間は非常に貴重だ。

 湿気がまとわりついてうっとうしいが、昨夜とは打って変わって焼き立てのパンや洋菓子のにおいが方々からあふれる大通りを通って三毛島探偵事務所へと向かう。

 雑居ビルの前に到着し、重たいガラス扉を開こうと手すりをつかむと、

「お兄さん、そこの金髪のお兄さん!」

 甘ったるくて口の中で溶けてしまう綿あめのような声が鼓膜をくすぐった。

 振り返ると、猫耳をつけたメイドさんがいた。

 純白のフリルブラウスに黒のリボンタイが良く映える。黒のミニスカートにはパニエが重ねられ、薄いタイツに包まれたほど良い肉付きの脚が伸びている。

 猫耳メイドさんがぴょんと跳ねるように一歩近づく。柔らかな赤みがかった茶髪が肩の上で揺れ、猫耳に付いた小さな鈴がリンとなる。

 前ならえもできないほど詰められて鼓動にアクセントがついた。さすがはメイドさん、異性との物理的距離の詰め方を心得ている。いや、単に近づかれただけなんだけど。

「えっと……何か用かな?」

 メイドさんに話しかけられるようなフラグなんてどこで発生したのだろう。

 メイドさんは「ん-」とうなりながら斜めに下げていた猫の顔をかたどったポシェットから何かを取り出し、掌に載せて差し出した。

「これ、昨日ここのエレベーターで落としたのあなただよね?」

 白く小さな手の上に、見覚えのある赤いワイヤレスイヤホンが片耳だけが転がっている。確かに俺のイヤホンだった。

「ありがとう。俺ぼーっとしてたから落としたことにも気づかなかったよ」

 受け取ってズボンのポケットに突っ込む。

 ……ん? 『昨日エレベーターで拾った』ってことは……。

「君、エレベーターにいたあの大人しそうな子?」

「あはは、うん、多分」

 頬をほんのり染めて照れくさそうに視線を逸らす。その様子は確かに昨夜エレベーターで見たか弱いうさぎのような女の子と重なった。

「でも、よく俺だってわかって話しかけてくれたね。昨日はあんなに怯えていたのに」

「あ、あれは、その……」

 小さくうつむいて手を胸の前で組む。背が低いから少しうつむいただけで顔が前髪に隠されて見えなくなる。

 表情が読めないから気分を害してしまったかと心配していると、彼女は穏やかな声で話し始めた。

「私、いつもは臆病でドジでダメダメだけど、このメイド服着ているとちょっとだけ前向きになれちゃうの。いつもだったら勇気が出なくて見逃しちゃうようなことも、頑張ってやってみようって気になれるの」

 そういって、彼女は優しい笑顔を見せた。庇護欲を掻き立てられるあどけなくて幼い笑顔だった。

「なるほどね、じゃあ君にとってそのメイド服はヒーロースーツみたいなものなんだね」

「えへへ、うん、そんなところかな」

 小さな変身ヒーローの照れ笑いに得意気な様子が混ざる。

 衝動的に頭を撫でてみたくなるほど可愛い。やらないけど。初対面だし。

「あの、お兄さん」

「ん?」

「お兄さんのお名前、教えてくれる?」

「古柴兼。このビルの三毛島探偵事務所で今日から探偵の助手をすることになったんだ」

「すごーい、探偵さんなの?」

 キャラメル色の目を輝かせてオーバーリアクションされる。予想外の反応で若干顔が熱くなった。

「いや、助手だし今日からだからまだ勤務内容も把握できてないんだけどね。君のことも教えてよ」

 少女は胸元に付けたハート形の手書きの名札を掲げ、

「私はユキノ。私もこのビルの中のメイド喫茶で働いてるの」

「へえ、メイド喫茶なんか入ってたんだね」

「四階にあるから気軽に遊びに来てほしいな」

 ちゃっかり宣伝された。せっかくだから明日にでも行ってみようか。

 ユキノさんは猫耳メイドさんらしい無邪気さと純真さの混在するオーラを振りまいている。浴びていると融けてしまいそうで、媚薬的な何かも混ざっていそうだと疑ってしまう。

 わざとらしくハッとして見せてユキノさんはスカートを翻す。

「そろそろ戻らないと、じゃあ――」

「ユキノさん」

 思わず呼び止めた。賭け事は得意じゃないが、運に賭けてみる。

「君さえよければバイト終わりに会えないかな? お礼もしたいし、君のことがもう少し知りたいんだ」

 必死感が出ないようにあくまでさわやかを装ったつもりだ。言葉に嘘はないが、その深層には自覚済みの下心が蠢いているのだから。

 ガラス扉に手をかけ、ユキノちゃんは考えるそぶりを見せることなく、しかしどこか含みのある笑顔で、

「ダメだよ。お店の近くで男の人と会うのはお店の規則違反なの」

 それだけ言うと猫耳メイドさんは雑居ビルの中に消えていった。

 なんとなく気まずいので少し時間を空けてから事務所へ行くことにした。

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