第6話 

「では明日、昼の三時ごろに来てくれ」

 まだ8時半を回ったところだったが三毛島さん曰く「夜ももう遅い」ということで、採用の握手をもって本日は解散となった。

 ドアノブをひねって扉を開け、去り際に部屋を肩越しに覗くと三毛島さんは既に初めに見た時と同じようにソファの上で寝っ転がっていた。空調の中から穏やかな寝息が浮かび上がってかすかに耳に届く。

 三毛島日和。まさか俺と大して歳も変わらなさそうな女の子が探偵だなんて思いもしなかった。彼女について知ることができた事柄は少ないが、誰にも手懐けられない猫のような人だ、と勝手にラベリングしておいた。

 

 廊下は相も変わらず陰気だった。思わずため息が出る。この青白く無機質な蛍光灯も弱気な影が映る白く冷ややかな壁も、当分の間は慣れないだろう。

 周囲をあまり見ないように、まっすぐエレベーターに駆け寄ってボタンを押した。さほど待たされることなくエレベーターは降りてきた。

 ゆっくりと扉が開き、滑り込むように肩から乗り込むと、

「……っ!」

 先客がいた。

 人がいることを想像していなかった俺の体は予想外の出来事にフリーズする。同時に、ボタンの近くに女性も驚いた様子で全身をこわばらせている。

 気に入って染めている金髪が時に「怖そうな人」のアイコンになり得ることは経験から理解していた。――特に彼女のような文学少女然とした女の子にとって。

 ピンと張った空気を崩さないように、できるだけ物音を立てずに彼女の対角まで忍び足で移動する。

「あの……何階でしょうか?」

 柔らかくて不安定な声が小さく反響する。声を出すのに合わせてまっすぐに伸びた栗色の髪が肩の上で揺れる。

 緊張しているのか怯えているのか、キャラメル色の大きな瞳を縁取る長いまつ毛は狼に食べられそうなうさぎのように震えている。

「同じ一階なので、大丈夫です」

 警戒心を解いてもらおうと笑顔を作って声色を和らげてみる。

「あ……す、すみません」

 逆効果である。

 彼女は大げさに頭を何度も下げて「閉」ボタンを押した。

 エレベーターが音もなく降下していく。もつれた気まずい沈黙を自分の中でごまかそうと、ポケットからスマホを取り出して眺めるふりをした。

 適当なSNSアプリを起動させてタイムラインを指で送りながら彼女の様子を伺う。シフォン生地のロングスカートをキュッと握り締め、斜め下の虚空を見つめている。

 だめだ、完全に怖がられてしまっている。思い当たる節が無いわけじゃないから申し訳なくなる。

 やたらと長く感じた降下が終わり、一階に到着した。扉が開き、彼女に軽く会釈して怪しくない程度の早足でエレベーターを降りた。

 

 雑居ビルを出ると、濃紺の空には人工の光に負けないわずかな星が瞬き、揚げ物やアルコールのにおいが町の中を這いずり回っていた。

 充満する夜のにおいが鼻腔を刺激して空っぽになっている胃袋が固形物を求めてうなりを上げる。

 そういえばまだ夕飯を食べていないことを思い出した。いつも大学の帰りに寄っているコンビニへ足を運ぼうとしたが、思いとどまって方向転換。

 脳裏にふっと浮かんだ探偵事務所の調理器具に背中を押され、もう久しく行っていないスーパーに目的地を変更した。

 我が家のシンクの下に閉じ込められた亡霊たちに命を吹き込む準備をしよう。


 大学に進学したての頃、つまりは一人暮らしを始めたての頃。新鮮さやこれを機にちゃんとした大人に近づこうと息巻いていたこともあり、自炊を実践するために三日に一度くらいのペースで近所のスーパーに通っていた。

 簡単な料理を調べて材料を集めたり計量して調味料を混ぜるのはロールプレイングゲームのようで、苦労を苦労とも思わずにこなしていた。

 しかしこの「俺真人間化計画」は二か月もたたずにとん挫した。

 アルバイトが見つかって金銭的に余裕ができたこと、友人と外食する機会が増えたことや講義が始まり時間に余裕がなくなったことなどの要因が多方面から絡み合い、次第に食料調達の現場はスーパーからコンビニに、手作り料理は冷凍食品やカップ麺に変化していった。

 長い間通ることのなかった道だが回想に思考をとられながらも迷うことなく歩を進める。どうやら俺の体は脳より記憶力がいいらしい。

 帰宅途中のサラリーマンやはしご酒をしている学生でごった返す大通りを抜けて、国道に面した広い歩道に出る。歩道に沿って立ち並ぶ薬局やコンビニを素通りして横断歩道を渡ったその先に、懐かしいクリーム色の外壁を見とめた。対して変化のないその様子に初心を思い出して妙な懐かしさが込み上げてきた。

 自動ドアが開くと店内に閉じ込められていた冷気が体を包み、温度差に身震いする。

 買い物かごを手に取り野菜売り場に直行する。

 きゅうりとツナ缶、鶏ガラスープの素を探し出してカゴに入れる。俺が唯一そらで作れるきゅうりの中華風あえ物の材料だ。安価で簡単だからよく大量に作ってタッパー保存していた。

 つまみだけ作ってシラフというのはあまりにつまらない。缶チューハイの棚の前で今夜のメインを一つ一つ吟味する。

 散々悩んで度数三パーセントのレモンチューハイを手に取った。これより高い度数のものにはどうも手が伸びなかった。

 こいつのせい(いや、おかげか?)で予想していなかった方向に石が転がり始めているのだ。

 今更方向転換なんてできるはずがない。


 買い物を済ませて帰宅するともう九時半を回っていた。

 靴を脱いだ瞬間どっと疲労が露わになる。ソファに身を投げ出したい衝動を抑えてキッチンに立つ。

 薄いプラスチックのまな板にきゅうりをのせて包丁で切っていく。随分と握っていなかったせいか疲れのせいか、手元が思い通りに動かない。

 俺ってこんなに不器用だっただろうか。

 千切りを諦めて輪切りにしたきゅうりの上にツナ缶を開け、鶏ガラスープの素と塩、ラー油を目分量で入れて和え、大皿に移す。

 テーブルに運び、箸で掬って口に入れる。

 味は悪くないが端的にいって見た目は最悪。きゅうりの厚さがバラバラだ。

 これは「俺真人間計画」を再始動させなければならない。

 腕の落ち具合に落胆して缶にぐっと角度をつける。炭酸とアルコールが喉と脳を刺激して眩暈がした。

 ぐらつく世界の中で刺激的だった今日を振り返る。

 ……なんていうか、まあ。

 非常に濃い一日だったと思う。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る