第04話 杏の入居日

 内見、契約を終え、迎えた入居日。すでに注文していた家電の搬入と設置が終わり、私たちはそれぞれ荷解きを始めていた。


「……ほんとにお金がないのか疑いたくなるんだけど」


 私は立派な電子キーボードを部屋の隅に設置するしんを眺めながら言った。彼は幼い頃にピアノを習いはじめ、今でもよく趣味の範囲で楽しむらしい。が、私たちの借りた物件はロフトを合わせても12畳程しかない。同居人の立場から正直に言えば、大型の電子機器はあまり運び込まないで欲しいところだ。


「好きなことだから、捨てられない。捨てられるなら、好きなことじゃない。


 しんはこちらには顔を向けずに何やら名言じみた返事をし、ポロンポロンと試し弾きを始める。ピアノに関してはドがつくほどの素人の私だが、その軽快なメロディーは聞き覚えがあった。確か有名なドラマのテーマ曲だ。


「ちょっとまって。そのスピーカーもそこに設置するの?」


 ダンボールの箱からそこそこな大きさのスピーカーを取り出したしんを見て、私は呆れて言う。


「キーボードとスピーカーだけで2畳くらい持っていかれてる気がするんですが」


「許して」


 心のこもっていない声で許しを請われた。しんは私の返事を待たずにスピーカーを据え付け、こちらへ歩み寄る。彼は私の荷物の入ったダンボールを覗き込みながら聞く。


「それ、ペンタブ?」


「そうそう」


 しんが指差していたのは、ざらざらした黒い板状のタブレット。パソコンに接続して絵を描くための機材だ。


「イラストがあんの趣味ってことか」


「うん。ちっちゃい頃から、絵を描くの結構好きで」


 私がそう答えると、しんはふっとニヤついた。


「じゃあお互いさまだな」


「え」


 私はなんのことやらわからず聞き返す。


「何が?」


「ほら、あんも趣味のために部屋の場所とってるわけで。俺のピアノとお互い様」


「え、ぜんっぜん大きさちがうし。ペンタブなんてパソコンと合わせても0.1畳くらいだし」


「いや、0.13畳くらいだと思うな」


 指でペンタブとパソコンの大きさを測る素振りを見せるしん。その面持ちは何故か真剣だ。

 

「……もう誤差じゃん、それは」


「0.03畳には無限の可能性がある」


「……はいはい」

 

 私は諦めた返事をして目の前のダンボールに向き直った。こういう時、しんに対してマジレスをするのは禁物だ。どうせまた小学生のような屁理屈か、意味のわからない回答が返ってくるに決まっている。私はしんと出会ってから一緒に過ごした内見、契約の二日間で、そのことを学習していた。頭のおかしいこの男に呑み込まれないための絶対的な鉄則その①、自分のペースを乱さないこと。

 この男の相手をする前に荷解きをさっさと終わらせてしまおう、と私が作業に戻ると――。


――キュルル。


 しんと私のお腹がほぼ同時に盛大な音を立てた。スマホを見ると、いつのまにか時刻は5時過ぎ。軽い昼食をとって以来、二人とも何も口にしていない。

 私は同時にお腹が鳴ったことがなんだか妙に恥ずかしくて赤面する。その横で、しんは自分のお腹をぽんぽんとさする。

 

「少し早いけど、夜ご飯、食べに行くか」


 意味不明な脳の構造をしておいて、二人での行動を決定するのが毎回薪なのは少しだけムカつく。けれど、私としても今回のその提案に異論はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る