第03話 マキちゃん改め朝月薪

 「――はじめまして、マキ改め朝月薪あさつきしんです。よろしく」


 彼の平然とした挨拶は、混乱した私の脳内を何度も行ったり来たりした。あまりの驚きに私は目を見開き、口は塞がらず、手足は硬直し、しかしまだ思考が事実に追いついてこない。

 時間が経過するにつれ、徐々に、頭の中のマキちゃん像が崩れていく。徐々に、ルームメイトとの二人暮らしの未来像が、この朝月薪あさつきしんと結んでしまった奇妙な関係にすり替わっていく。


「――はぁ?!」

 

 そうして、やっと感情は声になった。もはや通りすがりの人々の怪訝そうな目つきなど、目の前のこの男に比べれば全く気にならなかった。


「なにこれ、もしかしてあの投稿も含めて全部何かのいたずら?」


「いや、全然。君も俺もお金に困ってる。だから一緒に暮らす。そうでしょ?」


 そういいながら彼はスマホをサッと操作し、再び私に画面を見せる。


「っ……!」


 そこには確かに私――空木杏うつろぎあんと、彼――マキの一連のやり取りがあった。間違いない。私はこの朝月薪あさつきしんと、大学4年間の共同生活の約束を結んでしまったのだ。

 思い返してみれば、なぜメッセージのやりとりのみでここまで来てしまったのか。せめてビデオ通話で顔合わせをしていればこんなことには……。ただ、いくら自分の考えの浅はかさを反省しても、やはり彼の行動は意味不明だ。

 恐る恐る私は彼の真意を聞く。


「なんで女子のフリなんてしたの?」


「ああ、だってさ、女にしとけば下心のある男とかが食いついてくれるだろ。そうでもしないと同居人なんて見つからないと思った」


 しんは軽く微笑みながら、呆れて言葉を失っている私を見つめる。


「ま、実際釣れたのは空木杏うつろぎあんっていう女子だけど」


「は……」


 彼の発言が、私の堪忍袋かんにんぶくろをゾワっと刺激する。

 いや煽りじゃない、きっと煽りじゃない、彼はちょっと変わった人なだけ。私は目をつむって自分にそう言い聞かせ、感情を何とか制御する。

 実際、しんの口調はメッセージでやり取りしていた時と全く変わらないのだ。偽ったのは名前と性別だけで、そのほかは裏表なく自分の生活の為だけに行動しているのだということが、初対面の私にもなんとなく伝わってくる。そういう意味では本当に恐ろしい詐欺師だ。


「君の『空木杏うつろぎあん』ってユーザー名は本名?」


「……そうだけど。」


 疑いつつ私は返事をする。


「それがどうしたの」


「いや、わかりやすくて親切だなとおもって」


「なっ……!」


 やっぱりこの男、煽っている。これはさすがに煽っている。


「じゃ、いこっか」


「へ?」


 何の前触れもなく話題を変え、しんはスマホを自分のポケットに納めながら言う。黒髪の隙間から、暖かいんだか冷たいんだかよくわからない、奇妙な魅力を持った瞳がのぞく。


「ほら、不動産屋。早いとこ内見しなくちゃでしょ」


 そう言ってすたすたと歩き始めるしん。その迷いない足取りからは、こちらのペースを気にする様子は全く感じられず、とんでもない事態になってしまったことを私はあらためて実感する。

 しかし、今更家探しを再考するわけにもいかない。後期合格で大学が決まったこともあり、入学までに残された猶予期間はあまり長くないのだ。早いところ腰を落ち着けてバイトを始めなければ、今後の生活にも支障が出てくる。

 私は悟る。もうこうなってしまっては、しんのペースに惑わされずに彼を利用しつくすしか、自分の大学生活を守る方法はないのだと。


「ああ——」


 数分前まではおよそ想像できなかったこの事態を自分自身の生活のために何とか呑みこむ。


「——もう、なんなのこれ!!!」


 そう叫びながら、九割九分の不安を抱えたまま、私はしんしんの後を追って横浜よこはまの街に踏み出した。

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