第233話 〜酒の記憶〜

「失礼します」

 そう断りを入れ、蓮門藍之丞が現れた。


 その部屋の壁一面は洋の東西を問わず酒瓶に覆われ、酒樽が家具のように並んでいる。

 彼はそれらをしげしげと眺め、「また増えてる……」と心の中で呟きつつ、言った。


 ここは有栖邸。

 いつ来てもどこからともなく漂う酒の匂いに呆れつつ、藍之丞は声を張った。

「羅市さん、そろそろ時間ですよ。酔いつぶれて寝てるなら、僕だけで行きますけど」


 するとその部屋の奥の襖の向こうから、

「起きてンよ! ちょっと待ってろ。つーかよ、服が見つからねーのよ」

 と、羅市の大声が響いた。

「……あの胸元がはだけた着物はやめてくださいよ。今日は真面目な話し合いなんですから」

 そう言って、彼は浅いため息をついた。


 蓮門藍之丞――。

 彼はごく平均な成人男性程度の体格だったが、細身のために実際より背が高く感じられた。黒小袖に手甲をはめ、一見すると流浪の武士か、或いは旅の僧侶の様な出で立ちだ。

 物腰は柔らかく柔和な印象で、決して美形ではないがかなり整った顔立ちだった。


 誰に似ているかと聞かれれば、仁恵之里の住人であれば誰もが『国友秋』だと答えるだろう。



(あ……藍殿!)

 虎子の心が震えた。


 記憶の中の彼ではない。

 いま、自分が目撃しているのはあの頃の光景そのままで、そこには鮮烈なほどに明確な藍之丞が確かに居るのだ。


 彼女の瞳が滲む。

 心が流される。

 思い出の中にしかいなかったあの人が、すぐそこに居る……!

(いや、駄目だ!!)


 虎子は歯を食いしばり、伸ばし始めた指先を止め、目を固く閉じた。


 いまはそんな時ではない。

 心を乱している場合ではないのだ。

(……何故記憶をトレースする様な事をしているんだ? 留山は私を貶めるつもりじゃなかったのか……?)


 もし留山がそのつもりならもっと端的にやれば良い。しかし、どう考えても自分とは無関係な内容も多い。

 つまり、留山にとっては無意味で無駄な内容とも言える。

 それなのに宝才は解除されること無く、延々とあの頃の再現が続いている。

(まさか、解除できないのか……?)


 状況は留山の手を離れたと見て良いだろう。

 しかし、原因は不明だ。


 この先、この状況は糸の切れた凧のように何処へ行くのか、どう動くのか、誰にも分からない。

 だが、それは自分にとってはチャンスとなりうる可能性もある。

 虎子は呼吸を落ち着け、まずはこの状況を受け入れる態勢を整えることに注力した。


(そうか……確かに武人会を創設してすぐの頃、藍殿は仁恵之里へとやってきた……!)


 この『記憶劇場』はの出来事をなぞっている。

 だからこれから起こることはあの頃の再現なのだ。

 誰が何の目的でこんな事をしているのかは分からない。しかし、決して無意味ではないだろう。

(きっと何かの意味があるはずだ。或いはメッセージ……それをみつけるんだ!)


 小さな手がかりも決して見逃すまいとこの『記憶』を凝視する虎子だったが、同時に急にそわそわし出した自分の心に焦っていた。

(……誰がこの映像を見せているのか知らんが、出来ればにはフォーカスしないでくれ……!!)


 祈るような心持ちの虎子。

 まるでこれから始まるを予感するように、彼女の心臓はバクバクと早鐘を打っていた。


 ………

 ……

 …


 その頃、カルラコルムではマヤは各家が集まり、頻繁に議論を重ねていた。


 議題は『人間との対話は必要なのか、否か』

 。それは将来的に人間界贄の郷への移住を見据えての事であった。


 様々な意見があったものの、最終的には天狐の意見もあり、人間との対話はマヤの総意として実行されることとなった。


 留山は最後まで抵抗したが、最終的には千代美の説得により彼が折れた形となった。


 気位が高く、マヤという至高の存在に他の家以上に誇りを持っていた瑠山にとって人間との共生など到底受け入れられるものではなかったのだ。


「私の事は気にせず、好きなようにやりたまえ。どの道、私は故郷を捨てるつもりなど毛頭無い。その時が来たのなら、この世界カルラコルムと共に無に帰す覚悟は出来ている」


 千代美の説得を受け入れた留山は、平山邸を後にする際そう語った。

「留山……」

 何処か寂しげな彼の背中を見送る千代美。

 そんな彼女に「それでは失礼いたします」と声を揃えるふたりの小さな少女は、最近彼の使い魔となったマリー姉妹という双子の悪魔だった。


「……あなた達はどうするつもり?」

 千代美の問いかけに、マリー姉妹は迷うこと無く声を揃えた。

「私達はどこまでも御館様にお供致します」

 ふたりの少女の瞳は確たる意志の輝きを宿していたが、生命の煌めきは既に無かった。


 人間に対する拒否反応、というより『拒絶』。

 留山の性格を考えれば当然の事なのかも知れない。

 ある意味、分かっていた事なのかもしれない。

「……留紘るこうが居れば、また違った結論を導きだせたのかしら……」

 千代美は親子の様に並んで歩く留山と姉妹をじっと見詰めていた。


 留山には留紘というが居る。

 彼は留山の命により何年も前から魔界最下層で武者修行中とのことだが、魔界最下層から生きて戻れる保証はどこにもない。

 にも関わらず、留山が留紘を気に掛ける様子は無い。

 彼が戻る前にコカツが魔界ごとカルラコルムを消滅させる可能性もある。


 ――留山は全てを受け入れているのではなく、何もかもを諦めているのではないか。

(まるで、心の弾力を失っているようね……)

 千代美の心には、何か重たいものがのしかかっているようだった。



 そのようにマヤのが整うまでには、あの『お誘い』から一月以上経過していた。


 その間に贄の郷では龍姫を中心とした対鬼組織『武人会』が発足し、姫や始鬼、極が郷の住民に武術や武芸を伝える事により軍事力と結束力を高めていた。


 このままでは遅きに失するのではないか。

 ……そんな意見が出る前に千代美は動いた。

 交渉人として蓮門藍之丞を立て、人間界へと派遣することを決めたのだ。


 が、それに異を唱えたのが有栖羅市だった。

「行くのは藍之丞だけだってェ? そりゃねーよ千代美さん! あたしだってその龍姫ってのに会ってみてェよ〜!」


 盛大に駄々をこねる羅市。

 それだけでも面倒くさ……困ったものだが、なんとそこに不死美まで加わった事に千代美は驚いた。

「お姉様。わたくしも参ります。わたくしも、後学のために人間を良く知っておきたく思います。これは良い機会かと……」


 人間界移住には無関心と思われた不死美の申し出に、千代美は首を横に振った。

「……今回は、羅市に同行をお願いするわ」


 千代美は不死美の瞳に宿る藍之丞への思慕の情を不安視したのだ。

 姉妹だからこそ知る、不死美の情の深さ。

 そして、相手が龍姫という『女』である事を危険視すらしていた。


「……わかりました。藍之丞様、くれぐれもお気をつけて……」


 不死美はその裁定に異議を唱えなかったが、その瞳は昏く、深く、そして――。

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