第228話 〜姫の記憶〜
その夜、『贄の郷』は鬼の手に落ちた。
里の住人の約半数が逃げ遅れ、犠牲となった。
だが、その逃げ遅れの中にも奇跡的に生き延びた者も数名居た。
納屋に隠れ、その惨禍をやり過ごした里のある百姓・『つねお』はその時の様子をこう述懐する――
『あの夜の事だって? そりゃあ覚えてるよ何もかも。忘れられる訳がねぇ……え? 姫が村に現れたのがいつぐらいかって? イヤもうホント、真夜中だよ』
つねおは鬼に蹂躙される里と里の人々を目の当たりにし、ただ震えるしかなかった。
(……俺もすぐに見つかって、食われちまう……!)
そんな絶望に全てを委ねかけた、その時。
鬼たちが一斉に動きを止め、ある一転に視線を集中させた。
そこには、小さな人影があった。
火を放たれ、燃え盛る村の炎がその小さな人影を際立てていた。
『そっからだよ。ひっくり返されたのさ、一気によ。一気にゴロンってな。……何がって? 【勝ち負け】に決まってンだろ』
地獄と化した里に突然現れたのは『姫』だった。
姫が身に着けていた豪奢な着物はびりびりに破れていて、だがそれが作務衣の様にも、歴戦の武者が身に纏う甲冑の様にも見えたという。
……なんで姫様が?
逃げ
あの奇妙な出で立ちは?
様々な疑問がつねおを混乱させたが、本能的にそれだけは分かった。
――あれは、オレの知ってる姫様じゃない。
それが『龍姫』である事をつねおは後に知る。
しかし、知らないまでもその圧倒的な気迫と、その生物としての強さは本能的に理解できた。
鬼たちを前に、姫は吠えたという。
「ゆるさん……ぜったいにゆるさんぞ虫けらども! じわじわと」
途中まで言いかけたが我慢が出来なかったようで、姫は一気に飛び出すとまさに電光石火の勢いで鬼を斃しまくった。
『いやぁ、アレは凄かった。とにかく強えぇのなんの。百匹はくだらねぇ鬼の大群をたったひとりで……え? そんな大群相手じゃいくらなんでも殺されるかと思ったかって? 姫様が? ……ん~、やっぱりあんたらはワカってない! 龍姫様って
龍姫は誇張抜きに一晩中戦い続けた。
というより、暴れ続けた。
自分の何倍も大きな鬼を殴り倒し、自分の何倍も重い鬼をぶん投げ、まさに鬼神の如く戦い続け……そして夜が明けた。
『夜明け頃にゃあ鬼どもはみーんなピクリともしねぇ。姫様は本当にひとりで鬼を全滅させちまったんだよ。でも、姫様は息切れひとつせずに立ってたよ。しかも無傷で、堂々と胸を張って……それが、龍姫様なんだよなァ』
龍姫の言いつけ通りに夜明けと共に里へ戻った蓬莱永久達は、あれだけいた鬼たちが姫によって一匹残らず倒されている事もさることながら、その激しい戦いにより昨晩よりも更に破壊され尽くしたあらゆる意味で変わり果てた里の姿に腰を抜かす思いだった。
「ほ、本当に、鬼たちが……」
全滅。いや、殲滅と言っても良い有り様だ。
「ひ、姫様は……」
永久はひとり駆け出し、姫を探す。
すると死屍累々の一角に姫の姿はあった。
そしてもうひとり、何者かがいた。
……鬼が一匹だけ残っていたのだ。
しかし、それは『ひとりだけ』と言ったほうが正しいのかもしれない。
その鬼はヒトの姿をしていたのだ。
見たこともない形状の、瀟洒な黒い衣服。
逞しいがスラリとしたその長躯。
深い
その男は突然現れ、龍姫に向けて手を叩いていた。
「いやはや、素晴らしい」
その低いながらもよく通る声は、龍姫を褒め称えていた。
龍姫はその男の奇妙な行為に怪訝な瞳を向けていたが、一定の間合いを保っている。
それは鬼たちに対してこれだけの戦力差を示した姫が見せた、たったひとりの『鬼』に対する明らかな警戒であった。
「……なんの真似だ?」
姫は男が忙しなく叩く手を見て言った。
「ん? そうか。この国には拍手という文化はまだ無かったね」
男は友好的な笑みを浮かべているが、龍姫はそこに好感を持たなかった。
むしろ、妙な嫌悪感を抱いていた。
――龍姫には記憶がない。
自分が戦う存在で、それに見合う力があり、そしてそれが悪ではないという確信があるだけだ。
ただ、領主の娘であった頃の知識は残っていた。
日常における常識や社会情勢、そしてこの国を取り巻く状況……国外の知識も多少はあった。
(この男、南蛮人か?)
明らかにこの国のものでは無い装束と、異文化を漂わせる仕草。そして彫りの深いその顔立ちに、姫はこの男から異国の文化を汲み取っていた。
龍姫が転生したこの時代は南蛮貿易によって諸外国の人間や物品、そして文化などが日本に流入し始めた時代である。
だからこの男を南蛮人かと推察するが、今この場の状況にその整合性は無い。
そもそもこの男は突然現れ、そしてこの凄惨な状況に一切の頓着を見せない。
そして何より、彼から発せられる異様なまでの力が鬼と同質でありながらそれを遥かに超越している事実に、姫はこの奇妙な男をこの時点で『別格』と据えていた。
龍姫は自分の間合いを理解し、制空権の刃境で敢えて立ち止まったその男に最大級の警戒を以て問うた。
「貴様は何者だ?」
「先に名乗るのが礼儀では?」
男の嘲る様な
「……龍姫だ」
「おや? 私の記憶とは違うね」
男は懐から小さな箱を取り出し、その中から細い筒状の物を取り出すとそのまま口に運んだ。
長さでいえば楊枝には少し足らない程度……やはり、見たことのない物体だ。
そして男はその先端に『何か』で火を点けるとそれはすぐに燻り、細い煙を立ち昇らせた。
やはり、この男は何かが違う。
文化が違う。
常識が違う。
次元が違う……。
龍姫はその男が醸す異次元の空気に飲み込まれぬよう、足元に力を込めた。
「違うとはどういう事だ。 お前は私を知っているのか?」
「勿論。キミのように美しい女性を知らないわけがない。だが、私の知っているキミはもう居ないようだ」
ニヤリ。
男の顔が一瞬、下卑た笑みに曇った。
そして、姫はそれを見逃さなかった。
「……よく分からんが、女を見る目はあるようだな」
龍姫は美しいと褒められたのが嬉しかったのか緩く微笑むと肩の力を抜き、彼に歩み寄るべく軽やかに右足で踏み込み、
――後ろ廻し蹴りであった。
永久の目に見えたのは踏み込みだけで、それに続く蹴りも何も見えなかった。
そのあまりの
(……躱した?)
龍姫は男の首を刈る意気で蹴りを放った。
しかし、刈ったのは男の咥えたモノだけで、男はその蹴りの切れ味を目の当たりにしてもなお悠然と微笑を浮かべていた。
僅かに身を反らし、蹴りを躱したのだ。つまり、見切っていたという事だろう。
――この男は底が知れない。
姫は嫌な胸騒ぎを無理矢理に押し込めて言った。
「すまんな。そのにやけ
「……ふふ、思った以上に
男は口端に僅かに残った筒の先端をフッと吹き飛ばすと、どこか満足気に言った。
「私の知るキミより、今のキミの方が私好みだよ、龍姫」
彼は首元に巻いた帯の様な物を整えるようにしながら問うた。
「……今の蹴りは美しかった。キミの技に『流儀』はあるのかな?」
問われ、姫は一寸沈思。
それは考えるという一寸ではなく、閃く様な一寸だった。
「九門九龍」
姫の答えはその一言で、余計な装飾は無かった。
それは思い付きではない。
かと言って記憶していたわけでもない。
ヒトの体に生まれながらに目や耳があるように、姫の体と精神に
「……【九門九龍の龍姫】か。素敵な響きだね」
そして彼は姿勢を正し、深く頭を垂れた。
「私の名は『
意味の分からない名乗りだが、龍姫は敢えてそれを問い
「……
あの蹴りを見てすぐにこれ程の無防備を晒すか――。
龍姫はその余裕に僅かな恐怖すら感じていた。
「……龍姫。ひとつ断っておくが私はキミたちが言う『鬼』ではない。キミたちが言う鬼達のように、我々はキミ達に危害を加えるつもりはないよ」
留山はそこら中に散らばる鬼の骸に忌々しげな視線を投げた。
「……我々?」
「とはいえ、この鬼達は我々の住む世界の最下層の生き物……無関係とは言い切れまい」
姫の問いには答えず、瑠山は続けた。
「せめて後片付けはさせていただこう」
彼はゆったりとした歩みで龍姫から離れると、彼の足元から何か黒いモノが這い出し始めた。
その黒いモノは水のようでもあり煙のようでもあった。
やがて地面を覆い尽くすその黒。
蓬莱永久達はその異様に恐れ慄き半ば恐慌状態だったが姫はこの闇に害意がない事を本能的に感じていた。
「落ちつけ、蓬莱。これはおそらく、ヤツの『技』だ……」
その様子に、瑠山はやはり満足そうだった。
「では龍姫、また会おう」
「次は仲間も連れて来い。歓迎するぞ」
それは先程の問いに対する答えを促す言葉だ。瑠山はそれを理解した上で言った。
「……是非」
そして急速に闇が膨張し、いっぺんに霧散するとそこに瑠山はおろか鬼達の姿は跡形もなかった。
「……嫌な男だな」
龍姫はそう言って鼻を鳴らした。
あの男……『裏 瑠山』が呼んだ『闇』は、神通力の類だ。
奴らはそれを使いこなす。
それもひとつやふたつではない。
多種多様な神通力を奴らは持っている。
それは鬼の所業ではない。
むしろ、神の……。
本能的になのか、それを理解していた龍姫。
或いは、無理やりにでもそうしないとこの状況を飲み込めないからか……。
姫は焼け野原と化した里を見詰めて深く息を吐いた。
ふと見ると、足元に何かがある。
細い束の様なそれは、紐で縛られた人間の頭髪だった。
本体は無い。
鬼の腹の中か、この焼け野原の何処かにあるのか。
その頭髪が誰のものかはわからない。
だが、間違いなく鬼の犠牲者の一部だ。
「……無駄にはせんぞ……!」
姫は顔を上げ、永久を見詰めた。
「蓬莱……永久、と言ったな」
その悲しげな瞳に、真摯な瞳に、永久は息を飲む。
「は、はい!」
「まずは死者を弔おう。そして、全てを1からやり直すんだ。1からな……」
――それは今から500年程前の出来事。
虎子が龍姫と呼ばれていた頃の出来事。
その時代を知る者のひとり、有栖羅市もその時の様子を蓮門の宝才によって追体験していた。
羅市は出張先からの帰路の途中、新幹線の車中にて蓮門の宝才の影響を受けていたのだ。
(誰だ? 誰が蓮門の宝才を……つーか、新幹線ン中だぞ? どうやって……)
羅市は座席の背もたれにその体を預け、窓ガラスにもたれ掛かるようにして流れる景色をぼんやりと眺めた。
(……この感じ……須弥山様か……!?)
宝才の気配は遥か彼方だ。
明らかに射程範囲外。
しかし、もろにその宝才の影響を受けている。
それは、蓮門の宝才が何者かによって『強化』されているからとしか説明できない。
そして、そんな事が出来るのは……。
(なんで、なんであたしにこんなモノをみせるんだ……!)
羅市も過去を見ていた。
それは、虎子の知らない過去。
龍姫も知らない過去。
……羅市の、ある日の記憶。
羅市はあの日の事を思い出していた。
無二の親友である彼女との、ある日の記憶……。
(ああ……ほむら……!)
『ほむら』
それは羅市が自ら封印した記憶の中の存在。
マヤの神である
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