第225話 さようなら、虎子

 留山の無骨な指が虎子の肌に食い込み、息苦しさより脳の酸欠を意識する虎子。


 しかし、そんな事よりも突然鮮明になる自らの記憶に身震いしていた。


「思い出したかい、姫。須弥山様の時もそうだったのでは? 最近になって、そうやってキミは少しずつ何かを思い出している。違うか?」

 留山は優しく囁く。それだけでも虎子は崩れ落ちそうな快感を得るが、彼の言葉を聞き過ごす事は出来なかった。


「な、なに……? どういう事だ……!」

「例えるならそうだな……『封印が解けかけている』のさ。きっとキミは『ちよも』の事も忘れているだろう。『ちよも』だよ。『千代美ちよも』」

「ち……よ……も……?」

「おいおい、の名を忘れてはいけないだろう。だが、今のキミならきっと思い出せる。さぁ、記憶の扉を開いて御覧……」


 虎子は窒息間際だと言うのに、既にその苦痛を感じていなかった。

 それよりも重要な『何か』が、虎子の意識を支配していく。

(そうだ……私は忘れていた……いや、見失っていたんだ……!)


 急速に蘇る過去の記憶。

 それは生命の危機をも飛び越えるほど鮮烈な認識の再構築だった。


「ちよも…………千代美ちよも……!」

「そう。不死美のの、千代美だよ」


 金の髪。

 絶世の美貌。

 闇のように黒い


 同じだが、違う。

 対象的だが、違和感は無い。

 最強の美に比肩する、無敵の美。

 平山家当主。


 全知全能の大魔法使いと謳われた美しき魔女・平山ひらやま千代美ちよも


 500年前、ヒトと鬼の宥和に向け尽力し、和平を手の届く位置まで引き寄せた功労者。

 しかし和平目前で突如失踪し、それを引き金とした政治的バランスの喪失がを生んだ。


 失踪の原因は分からない。

 暗殺の可能性すらあった。

 行方不明。

 生死不明。


 何にせよその後の数百年間、今日こんにちに至っても千代美ちよもが姿を現すことは無い。



 あの時、結果的に和平は反故になった。

 それはその後500年に渡って仁恵之里に横たわる、人間と『鬼』を隔てる大きな溝となる。


 だからマヤの間では平山千代美の存在はタブーとなったと伝え聞く。

 不死美をおもんぱかり、誰もが千代美の記憶に蓋をしたのだ。


 だが、すべてが消えて無くなったわけではない。

 少なくとも人間にとってはタブーではない。

 それなのに、虎子は忘れていた。

 ……否。

 蓬莱常世も、オーデッドも、皆が忘れ去っていたのだ。


 500年前を知る者ならば、千代美を知らないはずは無いのに。



「キミは忘れているのではない。だけだ」

 留山は虎子をいたぶりながら続ける。

「キミだけではない。大勢の人間が故意に千代美の存在を認識出来なくされている。誰がそんな事をした? それは千代美本人さ」

「なぜ……なぜそんな事を……」

「思い出さない方が良いこともある。知らないほうが良いこともある。出会わない方が良いこともある……運命とは皮肉だね。だが、私としては好都合だった。、これは面白くなってきた、と思ったよ」

「なに……? お前は一体、何を言っている……!」

「私が欲しいのは『最期の快楽』さ。もうすぐこの世は無に帰すんだ。ならば、上等な酒でもりながら楽しみたい。キミもそう思わないかい? 


 留山は虎子を引きずり倒し、馬乗りになって片手で彼女の首を締めながらもう片方の手で虎子の頬を優しく撫でた。

彼女が守りたかったものを、私は是非とも壊してみたい」


 留山の瞳は昏く、混沌としている。

 寒気を催す視線は一体どこを見ているのか分からない。

 その言葉の対象が誰なのかも分からない。

 虎子はその正体不明の闇に身の毛もよだつ心持ちだった。


「そうだ、その第一歩としてを壊そう」

「なっ……!?」

「身も心も壊してやろう。眼の前で壊してやろう。二度と立ち上がれないように壊してやろう……!」


 留山は不気味な程に興奮していた。

 彼は虎子の首を締めたまま再び立ち上がり、今度はネックハンギングツリーの状態で虎子を締め上げた。


「き、貴様……リューに指一本でも触れてみろ! 殺すぞ!!」

「ほう? キミは随分とあの娘を大切にしているのだな。本当の姉妹でもなんでもないというのに」

「そんな事は関係ない! リューは私の全てだ!」 

「だからこそ壊したいのだ。そうすれば、もきっと壊れる」

「……アキの事か!?」

「そうさ。アキくんの眼の前でリューさんを壊してやろう。キミの亡骸の横で犯してやろう。死んだほうが増しと思える快楽を与えてやろう。その時、リューさんは、アキくんは、泣くかな? それとも、笑うかな? あは、あはは、アハハハッ! ハゥッ!?」


 瞬間、留山の身体がびくんと跳ねた。

「……留山!」

 虎子の右脚が、留山の股間を深々と蹴り上げていたのだ。

「お前はここで殺す!」

 虎子の咆哮は、まさに虎のそれだ。

「いま殺す!! 殺してやる!!」

 鬼の形相そのもので怒りを爆発させた虎子は留山の宝才すら吹き飛ばしたが、留山はそんな虎子を見て破顔した。


 ニチャッ……

 粘ついた音を口元から零し、留山は笑っていた。

「姫ェ……それでこそ私の姫だ!!」



 ドッ!


 鈍い音。

 嫌な振動ゆれ

 生命を削る、この感覚。


 その一瞬で全武人が身構えた。

 状況確認よりも、まず行動した。


 巌は条件反射的に護符を抜き、籠目守りの結界で武人会本部を外界から隔絶した。

 澄はそれに呼応するように護符による状況把握を試みたが、その必要は無かった。


 突如、彼女の目の前の壁を轟音とともに破壊しながら留山が吹っ飛び、それを追撃するように虎子が疾走したのだ。

「虎ちゃん!?」

 澄の声はさらなる轟音と破壊にかき消された。

 虎子と留山は障害物を度外視し、邪魔なものは蹴散らしながら既に戦闘状態だったのだ。


「ふははははっ!」

 留山の高笑いと共に、今度は虎子が吹っ飛んだ。

姫! 歌ってくれぇぇ!」

 留山の蹴りが虎子の顔面を捉え、虎子はその衝撃をもろに受けて壁をぶち破り、部屋も突き抜けて庭に投げ出されてしまった。


 じゃりじゃり!!


 枯山水の白い玉砂利に突っ込む虎子。

「おいおいどうした姫! 手応えがまるで無いぞ!」

 留山はあっという間に彼女に追いつき、起き上がろうとしていた虎子の髪の毛を乱暴に掴んでそのまま後方に引き倒す様に叩きつけた。

「あがっ!!」

 後頭部を強打し、喘ぐ虎子。

 反対に、留山は寂しそうな声を上げた。

のか? それとものか? つまらないなぁ」


 白む意識で虎子は留山の言葉を反芻していた。

 彼の言う通り、今の自分にはそれほどの力は無い。

 今のこの状況がそれを証明している。


 勝てないまでも、敗けることは無い。最悪でも刺し違える事はできる。

 虎子はそうたかを括っていた。


 だが、実際はどうだ?

 手も足も出ないじゃないか。


 虎子は自身の衰退ぶりに絶望し、これから起こるであろう惨劇に対して無力を晒す自分の弱さに失望していた。



 その頃には本部にいるほぼ全員がその場に集まっていた。

 武人達は全員が臨戦態勢だが、状況が読み込めない。

 そんな中、リューはまともに歩けない体にムチを打ち、庭を望む縁側まで出てきていた。

「お姉ちゃん!!」


 だが、動けない。

 状況不明も当然あるが、それ以上に虎子が人質の様な格好なので動きたくても下手に動けないのだ。それは皆も同じだった。


 全員が顔面蒼白だった。

 最悪の事態を越える最悪の事態だ。

 まさか、虎子と留山が……!


「お?」

 留山がリューに気がついた。

「リューさん。キミはの秘密を知りたくないかい?」


 突然名指しされ、しかも意味深な言葉で煽られたリューの『訳が分からない』というそのものの顔が可笑しかったのか、留山は面白いことを考えたとでも言いたげに声を殺して笑った。


「リューさんに限らず、ここにお集まりの諸君。諸君らは、一之瀬虎子の『正体』を知りたくはないか? 正確には、彼女の過去だが」


 ざわつく武人会本部。

 危機的な緊急事態だが、留山の言葉は興味をそそられた人間の耳にはよく通った。


 リューは困惑した。

 姉の正体?

 姉の過去?

 留山は一体全体、何を言っているのか。


 興味と混乱。好奇と混沌。

 留山はそれらを心地よく思い、決心した。

「よろしい。それではショータイムだ! 最後ぐらい、皆で楽しもうじゃないか!!」


 留山は高らかに宣言し、真昼の太陽が落とした虎子の影を踏んだ。

「!?」 

 その途端、虎子の体から力が抜けた。

 その代わりに、何かが体にまとわりつく感覚を覚えた虎子の汗が冷える。

(これは……宝才か!?)

 感覚的には宝才。しかし、虎子の知らない宝才だ。


 留山はその疑問をお見通しとばかりに優越感たっぷりな笑みを見せた。

「これは赤城あかぎ家という、今から800年程前に途絶えた家系の宝才だ。対象の影を踏むことで踏まれた者を自由自在に操る、とてもユニークな宝才なんだよ」

「貴様……やはり他家の宝才を……!」


 留山はそれを否定も肯定もせず、右手をゆっくりと胸の高さまで挙げた。

 すると、虎子の右手も同じように挙がった。

(身体が勝手に……!)


「ふふ、面白いだろう姫。わざわざこんな事をしなくてもキミの身体を操ることは出来るが、こっちの方が観客にとっては面白いと思ってね」

 留山は心底楽しそうに虎子を操る。

 虎子は必死に抵抗するが、何も出来ない。

 彼女の身体の自由は、既に留山の手の中なのだ。


「お姉ちゃん……!」

 リューが息苦しそうに呼ぶ。


「虎ちゃん……!」

 澄がその身を案じて呼ぶ。


「虎子……!」

 アキが何も出来ない事を口惜しそうに呼ぶ。


「みんな……!」

 虎子は不安に圧し潰されそうに仲間たちを呼ぶ。


 虎子は怖かった。

 これまでひた隠しにしてきた自分の正体。

 嘘に嘘を重ねたこれまでの自分。

 そして、もうすぐ尽きる自らの生命。

 いつかはリューに伝えなければならない、自らの最期。


 それをこんな形で……!


「さぁ、自分でやりたまえ」

 留山が低く呟き、

 すると虎子の手も留山と同じように指を鳴らす形になり、中指と親指に力が籠もっていく。


 激しく拮抗する力はすぐにでも開放されてしまうだろう。

 そうすれば、否応なく



「リュー……!」

 虎子の瞳から涙が落ちた。

 不安そうなリューの顔が、霞んで見える。

「私は……私は……!」

 震える唇が紡ぐのは最後の言葉だ。

 皆が知る、一之瀬虎子としての最後の言葉。

 それは別れの言葉か?

 それとも愛の言葉か?

 何れにしても留山はそれすらも許さなかった。

「開演の時間だよ、姫」


 留山の無慈悲な声が促す。

 その瞬間、虎子は唇を一文字に結び、リューを見詰めた。

 それまでの悲壮に溢れた顔とは別人のような、それは武人の顔だった。


「お姉ちゃん……!」

 リューはその表情に、瞳に、確かな姉の意思を感じていた。



 パチッ……!!



 虎子の指が鳴る。




 すると、リューの視界にさっきまでの光景が無かった事になったようなモノが広がった。

 それは『スクリーン』だった。

「え?」


 リューの短い疑問の声は、この広い映画館の高い天井に吸収されるように消えていく。


「こ、ここは……?」

 ここは映画館。

 眼の前には巨大な白いスクリーン。

 観客は自分だけ。


 しかし、何故か理解できた。

 これから始まる『物語』が、姉の過去であることを。

 いや、姉の『真実』であることを。


 すぐに上映開始のブザーは鳴った。

 照明が落とされ、暗闇は銀幕が支配する。


 その頃には、リューはもう落ち着いていた。

 さっき見た虎子の表情から汲み取ったのだ。


 姉は何かを伝えようとしていた。

 なら、見届けようと。


 そして始まった物語。


 それはまず、いくさの場面から始まった。


 時代背景は、一見すると戦国時代といったところだった。


 大規模な戦だった。


 ただ、戦っているのは人と人ではなかった。


 戦っているのは、人と鬼だった。





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