第224話 人が狂う花の薫り

 虎子と留山は有馬家の長い廊下をひたひたと歩いていた。

「どこへ行く? 姫」

「そうだな、ロビーにでも行くか」

「ロビーか……私はその辺りの縁側でも構わないが?」

「日焼けしたくないんだよ。私はロビーが良い」

「……そうか。そういう理由なら仕方がないな」


 虎子は出来るだけ医務室から遠ざかりたかった。

 リューもそうだが、今は峰を遠ざけたかったのだ。

(理由は分からないが、あの怯え様は尋常ではなかった……留山め、峰に何をした?)


 余程猥褻な行為、乃至ないしは変態的言動に違いない。

 場合によっては即通報……虎子はもしもの時は留山を絶対に実刑へ追い込むと固く心に誓った。



「しかし、今日は実にめでたいね」

 虎子の少し後ろを歩く留山は呑気な調子で言い、続けた。

「和平への道も一気に拓けた。それに、リューさんの素晴らしい成長も見られた。良い事尽くしだ」

「平山の代わりがお前でなくて有栖ならなお良かったがな」

「本当は嬉しいくせに。素直になりたまえよ」

「お前マジでちょっと黙れ」

「ふふ、キミは本当に変わらないね。天邪鬼も昔のままだ」

「……」


 とりあえず無視だ。

 こういう手合には無視が一番。

 虎子は振り返ること無くずんずん進むが、突然鼻腔をついた煙草の匂いに思わず振り返った。

「……おい留山。今すぐ消せ」

 留山はいつの間にか煙草に火を点け、紫煙をくゆらせていたのだ。


武人会本部ここは基本禁煙だぞ。吸いたければ喫煙所まで我慢しろ。ていうかこのご時世に歩き煙草とか有り得ないだろ」

「おっと、これは失礼。つい癖で」

 留山はすぐに携帯灰皿で煙草を消したが、虎子の苛立ちはすぐには消えない。

「癖で、じゃないだろ。そういう振る舞いがお前自身の好感度をガンガン下げてるんだぞ。いい加減自覚しろ」 

「はは、好感度か。キミも私が嫌いかい?」

「ふん。聞くまでもないだろう」

「聞かせてくれ」

「……はぁ?」

「言いたまえよ」

「……何をだ?」

「どうした?」

「……」

「言いたまえ。私の事など大嫌いだと、その口で」

「……」


 虎子はこのに背筋が凍りついていた。

 言葉が出ないのだ。

 というより、留山に対して拒絶の言葉が出てこない。

 その意思はあるが、発言が出来ない。

 虎子はごくりと生唾を飲むが、それで何かが変わるわけでもなかった。


 留山は虎子の様子からそれを確認したのか、勝ち誇った様な笑みを浮かべ、彼女に近付く。

「おや、嫌いではないのか? では、好きかい?」

 留山はスッと手を伸ばし、虎子の唇を優しく撫でた。

「っ!!」 


 瞬間、虎子の全身に電撃のようなほとばしった。

「さ、触るなっ!」

 虎子は逃げるように飛び退くが、運悪くそこは壁際だった。

 どん、と背中に軽い衝撃。硬い壁。

 正面には留山が迫っている。

 ……虎子は逃げ場を失ってしまった。


「そうそう、頑張りたまえ。抵抗が無いのもつまらないからね」

「なに……?」

「半分程度の濃度だからね。意識もはっきりしているだろう? それがまた余計に堪えるかもしれないがね」

 留山のその言葉で虎子は察した。

(濃度?……まさか、毒か!?)


 留山は悠々と虎子に近付くと、彼女の長く美しい黒髪をその無骨な手でもてあそび、愉悦そのものの表情かおで言う。

「……感付いたか。 でももう遅い。キミはもうんだよ」

 留山の掌が髪をかき分ける度、虎子の背筋がゾクゾクと震えた。

「ぅう……っ!」

 快感に震えたのだ。

(これは……催淫性の毒……?!)

 そのけがらわしい手を払い除けたくても出来ない。

 至高の快楽をもたらすであろうその手を、払いのけられるわけがないのだ。



『裏家の宝才』は、未だに謎が多い。

 その範囲、継続時間、種類、すべてが未知数な上に、留山の操る宝才自体がする可能性があるからだ。


 宝才は家伝の技法であり、門外不出とされている。そもそも血の繋がりか『心と体、両方の契り』が無ければ伝承はされないという。


 しかし留山はなんらかの方法で他の家の宝才を自由自在に操るというがあった。


 実際に宝才を使い、宝才を知る虎子はそれを否定しているが、真偽の程は未だ不明だった。


 ただ、留山はひとつの宝才を公に使用している。噂が本当ならそれも数ある宝才のうちの1つかもしれないが、彼はそれを『裏家の宝才』と公言していた。


 その宝才が『手にしたあらゆる物質の武器化』だ。


 『裏が握れば例え花でも人を刺す』と言い伝えられる裏家の宝才。

 であれば、煙草の煙に毒を含ませる事など造作も無い事だろう。



(留山が煙草を吸ったのはこれが目的だったか……)

 虎子はせり上がるような快感に歯を食いしばって抗うが、それもいつまでつか。

 なにせ、留山の掌がさらさらと髪を梳かす様に動くだけでぞわぞわとした快楽が広がるのだ。

(身体が過敏になっている……それも、極度に……!)


 留山に触られている。

 普段なら極限の嫌悪感を催すのだろうが、今に限ってはもっと触られたいと身体が快楽を求めてしまう。

「ふふ、大人しくなったね、お姫様。このは本当によく効く」

 留山は虎子の美しい黒髪を優しく掬うと、それを口元に寄せるようにして目一杯鼻で息を吸った。

 虎子の髪の薫りをたのしんでいるのだ。

「……ン〜、なんと芳醇な……」

「や、やめろ……この変態……っ!」

「変態? 褒め言葉だね」


 留山は髪から手を離すと、今度は虎子の耳元に自らの顔を寄せ、やはり匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせた。


 ふっ、ふっ、と留山の鼻息が耳をくすぐたびに、虎子の視界がパチパチと放電するよう瞬き、耐え難い快感で下半身が痺れる。


 声を出してはいけない。

 いけない。

 虎子は際限なく襲い掛かる快楽の波に飲み込まれまいと歯を食いしばるが、その唇から一筋のよだれがつぅ、と糸を引くのを意識した途端、思わず声を出してしまった。

「っ!」


 それは「あ」とも「う」ともつかない濁った声だったが、快感に理性が圧し潰されそうになっている何よりの証拠だ。

「いい声だ……『武神』と謳われようが、所詮生き物。快楽には勝てない。それは『武』の神様であろうと、『マヤ』の神様であろうと、同じだね」

「な、なに?」

「おっと、これは秘密だった」


 突如、虎子の瞳の焦点がぶれて上を向く。

 全身を羽根で擽られた様なくすぐったさと痺れるような快感に思考は一瞬で白み、彼女の声は普段はとても出せないはしたない音色を奏でた。

 留山の熱い舌が虎子の耳をねぶり始めたのだ。

「ほぅら、早く私をどうにかしないと誰かにこの痴態を見られてしまうよ? あの一之瀬虎子が、仁恵之里の高嶺の花が、こんなにもだらしない顔で喘いでいるんだ。大ニュースになってしまうよ?」


 まるで大群の兵士に攻め落とされる城のように少しずつ削られていく理性。

 留山の下品な言葉で煽られる羞恥心。

 それに対し、何も出来ない虎子。

 彼女の目には恥辱の涙が滲んでいた。


藍之丞あいのすけが死んでからなんだね。よく分かるよ……分かってしまうんだよ、姫」

 足に力が入らず、本当ならへたり込んでいるはずの身体は背中の壁と留山が無理矢理股下にねじ込んでいる彼の太い太腿に支えられて崩れる事すら許されない。

「寂しかったんだろう? その寂しさを埋めるでもなくただ耐えて……いや、或いは藍之丞に瓜二つなアキくんにそのはけ口を求めたりしたのかな?」


 耳と同時進行で身体全体をまさぐられ、段々と荒くなっていく留山の鼻息。

(このままでは、まずい……!)


 どろどろに溶けた腰が怖かった。

 自分の精神こころではなく、身体からだが留山に屈伏しようとしている。


 これまでにない異質な危機感を抱いた虎子は必死に抵抗するが、全身を隈なく刺激する猛烈な性的快感の前には何もかもが弱々し過ぎて、全く効果がなかった。


「所詮、キミも『女』だな」

「こ……殺してやる……!」

 必死に腕を上げ、手を開き、留山の首に両手を掛けた虎子。

「殺してやる……殺してやる……!」

 必死に留山の首を締め、そのまま握り潰す覚悟でその手に力を込めるが、留山にとっては優しく揉まれている程度の感触だった。

 虎子の身体が留山への攻撃を拒否しているのだ。


「諦めたまえ姫。そして安心したまえ。とことんまで堕としてあげよう。自分で言うのもなんだが、私は慣れているからね。自信もあるよ」

「殺す……お前はここで殺してやる……!」

「いいね、その顔。その心意気。キミの様に鼻っ柱の高い女を壊すのは本当に楽しいよ。を思い出すね」


 ぴたり。

 虎子の動きが止まった。

 反対に、彼女の脳が急激に動き出す。

 記憶の奥底に眠る『ほむら』に関する情報が浮上し、それを封じ込めていたがばらばらと砕けていく。


「……ほむら……『大分おおいたほむら』か!?」

 慄く虎子に留山は寒気を催す邪悪な笑みで答えた。

「そうだ。思い出したかね? 藍之丞の親友だった大分おおいた水嶺すいれいの妹だ。あの女も気が強かったが、最後は可愛いだけの『メス』だったなぁ」

「留山、何を……ほむらに何をした……!」

「何を? 美しい女性に対してすることなんてひとつだろう?」


 突然、留山は虎子の首を鷲掴みにして呻くように笑った。

としたのさ。地獄にね」






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