第220話 九門九龍のリュー
それは、『武』に未熟な者には見えなかった。
しかし、熟練した者は
何を?
『龍』を。
武人、マヤ、そしてその従者は見た。
リューが『龍』になったのだ。
砂塵舞い散る超低空戦。
枯山水の白い玉砂利が跳ね回り、太陽の光を反射して眩しく煌めく。
その中心、その光の中で大蛇の様にのたうつ白い影。
リューだ。
その白に染まるまいと踊る黒い影。
乱尽だ。
ふたりの攻防は最高潮を迎えていた。
リューの白いワンピースが、白い玉砂利が、白い輝きを放つ。
神々しいまでの苛烈さで、荘厳なまでの激情で、敵を食い千切らんと嵐のような渦を巻いている。
その姿はまさに龍。
その龍に、黒い影は怯えているように見えたという。
呂綺乱尽はマヤ最強と謳われる呂綺家の当主として、
その年月、およそ千年。
その千年。
彼は全ての戦いに勝利した。
苦戦もあった。辛勝も少なくない。
ほぼ相討ち……結果的に勝利したという事もあった。
勿論、何度も命を落とす危機に面した。
だから、今更『死』は怖くない。
敗北すら怖くない。
そんな彼が今日、初めて『敵』を怖いと感じた。
ほんの僅か。
ほんの微か。
自分でも曖昧に思える程度の恐怖。
それだけに鮮烈だった。
正体不明の
目の前の、たった17年しか生きていない、生物として未熟な生き物に抱いた微かな恐怖。
彼にとってそれは大きな衝撃だった。
感動と言っても差し支えない。
だからこそ、彼は間違えたのだ。
「……くっ!」
乱尽はとにかくこの嵐から抜け出さなければと焦った。
だから攻防の僅かな
一旦距離をとってこの流れを切り、リューの勢いを削ごうと考えたのだ。
それは普段の彼からは有り得ない選択だ。
心の隙間に芽生えた恐怖が、彼の判断を誤らせたのだ。
そして、その逃げの選択はリューにとって最大の好機だった。
バックステップにより、攻めの意識を失った乱尽。
それを追撃するように、その心の綻びを狙いすましたように、リューが砂塵をぶち破って乱尽の眼前に飛び出したのだ!
彼女は十分に溜めていた。
そして激しい踏み込みが彼女の進撃を確たるものにする。
十分過ぎる程に引き上げて、力を
円弧を描き、地面を舐める様に後方から振り上げられるその拳。
乱尽はその拳に確かな上昇気流を覚えた。
その瞬間。
乱尽はその目に有り得ないものを見た。
烈火の如き激烈な意思が、リューの顔をまるで別人のそれにしていたのだ。
それは歴戦の武人の顔。
既に人ならぬ領域の顔。
そこは幾千幾万の戦いを経た、
その顔を一言で表すのであれば、『鬼神』以外には有り得なかった。
そんな『鬼神』の放つ熱風の様な闘気に、乱尽の銀髪が逆立つ!
「九門九龍ッッッ!!」
リューが叫んだ。
その技は、
!
その技こそまさに昇龍!
リューの限界まで握り込んだ右拳が振り子の勢いと全身のバネを存分に活かした跳躍により加速され、乱尽の顎で爆裂したのだ!
ガゴッッッ!
鈍い音!
激しい衝撃!
乱尽の頭部が激しく跳ね、その銀髪が舞った!
渾身の『勝鋼鍛』は真芯を捉え、その威力を微塵も余すこと無く乱尽に叩き付けたのだ!
超絶無比のアッパーカットはクリーンヒット……いや、クリティカルヒットと言って差し支えない完全さだった。
乱尽の頭部は大きく仰け反り、身体は伸び、足底は地面から僅かに浮いていた。
それはダメージを受け流したからではない。許容を超えたダメージの逃げ場が、そこにしか無かったのだ。
静寂だった。
神々しいまでの光景に誰もが言葉を失ったのだ。
天を突くように掲げられた拳は勝利の雄叫びだ。
それは人間が到達出来る極み………いや、その先に至る扉を開いたのかもしれない。
遂に、リューは成し遂げたのだ。
その偉業を。
そしてなによりも、彼女の悲願を。
顎を打ち抜かれた乱尽は力無く、ゆらりと
そしてがくんと膝が落ち、そのまま玉砂利の上に崩れ落ちる。
ざん!!
砂利が鳴った。
崩れ落ちたはずの乱尽の足元が大きく開かれ、その身体を支えている。
乱尽は確かに崩れ落ちたが、崩れ去ってはいなかったのだ。
乱尽のとった体勢は『深く腰を落とす』という表現が最も相応しい。
しかも空手の正拳突きの様に構え、その意志は明確であった。
ただ、異様だったのはその構えた『拳』。
握った右拳の中指だけを立て、それはまるで刺突の武器の様にも見えたのだ。
それを見た魔琴は青ざめて叫んだ。
魔琴はその技を知っていたからだ。
「パパ!!」
その先の言葉は間に合わなかった。
「ダメ」なのか。
「やめて」なのか。
今となっては分からない。
その質の違う殺気にリューの背筋が凍る。
しかし、防御は間に合わない。
だから、彼女は覚悟を決めた。
乱尽は狙った。
アッパーカットで開いたリューの身体、その中心。
人間の中心。
『気』の中央。
つまり、
「呂綺家宝才・『
乱尽は叫んだ。
魔琴ですら初めて耳にする、それはまるで絶叫だった。
それ程の覚悟で使用した技なのだ。
『鳳凰輪帰』――シンプルかつ無駄の無い「中段突き」である。
しかし、その異形の拳は限界まで捻られ、錐揉みをするように打ち出されていた。
立てた中指が対象に突き刺さり、より奥深くまで到達するようにするためだ。
ズンッッッ!!
鈍い音。
地鳴りの様な
空気がビリビリと震動している。
乱尽の宝才が世界を震撼させたのだ。
一瞬の突風の様なそれが過ぎ去った時には全て終わっていた。
乱尽の尖った中指が一切の躊躇無く、リューの
息を飲む光景に誰もが声を失った。
なんという幕切れか。
なんて残酷な……。
誰もが沈黙した、その時だった。
「
突如響いたのは、虎子の絶叫だった。
痛い程の悲痛な叫びだった。
だから観衆は皆、唖然とした。
なぜ『止せ』なのか。
しかし虎子は続けた。
「やめろ! リュー!!!」
その言葉に、皆がリューに注目した。
まだ終わっていないのか!?
その場の全員が状況を測りかねた。
しかし、リューは確かに腹を刺し貫かれている。
乱尽もインパクトの瞬間のまま、未だリューの腹から拳を引き抜いていない。
だが、リューはまだ立っていたのだ。
それだけではない。
両腕を横に開き、掌も開いていた。
無防備、というよりも何もかもを受け入れる……そんな格好だった。
リューは覚悟していた。
だから決めたのだ。
刺し違える覚悟を。
再び、禁を破ると。
「……」
この感情は言葉には出来ない。
喜怒哀楽とは全く別の感情だ。
だから想う。
それしかないから。
リューは万感の想いを込め、息を吸い込み、最後の技の名を叫んだ。
「九門九龍・『
中国武術に「八不打」というものがある。
生命の危険があるので打ってはならない八つの部位という意味だ。
そのうちのひとつ、『耳』。
耳は多くの
『九門九龍・小鳥遊』はその耳を
九門九龍に於いても『小鳥遊』はその危険性から禁じ手とされている。
リューは魔琴にも禁じ手を使ったが、その父にも使わざるを得なかった。
そして『小鳥遊』は、魔琴に使った『
リューが決めた『覚悟』とは、単に技の使用だけではない。
彼女はむしろ、その先を見据えていた。
万が一の時は、一生をかけてその罪を償うと。
だからリューは迷わなかった。
中段突きで屈んだ乱尽の頭部は最適な位置にある。
これ以上は無い。
この瞬間以外は無い。
今しか無い。
だからリューは全力で打った。
バチィィッッッ!!!
凄まじい衝突音だった。
いや、破裂音か。或いは爆発音か。
そう、掌から発生したのだ。
「……」
リューは無言でぴたりと合わさった自らの両掌を見つめていた。
そこに乱尽の『耳』は無かった。
乱尽は頭を下げ、リューの『小鳥遊』を回避していたのだ。
通常ならそんな避け方はしないだろう。
この姿勢で頭を下げれば反撃の膝で顔面を打ち抜かれてしまう。
しかし、乱尽は頭を下げた。
反撃が来ないと確信していたのだ。
そして実際、反撃は無かった。
リューにはもう、そんな力は残されていなかったのだ。
「……」
リューは無言のまま、合わされた掌を見つめていたが、やがてゆっくりと目を閉じ、俯いた。
その姿は合掌し、神仏に祈りを捧げている姿に見えたという。
そして乱尽は跪き、彼もまた崇高なものに敬意を払っている様だった。
リューは合掌したままゆらりと揺れ、乱尽の背中に寄りかかった。
限界を迎えたのだ。
しかし、既に身体を支える力は無い。
彼女はそのまま滑る様に乱尽の背中から零れ落ち、白い玉砂利の上に横たわり、沈黙した。
乱尽はゆっくりと立ち上がり、動かなくなったリューを一瞥し、そのまま空を見た。
乱れた呼吸のまま、ぼんやりと空を見つめる彼の目には何が見えていたのか。
それは誰にも分からない。
無言。
静寂。
誰も何も言えない。
言葉もない。
誰も居ないのかと思えるほど静かで広い枯山水に、乱尽の深い呼吸の音だけが響いていた。
リューが挑んだ仇討ちだった。
しかし、最後に立っていたのは呂綺乱尽だった。
リューは敗れたのだ。
それはもう、覆らない事実だった。
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