第192話 お前は誰だ
午後十時。
気温もすでに氷点下だが、蓬莱神社は慌ただしく動いていた。
アキと円の安否は依然として不明のままだったが、あの謎の爆発の発生地点は特定できている。
であれば、この状況で
刃鬼は捜索隊を組織し、二次遭難が起きないように入念に計画を立てていた。
「私も行きます!」
リューは捜索に加わると言って聞かなかったが、刃鬼はそれを頑なに認めなかった。
「リュー、気持ちはわかるが夜の山は危険だ。ここは武人会の捜索隊に任せなさい。彼らは相応の訓練を積んでいるんだ。山の素人が彼らに同行しても足手まといになるだけさ」
「でも……」
「会長命令だよ。ここでアキくん達を待ちなさい」
「……」
そんな事を言われてしまっては引き下がるしかないリューを、澄はぎゅっと抱きしめた。
「ごめんリュー……あたしのせいでアキが……」
決して澄のせいではない事なんてリューも十分わかっている。それでも自分を責める澄に、不死美が優しく微笑みかけた。
「大丈夫ですよ澄さん。国友さんも、円さんも、きっと無事にお戻りになります」
「ふーみん……でも、あれからもう一時間だよ? どんどん寒くなってきてるし、雪も降ってきそうだし……もしもの事があったら、あたし……!」
「信じましょう。彼らの強さを」
泣き崩れそうな澄を不死美は優しく抱きしめ、勇気付ける様にその頭を優しく撫でた。
その姿にリューは何とも言い難い感動のようなものを覚えていた。
まるで絵画の様だ。美しさと慈しみに溢れている。
そして心から澄を思い、慰める優しさに満ちた不死美の姿に、今は亡き母を見る心持ちだったのだ。
(不死美さん……)
今までも平山不死美に対して尊敬の念を抱いていたリューだったが、今はこれまで以上に『人間的な』敬愛を感じていた。
捜索隊の準備も完了し、いつでも出発できるという声が聞こえてきた。
皆が不安の中に期待を抱き、気を引き締めたその時。
不死美はふと顔を上げ、暗い林の奥を見つめて呟いた。
「……流石は名演出家。状況も、タイミングも、申し
しかし、その声は誰にも届くこと無く闇に溶けて消えた。
だが、その林の奥に
だから虎子が、常世が、刃鬼が、巌が……もちろん澄も、普通の人間とは桁違いの鋭敏さを持つ武人全員が一斉に顔を上げて暗い林の奥、その一点を皆が皆、示し合わせたように凝視した。
その異様な様子に捜索隊員や武人会の職員たちはざわめくが、彼らは数秒遅れてその異変に気が付くことになる。
ざく、ざく、ざく……
雪を踏み締める足音が暗闇から響いてきたのだ。
誰かがその場所に照明を当てた。
暗闇に浮かび上がったのは円の姿だった。
澄は崩れそうな声を零した。
「まどか……」
帰ってきたのは円ひとり。
それはつまり、アキの敗北……或いは。
だが、それを否定するようにリューは声を上げた。
「アキくん!!」
円が近づいて来るにつれ、神社全体に用意された照明が彼の全身を照らし出す。
「アキ!」
澄が甲高い声で叫んだ。そこにはアキもいたのだ。
……ただ、アキは円の背中に居た。
照明が照らし出したのは円と、彼に背負われた格好のアキだったのだ。
おお! と歓声が上がる。
そして皆が一斉に円に駆け寄った。
その中で最も早かったのは澄だった。
「まどか……」
澄は満身創痍の円よりも、彼の背中で力なく目を閉じたままのアキを長く見つめていた。
円はそれに気が付き胸が痛かったが、彼はそれすらも受け入れる覚悟で帰ってきたのだ。
それが敗者としての、蘭円のプライドだった。
「……敗けた」
円が呟く。澄は一瞬、何の事か分からなかった。
「え? 敗けたって……」
「さっきまで
円は泣いていた。
それは屈辱か、悔しさか、それとも他の感情か。
声を上げず噛みしめるように嗚咽し、そんな顔を澄に見せまいと顔を背け、背負っていたアキをゆっくりと降ろし、捜索隊の一人に彼を預けた。
「……帰るよ」
円はそう言い残し、その場を去ろうとしたがそれを制したのは刃鬼だった。
「円くん。今日はもう遅い。ウチに泊まっていきなさい」
刃鬼は優しく語りかけるが、円は俯いたままだった。
「……」
「お風呂に入って、ご飯を食べなさい。そうすれば、少しは元気がでるよ」
「……」
「……これは会長命令だよ、円くん」
「……はい」
そして円は深く腰を折るように
「ありがとうございます」
円の声は涙と鼻水に
そして彼は虎子の方をちらりと見やり、
「では、後の事を」
そう言いかけた。
それがどういう意味を察した虎子は一歩前へ出て、
「わかった」
……と、彼女がそう言う直前。
刃鬼は言葉の続きを声に出した。
「お願いします……」
?
お願いします、とは他人行儀な。
虎子の眉間に皺が寄るが、それは刃鬼の言葉ではなくその視線が
刃鬼は虎子を見ていなかった。
虎子の隣に立つ、見たことのない女性に声をかけていたのだ。
そして刃鬼は最後にその人物の名を呼んだ。
「
『芙蓉』と呼ばれたその女性。
防寒着の下から覗く白衣と、刃鬼の『先生』という敬称から、恐らくは医師であると推察は出来た。
そしてその白く長い髪はまるで雪のように儚く、美しい。
魔琴の銀髪の様な明るさとは違う、神々しいその色合いは単に『白』というには物足りないだろう。
さらに表情を意図的に隠すような影のある美貌は神秘的であり、厳かですらある。
長身とは言えない程度の身長だが、そのプロポーションの良さは平均的な女性の数段上をいくだろう。
一切の文句無しに『美女』と形容できるであろうその人物を、虎子は全く知らなかった。
「誰だ? お前は……」
慄く虎子。それは隣にいると認識するまでその気配を一切感じなかったからだ。
それは一流を自負する武術家にあるまじき失態であると言っても過言ではないだろう。
「……」
『芙蓉』は虎子にその伏し目がちな瞳を向けるだけで何も言わず、ただ一寸目を閉じて、ゆっくりとアキの元へ向かった。
「芙蓉先生! こちらです」
捜索隊のひとりが彼女に声をかけると、他の隊員も同じ様に彼女をアキの側へと案内する。
彼女は……いや、その場の全員が、まるで元から『芙蓉』がそこにいたかのように振る舞っていた。
虎子は呆然としていた。
自分が知らない人物を、皆は旧知のそれの様に接している。
「だ、誰なんだ……あの女は……」
『芙蓉』はアキの容態を診ると医療班を呼び、何事かを指示していた。ただ、その際も彼女は感情に乏しいその表情を崩す事無く、また必要以上に言葉を発する様子も無かったが、そこに冷たい印象は受けなかった。
その様子から彼女はやはり医師の様だが、虎子の記憶では武人会にはもちろん、仁恵之里に『芙蓉』という名の
「お姉ちゃん?」
不意にリューが虎子に声をかけた。
「あ、ああ、リュー……」
「アキくんは芙蓉先生が診て下さるそうです。先生がついているなら、もう心配は無いですね!」
リューも皆と同様、芙蓉の事を知っている。彼女が何かを隠したり、演技をしていたりという気配は無論の事だが、無い。
「お姉ちゃん、どうかしましたか?」
「……いや」
虎子は震えそうな声を必死に抑え、平静を装ったが……。
「具合でも悪いんですか?」
リューが不安そうに声のトーンを落とした。
「いや、大丈夫だよ」
「でも……足が震えてますよ……?」
虎子は言われて初めて自覚した。
彼女の膝は、自分でも無様に思う程に震えていたのだ。
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