第193話 愛が止まらない

 虎子が感じていたのは恐怖ではない。

 それとはもっと別な感情が、彼女の心にもやの様に覆い被るのだ。

 

 それにこの感覚……その靄のような感覚に覚えがあった。

 しかし、それが何かにはついぞ思い至らなかった。


「こ、今夜は冷えるからな……おお、寒い寒い」

 虎子は足の震えを戯けるようにして誤魔化すが、果たして上手く出来ただろうか。


 自分自身でも怪しく思うほど、平常心を欠いている。

 その自覚もあった。


(……落ち着け!)

 虎子は心の中で呟く。そうやって、自分自身に言い聞かせているのだ。

(状況判断をしろ……!)

 そうとは悟られないように呼吸を深くし、周りをよく観察する。同時に動揺を押さえつける。


 見る限り、やはり『芙蓉』に対して皆の対応は『自然』だ。違和感は無い。

(彼女を知らないのは私だけなのか……?)

 刃鬼はどうだ? 蓬莱は? 老師は……。


 そんなふうに考えていると気持ちは自然と落ち着き、冷静さも回復していく。

 彼女の心の靄が晴れる頃には、『芙蓉』が自分の目の前に立っていても取り乱す様な事は無かった。


 彼女はアキの処置を医療班に任せ、一旦彼の元を離れた……という様な状況と言えたが、虎子はそれを少しだけ不自然に思った。

 この状況でわざわざ自分の前にやってくる理由は無いように思えるからだ。

(私を意識しているのか……?)

 芙蓉の感情に乏しい表情からはその心のうちは窺えない。

 だが、その伏し目がちな瞳は口程に物を言う。


「……アキは容態はどうだ?」

 だから虎子は芙蓉に対して言葉をかけた。

 それはある種の『カマ』であるとともに確認でもある。

 虎子は芙蓉が虎子にだけ素性を伏せているのか否かを確かめたかったのだ。


「アキは相当な爆発に巻き込まれた様だが、大事は無かったか?」

「……」

 ややあって、芙蓉は囁く様に答えた。

「……大丈夫。すぐに目を覚ます」

 それは小さな鈴が鳴るような声だった。

 と同時に、救護班の誰かが声を張った。 

「国友さんが目を覚ましたぞ!」


 わあっ、と歓声が上がった。

「お、お、お姉ちゃんんん!」

 浮足立つリュー。彼女の瞳はすっかり輝きを取り戻していた。

「ああ、行ってやれ。私は芙蓉彼女と話したい事があるんだ」

「はいっ!」

 虎子に促され、リューは芙蓉に一礼してアキの居る救護所まで駆けていった。


 救護所には澄や常世の姿もあった。

 アキは特に大きな怪我も無い様子だったが、消耗著しい事は遠目に見ても明らかだった。

(よく頑張ったな、アキ……)

 その様子に目を細める虎子。

 しかし、すぐにその瞳に鋭さを戻した。

 今自分が直面している問題と向き合う必要が、彼女にはあったのだ。


「芙蓉、と言うのか」

 今なら訊ける、訊くなら今しかないと覚悟を決め、虎子は芙蓉に問うた。

「お前は何者だ?」

「……」

 芙蓉の唇が微かに動いた。

「……っ」

 しかし、それはすぐに静止して虎子の質問に答えることは無かった。

 むしろ開きかけた唇は固く閉じ、強く結ばれてしまったのだ。

 何事かと芙蓉の視線の先を見やると、そこには満面の笑みをたたえた平山不死美がいた。


「あら」

 不死美はどこかわざとらしく言う。

「あら、あら」

 ゆっくりと近付く黒いドレスに気圧されるように、芙蓉の白衣の裾が半歩ほど下がる。

「あなたからお出ましになられるとは……これは嬉しい誤算です」 

「……」

「『芙蓉ふよう みね』さん、ですか」

「……」

「素敵なお名前ね」


 妙な会話だ。

 このふたり、知り合いなのかそうでないのか……不安になるような会話の内容と、雰囲気だった。


 不死美は悠々と構え、芙蓉はどこか萎縮している様に見える。

 そこには上下関係、というよりも『主従関係』の様なものが見え隠れしていたのだ。


 そこへレレがやってきた。

「不死美様、国友さんは大きなお怪我も無いようです。とてもお疲れの様子ですが……あれ? こちらの方は、お知り合いの……」

 芙蓉に気付いたレレの動きがぴたりと止まった。そして。

「……ぁ、ぉ、ぁ……っ」

 レレは言葉を失い、戦慄わななくように芙蓉を凝視する。

 それは誰がどう見てもを思わせた。 

「ふ、ふ、ふしみさま……し、し、しゅ……」

「レレ」

 不死美は微笑のままレレに目配せをした。

 その口元はきゅっと結ばれ、『何も言うな』と命じている様にも思われた。


 そして不死美はレレの視線を遮る様に彼女の真正面に立ち、くるりと振り返って芙蓉と対峙した。

「今日はここで失礼いたします。国友さんによろしくお伝えくださいましね、姫様」

 芙蓉の方を向きつつ、瞳だけを彼女の隣に立つ虎子に向ける不死美。

「あ、ああ……」


 周りは慌ただしく、この会話を聞いている者は誰もいないだろう。

 だから虎子は『姫』と呼ばれてもしたる反応もしなかったが、不死美はそのあたりも承知の上だったのかもしれない。


「芙蓉さん。が魔琴や羅市さんをのですね。であれば、最初からこうするおつもりだったと……」

「……」

「あなたは本当に素敵です。いつもわたくしを楽しませてくれる。わたくしは、そんなあなたを心の底から敬愛しておりますわ……」


 不死美は一歩前へ出て、おもむろに右手を差し出すと芙蓉の頭を優しく撫でた。


 それは優しく優しく……まるで愛玩動物ペットを愛でるような優しさだった。

 同時に、人としての尊厳を侮辱するような嘲りも含んでいるように、虎子には思えた。

 何故なら芙蓉の瞳が涙で潤み、その乏しい表情には僅かだが、明らかな屈辱が見て取れたのだ。


「おい」

 だから虎子は声を上げた。

せ、平山」

 そして虎子の右手が不死美の右手首を掴んだ。

「嫌がってるじゃないか」

「……ふふ。そうでしょうか?」

 しかし不死美はそれに抵抗するでもなく怒りを抱くこともなく、ただ楽しそうに笑っていたのだ。


「……わかりましたわ。そういう事であれば、わたくしはわたくしに出来ることを。あなたにはあなたに出来ることを。お互いが力を尽くし、和平を実現するために粉骨砕身の努力を致しましょう」

 その言葉は虎子に向けられたものでは無いことは明らかだった。

 不死美の瞳は、芙蓉を見つめていたのだ。


 不死美が一歩下がると、彼女とレレの足元に闇が踊った。

「それでは御機嫌よう、姫様……そして」

 不死美が一礼し、闇が彼女たちを連れて行く、その刹那。


須弥山しゅみせん様」


 その言葉だけを残し、不死美は去って行った。











「は?」

 虎子はわけも分からず芙蓉を見た。

「え、誰?」


 誰の事か?

 どう考えても自分ではない。

 ……で、あれば。

「しゅみせん……っ!?」


 突然、虎子の視界がぶれた。

 そして脳を直撃するような激痛……!


 彼女はふらりとよろめき、バランスを崩して卒倒しかけるが右足を激しく踏み込みそれを堪えた。


 その間、虎子の脳内には様々な映像……記憶が、凄まじい速度で逆再生されていた。


 現代、戦後、そして500年前……その速さは凄まじくそれぞれを認識することは出来なかったが、の意味する事は掬い上げることが出来た。


「須弥山……須弥山芙蓉宝望天狐しゅみせんふようほうぼうてんこ……!?」


 この寒さだと言うのに虎子の額には汗が滲んでいた。

 そんな虎子を、芙蓉……いや、須弥山芙蓉宝望天狐は何も言わず、ただじっと見詰めていた。


「『神』が……『マヤの神』が、何故ここに……!?」

 震える虎子の声。

 しかし、返答は無い。

「……」

 彼女はただ俯き、その拍子にはらりと垂れた神々しい白髪はくはつが、まるで御簾みすのようにその美貌を隠していた。

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